> 第2章 > (一)四年後
(一)四年後
 夏が終わり、蛍ヶ丘の中央部を走る大通りの銀杏並木は、秋色に染まった金の葉を静かに揺らせていた。北信濃を囲む山々のパノラマも、すっかり黄や赤や茶の紅葉に包まれ、北東からはやや寒気を帯びた風が吹き込んでいた。
 昼休み、コスモス園の屋上から透き通った空を眺めていた百恵と七瀬は、無性にアイスクリームが食べたくなり、ジャンケンで負けた百恵は、コスモス園からほど近い以前にバイトをしていたコンビニへ買いに出たのであった。
 馬場百恵、二十八歳───。四年の歳月は、彼女の環境を様々な意味で変えていた。
 中でも大きな変化は、念願の介護福祉士の資格を取得したことであった。働きながらひたぶるに勉強に没頭した日々は、思い返すのも辛い。悲しいあの日の出来事を忘れるために、勉強をする事しか思いつかなかったのだ。仕事が終わり家に帰ると、大学受験の日々を彷彿とさせるように、机に向かって参考書や専門書を紐解いた。しかし、少しでも集中力がなくなると、浩幸の事が思い浮かんで自然と涙がこぼれるのであった。その歳月はまさにその切なさとの戦いでもあった。そんな百恵を心配して、たまに俊介は外に誘った。寂しさを紛らわすため、また、気分を晴らすために百恵は彼の誘いに甘えた。
 それでも早番の水曜日には浩幸と顔を合わさなければならなかった。この時ほど辛い事はなかった。来年の医療法人化へ向けて、新しくリハビリ室の隣りに診察室が作られて最新の機材も次々に導入され、また、それまでの居室に加え病室の設置や、医療対応型のナースステーションへの設備拡張、また、売店の充実など、施設のあちこちではその工事が盛んに行われていた。変わりゆくコスモス園の中、浩幸は別段変わった様子も見せず、ただ淡々と診察をするだけだった。その顔を見るたびに、百恵の心ははりさけそうだった。
 そんな日々の末、今年の一月、国家試験である介護福祉士筆記試験をパスし、続けて行われた三月の実技試験に合格し、晴れてその資格を取得する事ができたのである。伴ってコスモス園での役職も交替A班の介護リーダーへと昇格された。六名いる介護スタッフの取りまとめや介護老人の管理責任を担いながら、様々なスケジュール調整などをする役である。いまやコスモス園の中核スタッフとして活躍するに至ったのである。
 大学時代の友人では、彩香が結婚して子供を産んだ。相手は山中かと思いきや、自営の美容院で知り合った化粧品販売業者のセールスマンだと言う。百恵は呆れて「勝手にしなさい」とぼやいたのを覚えている。また高梨も同じ役所勤めの女性と結婚し、大きなローンをかかえて家を建てた。唯一変わらないものといえば、七瀬との関係、俊介との関係、そして浩幸との関係だけだったかも知れない。
 百恵はコンビニのアイスクリームのケースからモナカを二つ取り出すと、レジで精算を終えて外に出た。そこで小学校二年生くらいの男の子が三、四人つるんで店に入ろうとする光景に出会った。思えば今日は土曜日で学校は休日。ふと、その中の一人、大樹の姿に目が止まった。大樹とは、もう何年も会っていなかった。その小学校への入学のお祝いの言葉すら伝えずにいたのである。話しかけてはいけない苦しみに耐えかねて、つい、
 「ねえ、ぼくたち、何を買いに来たの?お姉ちゃん、おごってあげようか?」
 百恵は大樹を見つめて言った。
 「ダメだよ!知らない人から物をもらっちゃいけないってママが言ってたもん!」
 他の男の子が言った。
 「あら、お姉ちゃん、大樹君の知り合いよ……」
 他の男の子たちは一斉に大樹の顔を見た。
 「おばさん、だあれ……?」
