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(四)虐待
 「ど、ど、ど、どうしたの?」
 太一は吃りながらやっとの思いで口にした。高校の帰り、何やら雪でも降りそうなどんよりとした雲が空を覆っていた。その声に立ち止まった乙女は、驚いた表情を隠しきれずに「えっ?」と立ち止まった。
 「そ、その顔の傷、なんだか見かけるたびに増えていない?」
 乙女は頬の下の傷を手で隠すと、何も言わずに太一の脇を通り過ぎた。
 「まって!」とその腕をつかむと、
 「放して!大声あげるよ!」
 と乙女は言った。慌てて太一は手を放した。乙女はそのまま太一を睨み付けると、「ふん!」とそっぽを向いて走り去った。残された太一は寒い風に吹かれて立ち尽くした。
 翌日───。再び太一は同じ場所で乙女を待った。今度はここまで来る途中の自動販売機でオレンジジュースを買って、それを渡そうと差し出したままの姿勢で、目の前を通りすぎる彼女を見送った。
 三日目───。今度は近くのコンビニでプリンを買って同じ事をした。しかし、乙女はまるで太一を無視するように、何も言わずに通り過ぎるのだった。
 品を変え、何日同じ事を繰り返しただろう───。ついに渡そうとする品の種類に尽きて、その日は絆創膏を買って待った。そしてその日、乙女は、太一の前に来るとピタリと立ち止まったのだった。
 「バッカじゃないの!」
 その言葉に応えるように、この年の初雪が降り出していた。雪は乙女の唇の横の剥がれそうな絆創膏の上に乗って静かに消えた。太一は買った絆創膏の封を切ると、中から新しいのを一つ取り出し、彼女の唇のそれと貼り替えた。
 「へんなヤツだな!」
 乙女はそう言うと、はじめて笑った。
 「俺、馬場太一。よろしく」
 太一が右手を出すと、乙女も右手を出して握手を交わした。
 「私は……」
 「君の名前、知ってるよ。林美幸さんだろ?須坂の看護学校に通う三年生……。ごめんなさい、君の事が気になって、以前、ストーカーやっちゃった……」
 「六カ月以下の懲役または五十万円以下の罰金ね」
 美幸はそう言うとケラケラと笑い出した。
 「でも、あんたの観察、ちょっと違ってる。実は看護学校一年留年の二年生。本来なら准看護士として既に働いてなきゃいけない年齢。私、バカだから」
 「そんなことない!とってもきれいだ……」
 「はあ?」
 美幸は再び声をあげて笑った。紛れもない、その美しい乙女は、山口脳神経外科医院院長山口浩幸と、初婚の妻美津子との間に生まれた娘に違いなかった。
 それをきっかけに二人は付き合いだした。毎日学校が終わると、目的もなく市内を歩き回ったり、たまに長野電鉄に乗って長野市街に出かけてはデートを楽しむようになっていった。最初は堅く口を閉ざしていた身体の傷の事も、美幸が太一に心を許すに従って、徐々に真相を話すにいたったのである。
 「私の父さん弁護士やってんだけど、ろくに仕事もしないで毎日お酒を飲んでる。あげくにその鬱憤を私にぶつけて言うの。『早く働け!』って……。中学校に入る前からそんな状況だったから、私は勉強もする気になれないで、こんなにぐれちゃった……」
 「でも看護士さんになろうなんて立派だと思う。俺なんかこの年になって、いまだに将来何になろうかなんて考えていない……」
 「お母さんが昔薬剤師やってたの。なんか分からないけど、人の生命にかかわる仕事っていいなあなんて柄にもなく思った時があって、それで看護士になろうって思ったの。でも、父さんの暴力がひどい時があって、私、死のうかって思った。それで一年留年になっちゃった。でも、来年の四月からはもう職場が決まっているのよ。蛍ケ丘に山口脳神経外科医院ていうお医者さんがあるんだけど、そこ。お母さんの昔の知り合いのお医者さんがいて、その人にお願いしたんだって」
 「ふうん……。よかったじゃない」
