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(三)気になる出会い
 コスモス園は百恵の勤めるコンビニから数キロも離れていない距離にある。周囲は一面のリンゴ畑、主要道を脇にそれた細い市道沿いにある、須坂市では一番大きな老人介護施設であった。なぜ彼女が知っているかといえば、自宅からコンビニまでの道すがら、『山口脳神経外科医院』という医者があり、その看板のすぐ脇の交差点に『老人介護施設コスモス園』への標識が立っていたからである。
 『山口脳神経外科医院』の看板は、ずっと気になっていた。別に脳神経外科に興味があるわけでないし、その医者に関わる用事もなかったが、あえて言うなら昔祖母が通院していた医者であるほかは、まったく気になる理由などないはずの看板が、彼女の気をずっと引いていたのは“山口”という文字だった。
 山口という名の男性と結婚できればどんなにステキな事だろう……。
 それは乙女が描くミーハー的な憧れだったに相違ない。そんな事は百恵自身知っていた。二十四歳も終わろうとしているのにそんな幻想的な世界にうつつを抜かす年でもないが、いつも何となく気になって、山口医院の脇を通りすぎる時は、いつもその看板を見るのを忘れなかった。

 その日の勤務は遅番だった。遅番はお昼から夜の十時までの勤務で、十時からは深夜勤務の男性と交替となる。それまで、夕方まではパートのおばさんと、夕方からはバイトの学生と一緒に店を任される。
 仕事はいつも単調なもの。レジで精算をする仕事はもちろん、トラックで運ばれた商品を陳列棚に並べる他は、お客さんが商品を買いやすいようにきれいに並べたり、ゴミの処理や店内や店の周りの掃除、接客はマニュアル通りに対応すればいいし、慣れるまでは大変だったが、慣れてしまえばどうでもない、ただ時間を過ごすだけの平凡なものになっていた。合間を見ながら介護ヘルパーの資格を取得するための勉強をする余裕までできるようになったのである。
 そんな百恵に、最近、少し気になる人が現れた。
 おそらく以前から同じように、同じような時間帯に、同じような服装で来ていたのだろうが、それに気づいたのはごく最近の事だった。
 年は三十代後半の清潔感のある男性で、たまに三歳くらいの男の子の手を引いてやってくる。買う物といえば毎日カップラーメンと煙草。たまにビールを買う他は、変わった物を持ってきたかと思えば、それはトイレットペーパーや歯磨き粉などの日常用品だった。三歳くらいの男の子を連れて来る日は、自分でカップラーメンを選んだ後は、子どもに好きな物を選ばせて、笑いながら、
 「これでいいのかい?」
 と言ってレジに来る。何だか幼少の自分とおばあちゃんを見ているようで、最初はその光景が微笑ましかったのだ。二人の会話の中で知り得る事は、子どもの名を“大樹”といい、二人が父子であるということのみで、それ以外は何も知らない。特別話をするわけでなし、レジで数百円のお金のやりとりをするだけのただの店員と客の関係だった。しかし遅番の時は、いつも九時半頃になると必ず彼が現れるのである。
 今日は子どもの手を引いてやってきた。そしていつもの様にカップラーメンの陳列棚の前で品定めをしている間、幼い子どもはお菓子の陳列棚の前で、ヒーロー物のおまけが付いた商品を選ぶのである。
 「どうだ?大樹、決まったかい?」
 「パパ、これ……」
 「これでいいのかい?じゃあ、これを買って帰ろう」
 二人がレジに来てカップラーメンとお菓子の精算をすると、彼は財布から千円札を取り出した。
 「千円お預かりいたします。六百八十三円のお返しです」
 ふと、つり銭を返すその手が触れた時、百恵は何か得体の知れない特別な感情が込み上げるのを感じていた。男はひとつ微笑んだ後、
 「ありがとう」
 と言って、再び子どもの手を引いて店を出て行った。
 車に乗って来る様子もないので、きっとこの近くに住んでいるに違いないが、何かとても気になって、妄想の中で彼の詮索をするようになったが、その名も家も百恵が知る由はなかった。