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(二)太一の恋
 百恵が年休の七瀬の替わりに入所相談に対応したのは、遅番出勤してすぐの三時頃の事だった。訪れたのは痴呆症の妻を抱えた七十代の小林と名乗る男性で、すっかり疲れ切った表情を隠せない様子で、
 「私の方が入所したいくらいです……」
 と言った。事情を聞くとこうだった。
 現在妻は六十八歳。三年前にアルツハイマーと診断され、以来ずっと夫の彼が介護を続けてきたと言う。子供は娘が一人、現在はご主人の実家のある神奈川に住んでいて介護ができる者は彼ひとり。発病以来、病院やデイケアを転々としてきたが、ようやく受け入れてくれるデイケアを見つけたものの、妻にはまだ体力があり、デイケアのある平日も、朝と夜は戦争の様相を呈すると言う。朝は朝で肉体的な格闘をしながらおむつ交換や着替えに一時間から二時間の時間を要し、夜は夜で家の中をぐるぐる歩き回って訳の分からない言葉で泣き叫んで毎晩のように寝かせてもくれない。トイレに入った後は自分の排便を手でつかみ、その手をズボンやシャツで拭いたり、あるいは顔や髪の毛を触ったりで、家中のそこかしこに便が付着していると言う。手を洗ったりお風呂に入る事は非常に嫌がるので、衛生的にも悪く、清潔を保つ事は至難のわざ。仕方なく可哀想だと思いながらも強制的に手を洗わせ、気づけばつい怒鳴っていると言う。また、デイケアが休みの日なども、家の中にいる時は落ち着いて座っていることもできず、また彼のそばを離れずに、どこへ行くにも怖いくらいにべったりと付きまとう。たまに外に出てみれば、活動的な妻は誰の後にでも付いて行ってしまい、振り向くとその姿がないのはよくある事だった。幸い彼は年金暮らしで仕事はしていないが、介護保険認定五度を受けているものの、毎月かかる費用は思いの外で、経済的にも切迫していると語った。
 「病気だから仕方がないと自分に言い聞かせてはみるのですが、心身ともに疲れ切って、どうしても怒鳴ったり、押し倒したり、椅子に無理やり座らせたりしてしまうんです。気がつけば妻に対してひどい言葉を発している私がいます。毎日が本当に辛い戦いなんです。そして、この病気を分かってくれる人は、私の周りにいませんのです……」
 男は涙ながらにそう言った。
 「いくつもの病院で、いくつもの薬なども試してみましたが効き目はありません。しかし私は妻を愛していましたから、告知を受けた時は死ぬまで私が面倒を見ようと決意したんです……。しかし、しかし、愛なんて言葉で片付けられない、もう限界なんです……」
 もらい泣きの百恵は、入所希望者状況記録用紙に涙をボタボタこぼしながら、必死にその話を記入した。
 「分かりました。なんとか上に頼んで、受け入れられるよう尽力します」
 「ほ、本当ですか!」
 小林と名乗った男は百恵の手を握りしめて「ありがとうございます」と何度も何度も繰り返すのだった。
 果たしてその話を介護主任の丸腰に伝えれば、
 「ちょっと厳しいわね……」
 と一言であしらわれた。「どうしてですか?」と聞けば、
 「施設というのは集団生活をする所なの。あなたも知ってるでしょ?この記録を見る限り、とても集団生活ができるようには思えないわ」
 「でも、小林さんはとても大変な思いをして奥さんの介護をしているんです!」
 「それは分かるわよ。この記録を見ればあなたの感情移入まる出しだし。でもデイケアの受け入れが見つかっただけで幸いと思わなきゃ。それか、もう一つ手があるわ……」
 百恵は目を輝かせた。
 「離婚する事ね。痴呆は“離婚するために必要な理由”になるという判決が、何年か前の長野地裁で出されたわ。離婚すれば行政もその奥さんを放ってはおけないでしょう」
 「もういいです!」
 百恵は施設長に直談判する決意をして施設長室の扉をノックした。
 「どうぞ」
 扉を開ければ施設長はおらず、替わりに施設理事の須崎がその業務を代行していた。
 「高野施設長にお話があって来ました!」
 「施設長は出張で山形へ行きましたから、替わりに私が聞きますよ」
 百恵は先程取った状態記録用紙を須崎に渡した。
 「なんだい、これは?文字が沁みだらけじゃないか」
 「この方の入所の許可を下さい!」
 須崎は内容を読みながら鼻で笑いだした。
 「君は介護状態の調書もろくに取れんのか。それに入所相談係は七瀬君のはずだが、ここに話を持ってくる前にきちんと筋を通しなさい。仕事の進め方も知らないのかね」
 「でも、この方は……」
 「ああ、もう忙しいから下がりたまえ!」
