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(二十三)重なる怨恨
 『老人介護施設“コスモス園”医療法人化への五カ年計画発表!山口脳神経外科医院と統合。新たなる介護医療への挑戦!』
 新聞や各マスコミの見出しに大きく報じられたコスモス園の新しい高齢者介護体制の発表は、いろいろな意味で社会的な注目を集めていた。特にその構想の発起人である浩幸に対しては、インタビューや取材記事等で、その必要性と社会的な役割について様々な角度で取り扱われるようになっていた。
 その動向を新聞記事で知った浩幸の初婚相手の林美津子は、顔写真入りでマスコミを賑わす浩幸を妬ましく思っていた。いまや飛ぶ鳥をも落とす勢いで発展を続ける山口医院を知るにつけ、「あの時、別れていなければ……」という後悔の念に加え、愛とは対極にある激しい憎悪が生まれていた。折しも現在の夫である武の姿を見れば、うまくいかない仕事に対する鬱憤で毎日酒をあおっている。浩幸との間に生まれた中学生の娘美幸と、その下には武との娘で現在小学校六年生の香澄の世話を焼きながら、気持ちはいつも荒れていた。
 「ちょっとあなた!毎日お酒ばかり飲んでいないで仕事をやりなさいよ!」
 夫の武は医療関連専門の弁護士をやっていた。ところが『林弁護士事務所』とは名ばかりの、数年前に関わった医療裁判の敗訴で大きく信用を失墜させてしまい、今は相談に来る人もまばらな経営困難に陥っていた。働く意欲をなくした武は酒に溺れ、ついには浩幸の子である美幸に対しても暴力を振るうようになっていたのである。
 そもそも美津子と武の出会いはこうだった。それは十一年前に遡る。
 美津子が浩幸と結婚し、美幸を出産して間もないアパートに、ある日、浩幸を訪ねて来た男があった。男は林武と名乗る医療相談を専門に扱う弁護士で、医学的見地から様々な意見を聞かせてほしいと、鞄から一冊の医療専門雑誌を出すのであった。そこには浩幸が書いた『脳死問題における人の死の一考察』という論文が掲載されていた。
 内容をかいつまむと、当時盛んに論議されていた脳死問題についての浩幸の見解と立場を書いたもので、結論から言うと“人の死は、従来の日本の判定基準である心臓死に加え、脳死という問題が発生した現代にあっては脳死判定も満たされた状態でないと認めない”というものだった。いわゆる脳死反対の立場であるが、その内容は一風変わっていた。要約すると、脳死か心臓死かの議論に陥るのではなく、その両方が満たされない限り人は生への可能性がわずかでも残されているという見解である。そもそも脳死問題は医学の進歩により、脳死状態でもレスピレーター(人工呼吸器)によって人の臓器を生かしておくことができるところから発生してきた問題である。一方での臓器移植技術の進歩に伴ってその議論は必然として起こった。しかし浩幸はそれとは逆の視座も含め論を進めたのである。いわゆる現代の技術においては心臓が停止すれば脳も自然と死ぬわけであるが、浩幸は脳神経外科医の立場から、他の臓器が停止しても脳だけを生かしておく技術が必ず生まれるという着目点を加えたのである。そうなれば脳死状態だが心臓は動いているという状態に加え、臓器は停止しているが脳は働いているという状態も考え得る。人間の体の一部が人工的であれ動いているということは、その人はけっして死んでいないとする立場である。いわば死の判定基準を厳しくしたのであった。しかしながら臓器さえあれば蘇生できるレシピエント(臓器移植を受ける患者)も大勢いることも現実で、それに対しては三者の話し合いによって、特例としてドナー(臓器提供者)は臓器を提供できるものと提唱したのだ。三者とはドナーとレシピエントとドナー側の担当医師で、ドナーは意志表示ができないため一親等もしくは配偶者、もしそれがない場合は二人以上の二親等もしくはそれに準ずる人物がそれに当たる事とした。その話し合いにより臓器移植が実施された場合、浩幸はそれを“人道的殺人”と名付けたのである。「殺人に人道もあるか!」とは当然予測できた反論であったが、浩幸の意図は、人の生命のいっそうの尊厳と、ドナーを取り巻く家族の愛情にこそ、つまり関係者同士の人道的な話し合いを第一義とすべきとの事に焦点を当てたものであった。山口医院の院長に就任して間もない、浩幸二十五歳の、若さに任せた論文だった───。
 その論文を読んだ林武は興味を示し、是非話を直接伺いたいと、留守の多い山口のアパートを訪れたのであった。
 ところが意外な展開を余儀なくされた。それは林が美津子の美しさに心奪われた事に端を発する。何度訪問しても要の浩幸が留守のアパートに、やがて家に上がり込むようになり、独身だった林は、ついには美津子と肉体関係を持つに至ったのである。
 美津子は寂しかった。新婚生活二年目に入ったばかりというのに、浩幸は家に帰らず、ひどいときは一週間なんの音沙汰もない日々もあった。たまにアパートに戻れば、「疲れた」と言ってすぐに眠ってしまう。美津子にはそれが耐えられなかった。