 その年のクリスマス───。その日太一は、暇そうな姉の百恵から食事に誘われたが、「ちょっと用事があるから」と断った。百恵は不審そうな顔をしたが、太一はあまりに姉が可哀想だったので、「新津さんとは会わないの?」と聞いてあげた。「仕事で忙しいらしい」という返答だったが、クリスマスの夜に一人で過ごさなければならない姉が、なんだか無性に惨めに見えた。
 その頃美幸は、太一とのデートに備えて、着ていく洋服に迷っていた。その仕草を先程から横目でのぞきながら父の武は酒をあおっていた。
 「美幸!さっきからそわそわしやがって!一体どこに行こうというんだ!」
 美幸は父の言葉を無視して、そのまま仕度に専念した。
 「お姉ちゃん、デートらしいわよ」
 妹の香澄が武に告げ口した。すると武は俄に表情を変えて美幸の前に立ちはだかると、
 「てめえみてえなガキにうつつを抜かす物好きな男もいたもんだ!」
 と次の瞬間、美幸の頬を殴りつけたのだった。美幸はそのまま壁にぶつかって倒れ込み、頬はみるみるふくれ上がって、目は赤く充血し、そして何も言わずに武の顔を睨み付けていた。
 「なんだ?その目は!父親に逆らうのか?」
 武は倒れた美幸を何度も蹴った。
 「そんなデートなんかしてる暇があったら勉強しろ!母さんのおかげで山口医院への就職も決まっているんだ!早く働いて家に金を入れるのがお前のせめてもの親に対する恩返しだとは思わねえのか!」
 「ちょっとやめなよ、あんた」
 騒ぎを聞きつけて美津子が姿を現した。
 「いくら山口医院の院長に恨みがあるからといって、この子を殴る事はないじゃない。この子は私たちの大事な長女よ」
 美津子は美幸を抱きしめた。そして言った。
 「いい?美幸。母さん、昔、あの院長先生にひどい事されたの。母さんがあなたをあの医院に押し込んだのは、その復讐をするため。それを忘れないで。父さんだってあの先生のせいで裁判に負けてからこんなふうになったのはあなたも知ってるでしょ?別にあなたが憎いわけじゃないのよ。ただその不満を誰にもぶつける事ができずに、あなたに当たってしまっているだけ。許してあげて、本当は弱い男なの」
 「母さん……」
 美幸は美津子に抱きついた。「まあ、こんなに顔が腫れちゃって……。美人が台無し」と、美津子は冷たい手で美幸の頬を触った。
 部屋で鏡を見ながら美幸は泣いた。そして携帯電話を取ると太一にかけた。
 「太一……、ごめん……、今日、私、行けなくなった……」
 「どうしたの?泣いているの?何があった?……」
 太一の言葉を最後まで聞かないうちに、美幸は電話を切った。
 美幸はその後、年明けまで看護学校を休んだのだった。
 その日は雪が降っていた。近年稀に見る大雪で、辺りの景色は白一色に染まっていた。毎日のように美幸の帰り道に立つ太一の手は、凍てつく空気で氷りそうだった。電話をかけても美幸は出ない。家の前まで行ってはみるも、彼に呼び鈴を押すほどの勇気はなかった。結局いつもの場所で待つしか手段を知らず、心まで凍てつかせながら美幸が通るのを待つのだった。そして三学期が始まって数日後、ようやく遠くから歩いてくる赤いコートを着た彼女を見たのである。
 「美幸!」
 思わず太一は駆け寄った。美幸は太一の姿を見つけると、「ごめん」と言って太一の胸に顔をうずめた。日が暮れて辺りはすっかり暗かった。
 「いったいどうしたんだよ!」
 美幸ははぐれた小鳥が母鳥を見つけた時のように、太一の胸でいつまでも涙を流していた。
 「分かった。もう何も言わなくていいよ……」
 太一は美幸を抱きしめた。美幸の身体は冷え切った太一の身体よりも冷たかった。
 「そうだ、今度の休み、スキーにでも行かない?菅平。昔、家族とよく行ったんだ」
 「スキー……?」
 美幸は涙を拭きながら顔をあげた。
 「でも私、道具、何も持ってないよ……」
 「大丈夫。俺の姉貴のがあるから、それを貸してあげるよ」
 美幸は幼子が飴をもらった時のように無邪気に微笑んだ。そして二人は、降り止まぬ雪の中、須坂駅までの道のりをゆっくり歩いて行った。