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(二十四)つかの間の愛
 水曜日の定期診察を終えると、浩幸はロビーで遅番の百恵が到着するのを待った。彼女の自分への思いを諦めさせるために、できるだけ早く自分の意志を伝えなければならないと思ったのだ。今日は定期診察の後は取り立てて重要な用事もなかったので、夜は大樹を理事の西園に預け、勤務を終えた百恵にしっかり話そうと思った。
 やがて百恵の白い軽自動車がコスモス園の駐車場に入ってきたのを確認すると、浩幸はゆっくり立ち上がって外に出た。
 「や、山口先生……」
 浩幸に気づいた百恵は一瞬驚いた様子で身体を硬直させた。
 「馬場さん、今晩、仕事が終わったら僕に付き合っていただけませんか?ちょっとお話があります」
 百恵は突然の誘いに、返事に窮した様子で顔を赤らめた。
 「なにか用事でもありますか?」
 「い、いえ……そんな……何にもありません、とっても暇です……」
 百恵は緊張のあまり、やっとの思いで口にした。その脇を、たったいま到着した七瀬が首を傾げながら通りすぎた。
 「それじゃ、仕事が終わったらうちの駐車場に来て下さい」
 浩幸はそう伝えると、徒歩で医院の方へ向かって歩き出した。百恵は茫然とその場に立ち尽くしたままだった。
 二人がずっと気になって、玄関の壁に身体を隠してした七瀬は、浩幸が遠ざかるのを確認して興味津々と駆け寄った。
 「なに、なに?何のはなし?」
 「───デートに誘われちゃった……」
 百恵が茫然としたままぽつんと呟くと、「えーっ!どうすんのよ!」と七瀬は叫んだ。
 「で、いつ、いつ?」
 「今晩……」
 再び七瀬が「ええーっ!」と叫ぶと、百恵はまるで徘徊をするように歩き出した。
 その日はそわそわし通しで、まるで仕事が手につかなかった。時間ばかり気になって、何度丸腰に叱られたか分からない。七瀬との会話も上の空でついには愛想をつかされた。やがて夜勤との引き継ぎが終わると、高鳴る鼓動を抑えきれずに深呼吸をした。
 「ま、なんて言うか複雑な心境だけど、とりあえず頑張って!」
 七瀬にポンと肩を押され、ようやく百恵は車に乗り込んだ。

 コスモス園から山口医院までのわずかの距離を、百恵は胸をドキドキさせながら運転した。果たして医院の駐車場に着けば、白のV・ワーゲン・ニュービートルの中で浩幸が笑いながら手を振っていた。
 「さあ、こっちに乗って下さい」
 浩幸の声に誘われて自分の車を降りれば、化粧は大丈夫かとか、服装はどうかとか、匂いは大丈夫かとか、シャワーを浴びてくればよかったとか、様々な事がいまさらのように頭をよぎった。
 「何をしているんですか?はやく」
 百恵は覚悟を決めて、助手席のドアを開くと、「失礼します」と言って乗り込んだ。
 「どこへ行くんですか?」
 「鮎川ですよ。この時季、あそこにはホタルがたくさん飛んでいるんですよ」
 「ホタルですか?須坂にもまだホタルがいるんですか?」
 浩幸はにこりと笑うと、静かに車を出発させた。
 下八町から菅平方面に向かう県道五十八号線は清流鮎川に沿って走る。六月下旬から七月中旬にかけては、鮎川に生息するゲンジボタルの淡い黄色の光の舞が見られるのである。自然界におけるホタルの寿命は、オスで三から四日、メスで五から六日くらいという観察の報告もあり、浩幸は、美しい光を放ち短い生命を終えるホタルにあやかって、百恵の恋の千秋楽の舞台を選んだのだった。
 やがて浩幸は、栃倉辺りの路肩に車を止めると、降りて鮎川を渡す橋のたもとに立った。
 「馬場さん、来てご覧なさい。とってもきれいだ」
 百恵は緊張の表情を隠せない様子で浩幸の右隣りに寄り添った。
 「わあ───!」
 暗闇の川に沿った手入れのしていない土手沿いに、まさに何千、何万という黄色い光の点がぼんやりと浮かんでは消え、二人の姿を祝福しているように点滅していた。しばらくそのホタルの乱舞する光景を眺めていると、
 「馬場さんは、僕の事が好きですか?」
 突然、浩幸がそう聞いた。あまりの唐突さに、百恵は何も言えずに俯いた。涼やかな風に乗って、ホタルが一匹、彼女の黒髪にとまって光っていた。