 憤然としたが、百恵は何も言えずに突き返された。

 「なぜだろう……?介護施設って、高齢者の介護をするのが目的なんじゃないの?」
 仕事から帰ってひとり部屋のベッドで横になり、腑に落ちない思いに憤りを重ねながら、入所相談員でもある七瀬が以前言っていた言葉を思い出していた。そんなところへ、部屋の戸がノックされ弟の太一が姿を現した。
 「太一、どうしたの?こんな時間に……」
 時計を見れば既に夜中の十二時を回っていた。百恵は身体を起こすと、机の椅子を出して太一を座らせ、自分はそのままベッドに腰掛けた。
 太一とは年が十歳も離れ、赤ちゃんの時から世話を焼いてきたたった一人の弟である。年が離れているため姉弟喧嘩なども一度もしたことがない。勉強もよく見てやった。何か相談があるといえば、いつも他の事をさしおいてまでその相談に親身になって乗ってきた。だから太一にとって百恵は姉というより良き先輩というか、どちらかというと母親に近い存在であった。現在は地元高校の三年生である。
 「ちょっと相談があって……」
 「なあに?進路相談?」
 「それもそうなんだけど……」
 太一は少し言いにくそうに俯いた。
 「姉ちゃん、人を好きになったことあるか?」
 太一は恥ずかしそうに下を向いたまま言った。
 「そりゃあるわよ。あなたより十年も多く生きているんだから。なんだ、恋愛の相談?」
 太一はもぞもぞしながら話し出した。
 「学校の帰り、いつも看護学校に通う一人の女の子とすれ違うんだ。なんだかとっても寂しげで、いつも悲しそうな表情をして歩いているんだ。最初は気にもしなかったんだけど、ある時すれ違うときに目が合った瞬間から、なんか好きになっちゃったみたい───」
 「青春してるじゃない!美人なの?」
 百恵は面白がって囃し立てた。
 「すっげえ美人!でも姉ちゃんの方がちょっと美人かな?そう言わないと怒るでしょ」
 太一は冗談を交えながら続けた。
 「それでこの間、もうたまらなくなって彼女の後をつけていったんだ……」
 「あなた、それストーカーじゃない!犯罪よ!」
 「えっ?そうなの?」
 「それでそれで、どうしたの?」
 太一は切ない胸の内を告げた。
 後を付けて行くと、やがて彼女は長野電鉄に乗って“信濃吉田”駅で降りた。そしてたどりついた所は『林弁護士事務所』という看板をかかげる家だった。太一は気づかれないようにそっと表札をのぞき込むと、彼女の名が『林美幸』である事を知った。悦び勇んで帰ったが、数日後いつものように彼女とすれ違う時、目の下に絆創膏が貼ってある事に気づいた。そればかりではない、半袖のシャツからのぞかした細い美しい腕には大きな痣ができていたという。太一は急に心配になったが、声をかける事もできなかった。その後も彼女が気掛かりで、いつも彼女の帰る時間に合わせてその道を歩いたが、古い傷が治ったかと思えば別のところに新しい傷を作っているというように、彼女の身体には絶えずどこかしらに生傷があると言うのだ。
 「学校でいじめにあっているんじゃない?それとも家庭内虐待?」
 「それは分からないけど……。俺、どうしたらいいかな?もう、黙って見ているなんて耐えられないんだ……。姉ちゃんならどうする?」
 「そうね、とにかく本人から事情を聞いてみないと何とも云えないわ。もしかしたら柔道か何かをやっていて、猛練習をしているなんてこともあるじゃない。お姉ちゃんならね……」
 百恵は後先も顧みず、浩幸に告白してきた自分の言動を思い返していた。
 「多分、勇気を出して“どうしたの?”って聞いちゃうな……」
 「“どうしたの”か……。それいいね。俺、最初に切り出す言葉がどうしても思いつかなかったんだ。姉ちゃん、ありがとう!それでいくよ!」
 太一は急に明るくなって、「じゃ、おやすみ」と立ち上がった。時計は既に一時を回っていた。
 「ねえ、太一……」
 百恵の言葉に太一は振り返った。
 「どうしてその子の事、そんなに好きになったの?」
 「そんなの分からないよ。でも、寂しげな彼女の姿を見ているうちに、俺が彼女に何かをしてあげようって……。支えてあげたいというか、守ってあげたいというか、ずっとそばにいたいというか……。俺はそんなに力のある人間じゃないと思うけど、彼女のためにこの身の全てを捧げてもいいって思うようになったんだ……。もう、彼女じゃなきゃダメなんだ」
 「そう……」
 百恵は太一の中に、自分と同じ血が流れている事を確認した。まさに浩幸に対する自分の思いと寸分も違わなかったからだ。
 「馬場家の血ね……。頑張ってね……」
 太一はガッツポーズを作って自分の部屋に帰って行った。