 対して林はちょくちょくアパートに訪れては、その寂しさを紛らわせてくれ、一歳の美幸を自分の子供のように可愛がり、時にはレジャーにまで連れていってくれるようになったのである。美津子にしてみれば、林と一緒にいる時間の方が浩幸といる時間よりもはるかに長いものとなっていた。やがて浩幸との結婚生活に疑問を持ち始め、それは将来への不安に発展し、ある時些細な浩幸の注意の言葉に腹がたち、感情に任せて美幸を抱いてアパートを飛び出したのであった。
 林は美津子をけっして一人にはさせなかった。母子共々優しく迎え入れると、間もなく「結婚しよう」と言った。美津子は林の胸にその全てを任せたのである。
 やがて二人の間にも子供が産まれ、一家は何不自由のない幸せな家庭を築いているように見えた。美津子もその生活に満足だった。しかし心のどこかにいる浩幸は、けっして消し去る事ができず、そのことは武も薄々感づいていた。武が唯一美津子に対して不満があるとすればそれだった。
 ところが、林がある医療裁判の弁護において、数回に渡り敗訴の屈辱を受けて仕事の意欲を失墜させるにあたり、一家は次第に傾きはじめた。極端に減る弁護依頼に対して、やがて法律の網をかいくぐるような危ない仕事にまで手を出すようになり、やがて弁護士連名からも除名された。それを堺に一家は奈落の坂を転げはじめたのであった。美津子が浩幸に、美幸の養育費の相談に行ったのもそんな折りの事である。浩幸は快く「分かった」と言った。その彼の笑顔が妬ましかった。
 「なぜ、あの時、私を追いかけてこなかったの?」
 スナックでブランディを傾けながら美津子が浩幸に言った。
 「僕は君の心を手放してしまう程度の愛しか君に与えられなかった。所詮、僕には君を幸せにしてあげるほどの甲斐性がない男だってことに気がついたのさ。もちろん諦めがつかなくて随分悩んだけどね」
 「どのくらい───?」
 「五年くらいかな……?いや、正確には七年だ。再婚の妻が死ぬ寸前まで……」
 「あなたがいけないのよ」
 「その通りだね。でも、君が幸せそうで安心した」
 美津子は込み上げる怒りをブランディと一緒に飲みこんだ。今の自分が家計に窮する事実を、離婚間際の浩幸の家庭をなげうつ態度に原因を求めていた。
 思えば浩幸に対する嫉妬や憎悪は、この会話の中で生まれた感情に違いなかった。もし別れていなければ、今頃院長夫人としてなに不自由のない生活が保たれていたものを───。
 「あの子ね、もう中学生よ。会いたくない?」
 美津子は話を次いだ。
 「美幸の事よ。会いたいでしょ?あの子、最近こんな事を言いだしたの。『ナースになりたい』って。やっぱりあなたの血は争えないわね……。どう?もし美幸が看護士になったら、あなたの所で使ってくれない?」
 「そう、そんな事を言いだしたの?でも、僕が父親だって事は知ってるの?」
 「知らないわ。林を実の父親だと思ってる……」
 「そう……。でもこれは僕にとっても責任のある事だね……。分かった。少し辛いけど、臨床実習から雇用まで全部僕のところで面倒を見るよ」
 浩幸には仕事と私情を割り切る自信があった。そうして現在まで生きてきたのだから───。美津子はブランディグラスで顔を隠してほくそ笑んでいた。

 一方、武の心も荒れていた。度重なる仕事の失敗───、しかもその敗訴を決定的にしたのは、いずれも相手側の弁護士が入手した、浩幸の医学的見地による反証だった。やがて敗訴に因する不運に、やりどころのない怒りを美幸に向けるようになっていったのだ。それはいつも美津子のいないところで行われていた。所詮、血のつながらない娘に対し、後に立ちはだかる山口浩幸という人物に憤りながら、その感情は無造作に噴出した。ある時は宿題の解けない美幸の頭を思い切り叩いたり、ある時は妹の香澄にだけお土産を買ってきたり、肉体的に精神的に苦痛を与えるようになったのだ。たまに美幸をかばう美津子を見れば、「貴様!まだあの男の事を!」と激怒した。いつしか武の心の中にも、「あの男さえいなければ」という思いが芽生え、それは美津子の思いと結託して、激しい憎悪へと燃えていったのである。
 「あの男は、美幸というお荷物を俺に与えた上、美津子の心をも奪ったまま、俺から仕事までも取り上げた。あいつのアパートに行った時も、ただの一度も会ってくれなかったではないか。おかげで俺はこんなお荷物を背負い込むはめになってしまったのだ。あいつさえいなければこんな事にはならなかったのだ!」
 極端な言いがかりは次第に林の中の真実となってふくれ上がっていた。

 そしてもう一人、浩幸を良く思わない人物がいた。それはコスモス園の事務長を務める須崎慎二である。
 彼の恨みは単なる出世欲から生ずるものであった。山口医院とコスモス園の統合にかかわる会議では最初から反対を貫いてきた小市民である。次期施設長になるはずの男の執念は天性のものか、その計画を白紙に戻そうと躍起になっていた。朝な夕なに浩幸の犯すミスを虎視眈々と狙っていたのである。
 見えないところで、浩幸を陥れる画策の発端は、こうして静かに動きだしていたのであった。