 「───どうしてそんな事を聞くのですか……?」
 「……なんだ、嫌いなのか……」
 浩幸のぶっきらぼうな言葉に百恵は瞳に涙を溜めて叫んだ。
 「好きです!いけませんか?どうしようもないんです、胸が苦しくて……。先生が私の事、嫌いでもいい。でも、でも、愛しちゃったみたいなんです!」
 「やっぱり、そうですか……」と、浩幸は百恵の髪のホタルを捕まえて放つと、ひとつため息をついた。
 「僕ね、脳外科医なんてやっていると、たまにこんな事を考えるんです」
 百恵は浩幸の横顔に、その泣き出しそうな目を移した。
 「それは脳移植についての事です。こういう話は嫌いですか?」
 「いいえ、続けて下さい───」
 百恵は涙をぬぐい、笑みを浮かべながら言った。
 「脳は臓器ではありませんから、臓器移植とは根本的に違うものなんですが、今、その研究が世界中で行われています。もし脳移植が可能になれば、アルツハイマーなどの痴呆症の治療にも大きな成果をもたらすでしょう。近い将来、僕は必ず脳移植が可能になると信じています」
 「脳移植ですか……?考えた事もありません。そういえば、がりょう山で先生がしてくださった“りょう姫”の話も、考えようによっては脳移植の話ですね」
 浩幸は百恵の意外な視点に驚いたように微笑んだ。
 「もし、脳移植が可能になれば、ある人の脳を別の身体の人間の頭に移植して、別の人間の身体を自分の物として生きる事ができるのです。どうです?信じられますか?」
 「そんなこと……」
 百恵は冗談を聞き流すように、川辺のホタルの舞に視線を移して微笑んだ。
 「でもできるんです───。馬場さんはコスモス園の須崎理事長は好きですか?」
 百恵は話をそらす浩幸に再び目を向けた。
 「あまり好きじゃありません。なんか事務的というか、お年寄りの気持ちが分かってないっていうか、私、いつも叱られるんです」
 「僕も嫌いだ───。でも仮にですよ、僕と須崎さんが同じ車に乗っていて大事故を起こしたとします。彼は頭を強く打ち脳はぐちゃぐちゃ、いわゆる脳死してしまった。一方、僕の方は首から下の身体がバラバラになり頭だけが残ったとします。そこで僕は強く希望したんだ、『僕の脳を彼の頭に移植してくれ』と───。そして移植手術は成功し、僕は須崎さんの身体を持った僕になり、その後の人生を生きる事になった───。どうですか?貴方は須崎さんの姿をした僕を愛することができますか?」
 「いじわるな質問……。そんなこと、分かりません───」
 百恵は腕にとまったホタルを掌に乗せた。
 「でも、できるような気がします。私は年の差や外見で先生を愛したわけじゃありませんから……」
 「うそだ!」
 声に驚いたのだろうか、掌のホタルが宙に舞って消えていった。
 「うそじゃありません!どうして信じてもらえないのですか?」
 「女は感情の生き物だから!」
 「男は理屈の奴隷よ!」
 すかさず言い返した百恵の小気味よい科白に、浩幸はニヤリと微笑んだ。百恵は我に返ると、「ごめんなさい」と俯いた。
 「ともかく、一時的な感情で自分を粗末にするものではありません。僕なんかのために使う想像の時間を、もっと別な有意義なところに使いなさい。今日はそれが言いたかったんです。さあ、帰りましょう……」
 浩幸が車に向かって歩き出した。
 「一時的な感情じゃありませんから!」
 浩幸は立ち止まると振り返り、再び百恵の前に戻った。
 「それなら貴方は、僕に貴方の全てを捧げることができるとでも言うのですか?財産も、その身体も、心も───」
 「先生が望むのであれば、捧げます……」
 「うそだ!」
 「うそじゃありません!」
 浩幸はいきなり百恵の腕をつかむと、そのまま車に向かって早足で歩き出した。そして助手席のドアを開けると力任せに百恵を車に押し込み、自分は運転席に付くとすかさずエンジンキーをひねった。
 「どうするのですか?」
 「ホテルに行くんですよ。言ったじゃないですか、心も身体も僕に捧げるって……」
 百恵は全てを観念して、シートに寄りかかりもせず、いつもとは違う浩幸の横顔をじっとみつめていた。