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(二十五)待ち人
 白いニュービートルは須坂市を出て、ネオンが光るラブホテルの空室の表示を見つけると、そこに吸い込まれるように消えていった。車を降りると浩幸は百恵の手を引き、フロントらしきところで部屋を選んでキーを取ると、そのまま無言のままエレベータに乗った。手を引かれたまま入った部屋は、今までに見たことのない華やかな装飾に飾られた、ピンクがかった照明のまぶしい空間だった。百恵は部屋を四顧すると、やがて中央に置かれた丸いダブルベッドにゆっくり腰をおろした。
 「なかなかいい部屋だ。はじめて入りました」
 浩幸は据え付けの小さな冷蔵庫からビールを一本取り出すと、栓を開けてゴクゴクと飲んだ。テレビをつければアダルトチャンネルで、百恵は急に恥ずかしくなって俯いた。
 「くだらない……」
 浩幸はそう呟くとまるで興味を示さない様子でテレビのスイッチを切った。
 「どうしました?さっきから急におとなしくなって───。貴方も飲みますか?」
 浩幸は飲みかけのビールを百恵の前に差し出した。それを無造作につかむと、百恵は二口ほど一気に飲み込んだ。
 「ああ……、あまり無理をしない方がいい」
 浩幸は百恵からビールを取り上げた。
 「お風呂とかもありますが、どうします?」
 百恵は悲しげな表情で暫く浩幸をじっと見つめると、静かに立ち上がり、ゆっくりバスルームに入っていった。
 シャワーの音を聞きながら、浩幸はベッドに横たわって煙草をふかした。二本目のビールは半分ほど飲むと、飽きてテレビの上に置いたままだった。やがて十分もすると、百恵はもとの服装で、湿らせた髪の毛を束ねて出てきた。そしてテレビの上の飲みかけのビールを見つけると、「もう一口いただきます」と言って辛そうな表情で呑み込んだ。
 浩幸はベッドから立ち上がると、ゆっくり歩いて百恵の正面に向かい立った。
 いっぺんに酔いがまわった視覚で愛する浩幸を見つめれば、静かに微笑む表情がかすんで見えた。やがて浩幸は、百恵を強く抱きしめた。
 「身体がこんなに震えている───。なぜ、抵抗しないの?」
 浩幸が言った。百恵にも不思議だった。俊介が迫ってきた時などは死にものぐるいになって抵抗した自分が、浩幸の前では抵抗どころか強く彼を求めているのである。
 「先生の胸もドキドキしてる……。どうして?初めてじゃないはずなのに……」
 百恵はとても不可思議な心境になりながら言った。それまでひどく軽蔑していた彩香と山中が出会って最初にした行為や上司の丸腰と事務の大塚との不倫の事───。しかし今、自分がしようとしている行為と一体何が違うというのか?それは須く動物が地球上に生まれた遙か昔から、子孫を残すために行われてきた神聖なる儀式ではないか。百恵は自分の中に、もう一人の別の自分がいる事にはじめて気づいた。浩幸に対する愛の名の下に、その行為の全てを正当化し、それどころか彼女の心には矛盾の微塵もなかったのだ。
 心の痴呆?それとも覚醒……。近寄る浩幸の唇に、百恵は静かに瞳を閉じた───。
 ───しかし次の瞬間、浩幸の口から意外な言葉がもれた。
 「馬場さんはこんな男のためにその身を捧げるのですか?もう、お遊びはやめましょう」
 百恵は自分の耳を疑いながらゆっくり瞳を開いた。そこには恍惚とした仕事の時の浩幸と同じ顔があった。
 「僕が好きでもない女性をこんなホテルに連れ込んで、こんな事をする男だと思いましたか?バカにしないで下さい」
 驟雨の前ぶれだろうか、外で大きな雷の音が響いた。浩幸は百恵から離れると更に言葉を続けた。
 「なんだかとてもガッカリしました。今日、僕は貴方を諦めさせるために誘いました。これ以上僕に執着して、心の傷が深くなったら可哀想だ。少しでもその傷が浅くすむようにと思って……。でもそんな心配をする必要はなかったようだ。貴方は予想以上に図太い精神の持ち主でした。なぜ抵抗しないのですか?僕とこういう関係になるというのは何を意味するか知っていますか?僕の妻になるか、さもなければ、コスモス園を辞めるかのどちらかです。僕は貴方を愛していません」
 再び雷音が鳴り響いた。百恵は大粒の涙をぽろりと落とした。
 「貴方の好きになるべき男は僕じゃない。誰か別の男をあたって下さい」
 百恵は居たたまれなくなり部屋を飛び出そうと駆けだした。
 「ちょっと待って下さい!」
 ドアノブに手をかけたままの百恵に、浩幸は追い討ちをかけるように言った。
 「それから───、もう大樹とも会わないで下さい……」
 衝撃の言葉は、彼女の脳裏を真っ白にさせた。百恵はそのまま部屋を飛び出すと、雷鳴の中をひたすら走り出した。
 部屋に残った浩幸は、感傷的な表情で大きなため息をひとつ落とすと、残りのビールを飲み干した。

 ここがいったい何処なのか?
