> 第1章 > (二十一)孤独
(二十一)孤独
 院長室の浩幸は、いつでもデスクに何かしらの書類を広げて、考え事をしている事が多かった。山口脳神経外科医院には浩幸の他に理事の西園倫明と、医大を卒業してまだ間もない伝田強志という三人の医師がおり、持ち回りで診察を行っていた。理事の西園は年齢五十歳のベテラン外科医で、先代院長の正夫の代から山口医院の重役を担ってきた。話によると脳卒中で倒れた母親を正夫に救われ、それをきっかけにして医師になった苦労人ということで、山口医院の経営維持が最悪困難だった時も、給料を受け取らずに医院の存続に尽くし抜いた人間である。
 「西園君、申し訳ないが、今月も給料を払うことができない。君も生活がかかっていることだ、こんな貧乏医院を捨てて、どこか余所の病院に移ってもかまわいなよ。良い先生を紹介するから、そうなさい……」
 ある時、正夫が悲愴な顔付きで言ったことがある。その時も、
 「先生、何をおっしゃいます!私は先生に惚れて医者になりました。どんな状況になっても、私は先生と一緒にいるつもりです。そんな悲しい事をおっしゃらないで下さい。どうかご心配なさらず、多くの病で苦しんでいる人達をお救い下さい。私はどこまでも先生を支えて参ります。たとえ院長が先生の息子さんの代になったとしても、私はこの山口医院をずっと陰で支えて参ります。どうかご安心ください!」
 正夫は涙ながらに西園の手を握りしめた。そして正夫が死んでからも、その意志のままに西園は現在も浩幸の片腕となり、山口医院の発展のため尽力していた。
 浩幸はコスモス園の医療法人化計画の実務推進を西園に任せようと思っていた。ふと、その必要設備機材の項目から目をそらすと立ち上がり、コーヒーメーカーのコーヒーをマグカップに注ぐと、ブラインドのスラットからコスモス園を眺めた。丁度遅番者であろう施設に向かう白い軽自動車を見たとき、浩幸は「あっ、馬場さんだ……」と思った。そして彼女が言った「介護も看護も同じ」というあどけない発想を思い出して唇を三日月に変えた。
 「院長、どうしました?仕事中の院長にしてはずいぶんと嬉しそうですね……」
 院長室に入ってきた西園が言った。太い身体を白衣で隠した、丸渕眼鏡をかけた温厚そうな男である。
 「いえ、別に……。どうしました?」
 「あ、はい……。小林さんの手術のことでちょっと……」
 西園はその患者のカルテを見せながら「難しい手術になるでしょう」と言った。そして手術の難点をいくつか挙げるとカルテをデスクに抛るように置いた。浩幸は不安そうな西園の顔を見てとると、
 「そのオペ、私がやりましょう」
 と言った。西園は心配そうに「大丈夫ですか?」と答えた。
 「最善を尽くしてやるしかないじゃないですか。それで駄目なら仕方ありません。私たちは最高の技術と誠意で臨むしかないでしょう。人の生命は摩訶不思議だ。患者に生きる意志があれば、きっと成功しますよ」
 「その割り切りが先代も私もひどく苦手だ……。それじゃあ、お任せします」
 西園はそう言うと、カルテを持って部屋を出ようとした。と、浩幸が呼び止めた。
 「それから西園さん、コスモス園統合の件ですが───」
 西園は立ち止まって振り向いた。
 「院長、本当になさるおつもりですか?悪い話ではないと思いますが、当医院にかかるリスクが大きすぎる……」
 「先日すでに決定してもう動きだしています」
 「なんと……。まったく院長のワンマン振りにも困ったものだ……」
 西園はあきれたように笑った。
 「反対ですか?」
 「そんなことはございません。ただ相談くらいしていただかないと、先代にも申し訳がたちません」
 「先代か……」
 浩幸は手にしたコーヒーを飲んだ。
 「僕は父のような“赤髭”を気取った医者には絶対なりません。それに一度言った事は最後まで曲げない性分なのはご存じでしょう。山口医院にいる以上、僕の方針には従っていただかないと困りますが」
 「分かっておりますよ。院長は先代の忘れ形見だ。あの財政困難の極地から、近年医院の拡張まで果たされたお方です。この西園、命に替えて何でもやります」
 「ありがとう」
 浩幸はそう言うと、コスモス園の統合計画の詳細について語りはじめた。西園は太い身体のためか荒い息を吐きながら「はい。はい。」と小気味よい返事を繰り返し、浩幸の計画書に目を通した。一通りの説明を終えると浩幸が言った。
 「西園さん。もしあなたが父と出会わずに、最初に僕と出会っていたとしたら、今のように無条件で僕の構想を受け入れましたか?」
 西園は少し困った顔をした後、
 「さて、何と答えましょう?ただ、先代がいなければ私は医者をやっていないでしょう。しかし、そのおかげで今こうして院長の下で山口医院発展のお役に立つことができる。これは縁ですから、先代より先に院長と出会う事なんてあり得ない事ですよ、きっと……」
 やがて西園は院長室を出た。「やれやれ、好美夫人が生きていてくだされば、もう少し柔和なお人柄になっていただろうに……」と呟きながら。