 大樹は首を傾げてそう言った。百恵は悲しみを笑顔に変えると大樹の頭をひとつ撫でて、「そう……、忘れちゃったの……?」と、そのまま銀杏並木の歩道を歩いて戻った。コスモス園への曲がり角、気になる山口医院の建物には目を向けず、その前を駆け足で通り過ぎながら───。

 一方、浩幸の方は翌年の秋に控えたコスモス園統合への大詰めを迎え、その仕事に大わらわだった。従来の脳神経外科に入院する患者や診療に訪れる人達の対応も含め、過労も極度に達していた。浩幸は目頭を押さえながら天井を仰いだとき、院長室の扉がノックされた。
 「どうぞ」
 入って来たのは理事の西園だった。
 「だいぶお疲れのようですね。二、三日休まれたらどうです?」
 「この大事な時に休んでなどいられません。理事の方こそ、私の計画のせいで何日も寝ていないのではないですか?ご苦労をかけます」
 「いえいえ、先代の時の苦労と違い、今回は発展的な苦労ですから苦にもなりません。それより、来年度の看護士採用者の件ですが、そろそろ各看護学校の方へ募集をかけようと思いましたところ、すでにお一人准看護士で内定が決まっているようなので、お伺いしようと思いまして。来年四月時点でまだ十七歳です。誰ですか?この林美幸というのは……」
 「ああ、その子ですか」
 浩幸はコーヒーメーカーのコーヒーを注ぎに立った。
 「院長もご存じのように脳神経科の看護は高度な知識と技術が必要です。中卒の准看護士資格では難しいのではと。それに、准看護士の制度自体見直される方向にある今、果たしていかがなものでしょう」
 「僕の娘です。美津子との。名前を見て気づきませんでしたか?美津子の“美”に浩幸の“幸”」
 浩幸は一口コーヒーを飲んだ。
 「なんと……?」
 「どういうわけか看護士になりたいと言い出したらしくて。それに今、彼女の家の家計が厳しいらしいのです。今の旦那は弁護士をしているらしいのですが、家を助けるために一刻も早く社会に出したいらしくて」
 「弁護士も倒産する時代と聞きましたが、そうでしたか。美津子さんはだいぶご苦労されているのですね」
 「でも、僕と一緒の時より幸せそうでしたよ───。すみませんが来年の四月からうちに来ますので、面倒を見てやって下さい。ああ、それから彼女は僕が実の父親という事を知らないそうですから、それだけは言わないように」
 「はい。わかりました」
 西園はそう言うと院長室を出て行った。

 その頃コスモス園の施設長室では、施設長の高野と副施設長の鈴木、そして施設理事の三役で統合後の役員体制の検討が行われていた。前施設理事は今年の春、既に定年で退職していたから現在はそれまで事務長を務めていた須崎がそれにあたっていた。統合時には高野も定年まで数ヶ月を残すのみとなり、鈴木も定年までは一年足らずの年齢だった。
 山口医院からの役員体制案は、施設代表役を浩幸が務め、施設長を現在山口医院で働く若手医師伝田強志を登用する考えを伝え、高野を施設顧問とし、以下、副施設長を現状のまま鈴木を置き、施設理事には山口医院理事兼任の西園があたる案を提出した。そして、現施設理事の須崎は、事務長への降格を示していた。
 「山口医院側の要請はこのとおりです」
 高野は手にしたコピー厳禁の○秘プリントを三者に渡すとそう言った。それを目にした須崎は俄にワナワナと震えだした。
 「あくまでこれは山口医院側の原案です。統合までにはまだ時間があります。それまでに最も良い体制を考えようではありませんか」
 高野は須崎の表情を気にしながら言った。
 「これではまるで山口医院の言いなりではありませんか!」
 須崎は思わず叫んだ。
 「だから決定ではないと言っているじゃないか。異議がある場合は申しなさい!」
 高野の厳しい言葉に須崎は「別に……」と言った。
 あれから四年───、俄に暗雲を立ちこめながら、心の痴呆の人々は自らの煩悩のままに躍起になって動きだそうとしていた。