 次から次へとこぼれ落ちる涙をぬぐいもせず、ひたすら来た道を走り続けた。途中、天から大きな雫が一、二滴落ちてきたかと思うと、次の瞬間、土砂降りの雨となった。暫くはその雨と稲妻の中を走り続けたが、やがて疲れて立ち止まった。肩で息をしながら天を仰げば、大粒の水の塊が容赦なく顔を打ち付けた。
 「この雨が、いっそのこと機関銃の弾ならば、悩むことなく死ねるのに……」
 とめどなく溢れ出る涙は雨水と混ざって、彼女の顔をぐちゃぐちゃにしていた。背後に落ちた稲光が、一瞬世界の造形を浮かび上がらせて消えた。果てしない悲しみは、その音すらとらえさせなかった。
 百恵は膝を落として泣き崩れた。
 「ちょっと!あんた!何やってんの!」
 通りがかりの軽自動車から声をかけたのは、農業婦人風の六十代くらいのおばさんだった。
 「ちょっと、あんた!風邪ひくよ!おいで!」
 雨の音でうち消されて、声は百恵には届かなかった。
 「まったく仕方ないねえ……」と、しびれを切らせたおばさんは、傘を開いて自ら激しい雨の中へ飛び出すと、百恵の手を引いて助手席に押し入れた。
 「こんな時間に若い女の子がずぶぬれになって……。尋常じゃないね。いったいどうしたんだい?」
 おばさんは車にあった農作業に使っている土の匂いのするタオルで、「こんな汚いタオルしかないけど許してね」と言いながら、百恵の顔や身体を拭いてくれた。
 「なんだい、あんた泣いてんの?しょうがないね、家まで送ってあげるから、家はどこ?」
 百恵は「須坂市です」とだけ答えると、様々な質問を投げかけるおばさんの話はまるで聞こえない様子で、激しく動くワイパーだけを見つめていた。
 「まったく婦人会の用事が長引いてよかったよ。でも、こんな大雨になるとはね……。私が通りがからなきゃ、一体どうするつもりだったのさ」
 やがて家の近くまで来ると、ようやく雨も小降りになり、
 「おばさん、もうここで結構です。本当に助かりました……」
 と、百恵は車を降りた。
 「何があったか知らないけどさ、あんまり気を落とさない事だね」
 おばさんはこう言うと笑顔で送り出し、「じゃあね」と、やがて来た道を帰っていった。
 びしょ濡れの身体を気にもせず、百恵は家までの道のりをゆっくり歩き始めた。雨はいったん小降りになったかと思ったが、再びその勢いを増して降り出した。百恵は「どうにでもなれ!」と急ぐつもりもなく、そのままゆっくりと家に向かった。
 ふと、家の玄関の軒先に、傘も持たずにじっと立ち尽くす一人の男の姿があった。百恵は何気なしにそれを見つけると、男を見つめたまま立ち止まった。
 「新津君……?」
 男は俊介に違いなかった。ぐっしょに濡れた姿を見れば、予測できなかった雨を浴びながら、じっとそこで彼女の帰りを待っていたに相違ない。俊介は百恵の姿に気がつくと、笑顔を浮かべて駆け寄った。
 「どうしたの?びしょ濡れじゃないか……。何があったの?」
 「新津君……」
 百恵はいきなり俊介の胸に抱きついて泣き出した。俊介は何も聞けずにそのまま百恵を抱きしめた。土砂降りの雨はそのまま激しく二人を打ち付けていた。
 「新津君、ごめん。本当にごめんね……。今の私は新津君を愛せない。でもね、今、私、誰かが必要なの……。その誰かは、本当に誰でもいいのよ。今だけ、このまま私を抱きしめていて……」
 「いったい何があったの?」
 俊介は百恵を更に強く抱きしめた。
 「ごめん、ごめん……」
 百恵は俊介の胸で泣き崩れた。
 「いいよ。気のすむまで泣くがいいよ。俺は、その誰かが俺であったことがうれしいよ……。待ってるから。百恵が俺のところに戻ってくるのを、ずっと待ってるから……」
 そして彼の心を長い間苛んできた思いを伝えた。
 「この間はごめん。ずっと謝ろうと思ってたんだ……」
 俊介は百恵を抱きしめなら、シャワーのような雨が落ちしきる暗い空を見上げた。この雨が、二人の恋愛に生じた障害の泥を、きれいに洗い流してしまう事を祈りながら───。
 百恵は何も言わなかった。ただ、自分を抱きしめている人物と浩幸の身体のぬくもりを重ねながら、いつまでも泣いていた。