 浩幸は、自分が孤独だとは思っていなかった。しかし第三者が見れば、彼を必ず孤独というに違いなかった。その一つに彼特有の鋭い目つきがあった。仕事中はいつも何かに没頭し、他の誰かが話しかけようものなら、「いま手が離せませんので後にしていただけますか?」と厳しい口調で言い返すので、彼の周りはいつでもとても近寄りがたい空気があったのだ。ある時、女性の看護士長がある患者の看護の相談に行った時も、「必要な処置の仕方は伝えてあるはずです。看護はあなたの仕事でしょう。いちいち僕のところに看護の相談に来るものではありません。ご自分で考えなさい」と突っぱねられたこともある。従って、余程の事がない限り、浩幸に近づこうとする者はなかった。唯一理事の西園だけが、その空気に入り込むことができたが、その彼にして「院長は恐い。何をしでかすか分からない」とぼやく時があったのだ。第二には、彼の経歴を知る者の憶測であるが、山口医院の財政を立て直す際の彼はとても尋常でなかったと言う。誰よりも早く医院に来て、誰よりも遅くまで仕事をやっていた。その姿はまるで何かにとりつかれたようだったと言う。それが原因で初婚の美津子とも離婚してしまったのだ。少なくともその出来事は彼にも大きなショックだったようで、暫くは何も手に付かない様子だったが、半年もするとその離婚の事を忘れるように、更に仕事に没頭するようになったのだ。看護士はじめ、周囲の人間達はたまったものではなかった。ただでさえハードな脳神経科の看護士たちは、身も心もボロボロになりながら何人もの者が辞めていった。労働組合を結成しようという話まで持ち上がった程である。しかしその尽力のおかげで山口医院は大きく発展したのだった。医院の拡張が成された頃、浩幸は好美と再婚した。そして大樹が生まれ、彼の振る舞いもだいぶ丸くなったように見えた。しかしつかの間、好美は大樹を残して他界したのだ───。浩幸の心の支えは、唯一大樹の成長だった。思えば院長に就任してからの日々は、片時も休まる事のない精神闘争の中にあった。相談する者も頼る者も支える者もない果てしない孤独の荒波を、ひたすら耐えていたに違いないと。
 第三には父正夫に対する憎悪があった。それは広く尊敬を集めた“赤髭”とはまったく対極にある振る舞いとなって現れることになる。「医者のくせに!」とは、貧乏医院に育った彼の頭上を、絶えず飛び交っていた借金取りの罵声だった。そのストレスのためであろう、母は彼が大学生の時に亡くなった。しかも、ちょうどその時も往診中で正夫は家にいなかった。母の危篤を知り、授業の途中で飛び出して家に帰れば父の姿はなく、慌てて迎えに出ようとしたところを母が腕をつかんでこう言った。
 「あんたのお嫁さんの顔を見たかったよ……」
 「すぐにパパを連れてくるから!」と飛び出したものの、それが母の最後の言葉となった。
 「パパは家庭と患者と、どちらが大事なの!」
 ある時聞いた事がある。その時正夫はこう答えた。
 「それは家庭の方が大事に決まっているじゃないか。でもな、私の手の中には、多くの患者さんの命が委ねられているんだ。それは最も大事なものを犠牲にしてまで守らなければいけないものなんだよ」
 と───。しかし浩幸には理解できなかった。母親を亡くしてまで守らなければならないものなどあるものかと理解しようともしなかった。それは父との間の溝をより深くするものとなっていた。以来浩幸は秀でた医療技術を楯に、高額な医療請求をするようになったのだった。医院が立て直してくると、今まで罵声をあびせていた金融機関は掌を返したように笑みを浮かべて周りに群がってきた。所詮そんなものだと、その姿を浩幸は鼻で笑っていた。
 信じるものなどなかった。だから恐いものも何もなかった。ただ社会の仕組みと、その社会に組み込まれた人間の動きを洞察しながら、恍惚と生きてきたのだ。ただひとつ失うものがあるとすれば、それは大樹というかけがえのない小さな命だった。

 中野市のはずれの小さなアパート。
 ここにもう一人孤独にさいなむ男があった。新津俊介である。彼は小さなベランダに出ると、緑に映える志賀高原の山並みを見つめていた。冬は百恵とスキー場へ行って、スノーボードをやった事などを思い出しながら、大きなため息を何度もつくのであった。
 彼は後悔していた。あの晩、百恵を強引に誘いだしてしまったこと、そして結婚を口走ってしまったこと、そしてなにより嫌がる彼女にキスをしてしまったこと───。百恵のために何でもしようと決めていたはずなのに、それとは全く正反対の行動をしてしまった自分に自責の念を抱いていた。以来、電話をしても留守電で、そこに入れる言葉すら思いつかないのだ。何度、百恵の家の前を車で走ったか知れない。何度コスモス園の前を走ったか知れない。百恵の車を見つけては、何度会おうとしたか知れない。俊介は自分の唇に残った百恵のそれの感触を思い出しながら黄昏の空を仰いだ。
 彼女からもらった勤務形態のカレンダーを見れば今日は遅番であることが分かった。時計を見ればちょうど夕方の休憩時間であるはずだった。俊介は携帯電話を取り出すと、少し戸惑った後、百恵に電話をかけた。
 『お客様がおかけになった電話番号は、電波の届かないところにあるか、電源が入っておりません……』
 その科白を二回ほど聞くと、俊介はため息と一緒に電話を切った。