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(二十二)愛する人の子
 「百恵さん、ちょっと山口医院までひとっ走り行って、水野さんのお薬もらってきてちょうだい」
 丸腰にそう言われた百恵は、内心喜びながらコスモス園の玄関を出た。リンゴ畑の道を歩いて数分もかからない距離にある医院まで、夏の日ざしに照らされて彼女の額には汗がにじみ出た。大通りを渡り、すっかり冷房のきいた医院内に飛び込むと、薬局の受付の女性に「コスモス園ですが、水野さんのお薬を取りにきました」と伝えた。「腰掛けてお待ち下さい」と言われた彼女は、待合室の七、八名の診察待ちの患者の中に空いていた一つの長椅子にゆっくり座った。医薬分業で、山口医院内には診察の受付の窓口の他に薬剤専用の窓口が設けられている。それは山口医院直属の薬局で、“やまぐち薬局”という名の別法人である。施設を拡張する際、浩幸の希望で院内に設けられたのである。薬局と病棟の間は廊下で仕切られ、ふと奥の部屋から小さな子供が走ってきた。
 「ちょっと大樹君、待ちなさい!」
 追いかけてきたのは中年の女性看護士だった。ほどなく大樹は捕まると、「やだ!ねむくないもん!」と、半泣きの表情を百恵に向けた。そして百恵に気づくと女性看護士の腕からするりと抜けだし、彼女のところに走り寄ったのだった。そのまま百恵は大樹を抱くと、泣き出しそうな彼の小さな顔を両腕で包みこんだ。
 「すみません!」
 女性看護士はそう言うと、百恵から大樹を奪うように持ち上げた。胸の名札には佐藤とあった。
 「やだ、やだ!ねむくない!お姉ちゃんとあそぶ!」
 「だめでしょ!おねんねの時間!」
 しかし大樹は再び佐藤の腕をするりと抜け出すと、今度は百恵のふくらはぎに抱きついたまま放そうとしなかった。
 「まったく困った子ね!パパに言いつけるわよ!」
 「私ならかまいませんけど……」
 百恵の言葉に佐藤はもう一度「すみませんね」と言って、「院長の子供なんですけど、言うことを聞かなくて困ってるんです」と付け加えた。
 「私、前にも一度コスモス園で、この子の面倒を見た事があるんです。少し時間がありますから私が見ましょうか?」
 佐藤はほっとした顔付きで、「あら、そうなの?それじゃ少しお願いしちゃおうかしら。もうお昼寝の時間だから、そろそろ寝ると思うんです」と大樹の頭に手を乗せると、「いい子にしてるのよ!」とそのまま病棟の方へ行ってしまった。大樹はその後姿にアッカンベーをした。
 「ああ!そんなことしちゃダメでしょ」
 ちょうどその時、薬局の窓口から「コスモス園の水野さん」という声がした。百恵は大樹の手を引いたまま薬を受け取ると、「何して遊ぼうか?」と大樹に言った。
 「こっち!」
 大樹に手を引かれて入った所は、先程大樹が飛び出してきた小さな託児所のような部屋だった。おそらく子育て中の看護士・薬剤師のために設けられた部屋であることは、壁に貼られた当番表や絵本や玩具などの多さから知ることができた。中央にはそこで寝る準備をしていたのだろう、子供用の布団がひとつ敷かれていた。大樹はちらかしたおもちゃ箱から赤と青の二体のヒーロー物の人形を持ってくると、「どっちがいい?」と百恵に聞いた。百恵は青の方を選ぶと、大樹は赤の人形を百恵に渡した。
 「ぼくが青。おねえちゃんは赤!」
 「それなら聞かなきゃいいのに───」
 「いいの!」
 言うが早いか「戦いごっこしよ!」と、大樹は手にした青い人形を百恵の赤い人形にぶつけては、「いくぞ!」だの「えい!」だの「やったな!」だの、自分で効果音を入れながら遊びだした。ところが五分もしないうちに大きな欠伸をしたかと思うと、
 「だっこ……」
 と、百恵の胸にしがみついてきて、そのまま眠ってしまった。
 「大樹くん?大樹くん……?」
 大樹の寝顔を見ながら“おやすみ三秒”って本当にあるのだなと微笑んだ。
 そのまま布団に寝かせて帰ることもできた。しかし、もう暫くこのままでいたくて、大樹を腕の中で寝かせたまま、百恵は待合室で先程の看護士が来るのを待つことにした。そのうち無邪気な寝顔が無性に可愛くなって、大樹の額にキスをした。
 「あんたの子どもかい?かわいいねえ……」
 診察待ちの女性が声をかけた。百恵はその言葉を否定しなかった。
 「まあ良く眠っていること。安心しきった顔だね、幸せそうだ……。あたしにも抱かせておくれよ」
 女性はそう言うと嬉しそうに大樹を抱え、「私の孫もこんな時があったわね」とつぶやいた。
 「なんて言う名前だい?」
 「えっ?その……大樹です……」
 百恵は自分が母親であるという嘘を通すのに戸惑って、大樹を取り戻すと急いで外に出た。そして玄関前の駐車場で上半身を揺らしながら、その柔らかい頬に自分の頬を重ねた。
 その光景を院長室から眺める浩幸の姿があった。浩幸は、百恵と大樹を遠くで見つめながら、仕事の表情を微笑みに変えて電話の受話器を取ると、
 「佐藤さんを呼んで下さい」
 と言った。まもなく看護士の佐藤が院長室の扉をノックして現れると、「今日の託児当番はあなたではなかったですか?」と、窓の下を指さして言った。
 「すみません!あの人はコスモス園の方で、以前大樹君の面倒を見たことがあると言ったものでお任せしてしまったのです。いますぐ替わります!」
 「いえ……」
 浩幸は佐藤を止めた。
 「あんな安らかな顔をしている大樹を見たことがありません。いま暫くああしておきましょう」
 佐藤は意外な顔をした。てっきり怒られるかと思って来たが、浩幸の表情を見れば微笑みすら浮かんでいる。ほっと胸をなで下ろして、つい「大樹君は母親を求めているんじゃないでしょうか?」と口走った。浩幸は佐藤を睨んだ。
 「すみません!つい出しゃばった事を申しました!」
 「どうしてそう思いますか?」
 「大樹君は私にはなつきませんが、あの人に抱かれたとき、なんだかとっても嬉しそうな顔をしておりましたから。私も母ですから分かるのですが、あの表情は母に抱かれるときの表情に違いありません」
 浩幸は暫く無言だったが、やがて「もういいです。さがりなさい」と佐藤を帰した。
 浩幸には再婚する気など毛頭なかった。仮に結婚したところで、もう女性など愛せないと思っていたからだ。ただ大樹の成長を思う時、母親の必要性を感じる事も否めなかった。しかし、幼児教育上特に重要とされる三歳までの期間は既に過ぎてしまっている。心の中には「いまさら……」と思う気持ちもあった。百歩譲って結婚を考えたところで、相手が百恵であることは考えられなかった。確かに彼女の自分に対する思いには悪い気はしなかったが、年の差をはじめ、百恵が初婚であるのに対し、自分は三度目の結婚の上実の子供が二人いるのである。彼女の純粋な気持ちにはとても応えられないと強く思った。彼女にふさわしい男性は他にきっといる。この間ラーメン店で見かけた彼もその一人だ。自分などのようにすれた男と一緒になっては一生彼女は報われないと信じていた。
 「早めに諦めさせてあげないと彼女が可哀想だ……」
 浩幸は自分には不似合いな感情を嘲笑しながら、いつまでも百恵と大樹の姿をながめていた。