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(二十)夜勤明けの空
 夜勤が終わり七瀬を助手席に乗せると、百恵の車は彼女の宅に向かって走り出した。
 「モモ、ごめん。今日と明日、帰り家まで乗せてって」
 昨晩出勤して七瀬の最初の言葉がこうだった。「どうしたの?」と聞けば、車を車検で預けたがあいにく代車が借りれず、出勤の際は母親に送ってもらえるが帰りの足がないと言う。七瀬の住まいは高山村だったので、帰宅のついでに少し足を伸ばせば十分もかからない。百恵は「おやすいご用」と即答したのだった。
 早番の出勤時間は五時三十分。夜勤を終えて外に出れば、この季節は既に日が差しはじめている。出勤ラッシュにはまだ早い信州の爽やかな風の吹き込む農道沿いを、百恵の白い軽自動車が軽快に走っていた。両脇に連なるリンゴ畑は、白いリンゴの花で満開だった。
 「ああ、眠い……」
 七瀬の欠伸とは対照的に、百恵は流行歌の鼻歌を口ずさんでいた。
 「モモ、やけにご機嫌ね。何かいいことあった?」
 「別に───」
 百恵の態度に首を傾げながら、七瀬は先週の早番最終日の百恵の様子を思い出していた。それは車椅子の春さんとの会話であった。毎日世話をするスタッフを、会うたびに新人だと思っているおばあちゃんである。
 「なんだい、あんた新人かい?」
 「はい、馬場百恵といいます。よろしくお願いしますね」
 「モモちゃんかい。いい名前だね……」
 「そう思います?でも、私、この名前大嫌いなんです……」
 と、聞いていれば付き合いで仕方なく答えているという様子でなく、本心から普通の会話をしているように見えた。また先程は、夜中三時の見回りを終えた百恵が涙を浮かべながらナースステーションに戻ってきた。「どうしたの?」と聞けば、夜中に目が覚めてしまった田中おばあちゃんの肩をたたきながら、死んだ息子の話を聞いてきたと言う。職員なら誰でも知っている定番の話だ。それに加えて今の鼻歌である。どうも解せない七瀬は、百恵の太股を叩いた。
 「痛い!ちょっと運転中よ。危ないじゃない!」
 「モモ、絶対おかしい!何があったの?気になるから話してよ!」
 「何のこと?」
 「とぼけないでよ。何だか最近、妙に嬉しそうなのよね……」
 百恵には分かっていた。浩幸の子供の大樹と仲良くなった日以来、無性に心が弾んで何でも楽しく思えてしまう自分があることを。
 「そう?きっとあれよ。私悟っちゃったの。痴呆老人との付き合い方───」
 「痴呆老人との付き合い方?」
 「そうよ、教えてあげようか?彼等には時間なんて必要ないの。その時、その時が真実で全てなの。だから過去も未来も関係ない。そう思った時ひらめいたの。私もその日にあった出来事を全部忘れちゃえばいいって!それでおじいちゃんやおばあちゃんと話した事を覚えないことにしたの。そうしたらね、どうなったと思う?毎日毎日がとっても新鮮!」
 七瀬はあきれたように「幸せな人ね」と言った。
 「そう、私いま、なんだかとっても幸せなの……」
 「モモはきっと、要介護5レベルの人を知らないからそんなことがいえるのよ。失禁や急に暴力を振るってくる人や植物状態の人……。うちの施設にはそこまでの高齢者はあまりいないけど、その家族の方達の告白を聞けば、とても明るい心にはなれない」
 「そうかしら?」
 七瀬は楽天的な百恵と話すのが疲れて、シートを思い切り後に倒した。ふと、後部座席に目をやれば、そこにレンタルショップの袋が置かれていた。七瀬はそれを気なしに手に取って中を覗けば、
 「ええっ?!モモって、こんな趣味があったんだ!」
 と、思わず叫んだ。その声に驚いた百恵は、レンタルショップの袋から二枚のDVDを無造作に取り出す七瀬の姿に驚いて、「ちょっと!」と声を上げて急停車した。
 「『七人の侍』に『赤ひげ』か……。シッブッ!」
 それは昨日の夜勤前、若干時間に余裕があったので、DVDでも借りようと立ち寄ったレンタルショップで借りたものだった。最初、新作の並ぶ棚の前であれこれ探してみたが、取り立てて面白そうなものが見つからず、暫く歩いて探しているうちに子供向けのビデオが並んでいる棚で“ドラえもん”を見つけたのである。ふと、大樹の言葉を思い出し、黒澤明監督の映画を探しはじめたのであった。ようやく見つけた棚は黒澤作品の他、時代劇や任侠物がずらりと並び、それまで一度も立ち止まった事のない空間に一瞬躊躇したが、浩幸が好きな映画を自分も共有したいという思いが募って、周りに人影がないのを見計らうと中からタイトルに覚えのある『七人の侍』と、山口医院の先代が“赤髭先生”と呼ばれていたのを思い出し、その二本を急いで引き抜いたのだ。七瀬にはそれを趣味と勘違いされたが、レジに行くときは借りた本人こそが一番ドキドキしていたのだ。
 「ちょっと、返してよ!」
 百恵は力任せにその二枚のDVDを取り上げた。
 「そんな剣幕で取り上げなくたっていいじゃない。でも、意外な一面を見たって感じ」
 「お、弟に借りてくるように頼まれたのよ……」
 「太一君?まだ中学生じゃなかった?ずいぶんませているのね」
 「そ、そうかしら……?」
 百恵はなにくわぬ顔で再び車を走らせた。三八〇度一面のリンゴの花に囲まれた上空、夜勤明けの淡いブルーの空に、岩雲が静かに流れていた。