> 第1章 > (二)名前のこと
(二)名前のこと
 私の名前……?
 そんなのどうでもいいじゃない!
 “馬場百恵 ”……、“ババモモエ ”よ!。
 笑った? いま笑ったでしょ? いいの、いいの、気にしてないから……。もう、二十四年間この名前と付き合っているから、いいかげん慣れちゃった。
 この名前を付けたのは祖父。なんでも私はオトコで産まれるはずだったらしいの。みんな母から聞いた話だけれど、母が妊娠したと判った時に、初孫の誕生に大喜びした祖父が「どうしても俺に名前を付けさせろ」と駄々をこねたというの。もともと父も養子で馬場家に婿入りしていたから強い権限はなく、「お父さん、お願いします」と命名の権利を祖父に委ねたんだって。馬場家の後継ぎができたという喜びから、私は当然オトコで産まれるものと祖父も父も思いこんでいて、そんな雰囲気に呑まれて母までも「男の子かも知れない」と言ったものだから、いよいよ祖父も喜び勇んで、東京の大きな書店まで行って命名の本を十冊ばかり買ってきた。果たして五月五日の子どもの日、考えあぐねて決めた名前が“太一 ”……。
 私は“馬場太一 ”という名前で人生を生きるはずだった。なんとも名のある作家か評論家のようでとても気に入ってはいるんだけど、私が産まれて紅潮した顔で病院に駆けつけた祖父と父の表情が蒼白になったというわ。
 オチンチンがない……。
 さあ、困った。戸籍法第四九条には「出生の届け出は、十四日以内にしなければならない」とある。まさか女の子に“太一”はないだろう。しかし祖父の名前を考える気力はすでに太一の名を生み出した時に完全に失せていた。二週間などという期限は無情に迫る。たまりかねた父は、涙ながらに訴えた。
 「お、お父さん!」
 祖父だって自分が名前を付けると言った手前、後に退けるはずもなく、かといって良い名など出てくるはずもなかった。やり場のないもどかしさでこう叫んだの。
 「も、もうええ!」
 「モ?モ?エ……。いいじゃないですか、お父さん。それでいきましょう!」
 「ももえ……???」
 ちょうど山口百恵が引退した頃で、大ファンだった父はよく「♪ ばかにしないでよ!」と歌っていたらしい。
 こんな笑い話を母はいつも楽しそうに話すが、命名された本人はたまったものではない。
 その時考えられた太一と言う名は、私より十歳年下の弟にまわされた。
 苗字が“山口”ならまだしも“馬場”でしょ。小学校の時から婆さんでもないのに「ババア、ババア」と呼ばれる苦痛は、私のアイデンティティーにどれほどマイナスの影響を及ぼしたことか。
 加えて、馬場に連なる“モモエ”が笑っちゃうでしょう。苗字がなくて“モモエ”だけならいいの。ボーイフレンドに『モモちゃん』なんて呼ばれたら、なんだかとってもカワイイ女の子を想像できちゃうじゃない。でもね、ババの下に付いた途端、お笑いになるのはどうして?モモってピーチのことだけど、あの形を見るとオシリを連想するし、また“もも”というとふとももを思い起こす。桃太郎というのもあるけれど、やっぱりモモといえばピチピチした女性を思い起こすでしょ。そこまではいいのだけど、上にババが付いただけで、プラスイメージのももが、いっぺんにマイナスイメージになってしまうのが許せない。
 しかも日本人は、自己紹介をするとき決まって苗字から言う。この習わしもまた許せない。これが英語圏の国ならば、私の人生は変わっていたに違いないの!
 いっそ“お水”の世界に飛び込んで、名前だけ言っていれば済む世界で人生を送ろうかとも考えたけど、職業に偏見を持つ家の男たちに「バカモノ!」と怒られた。
 自分の名前でもう一つ気に入らないのは、「も、も、え」という言葉の韻。“もえ”とは“萌え”に通じ、春先に新緑の草木が生き生きと生い茂る様を連想するけど、上にもう一つ余計に、“も”の字が付くのがいけない。なんだか萌えてはいけないところに萌えているような苦しさが出てきて、“萌え”を“燃え”と連想する人にしてみれば、婆さんが自分の家が火事になるのを発見して、大きな挫折感の中で苦し紛れに言う言葉にも聞こえる。だから夫婦別姓なんて死んでもイヤ!
 ともあれ私は、自分の名前をあれこれ考えないことにしているの。考えれば考えるほど名付け親の祖父に対する憎悪が浮かんで、いつか殺してやろうと考えてしまうのだ。もう死んじゃっているけどね……。最近では開き直って、自己紹介の後に必ず「悪い?」という言葉を添えることが身に付いた。人間二十四年も生きていれば、自分を傷つけない方途をいつしか身につけているものね。

 イタリアンレストランの一角で、百恵が一遍に話し終えたとき、俊介は口にしたコーヒーを前に大声で笑い出した。
 「なんだ、百恵はそんなことで悩んでいたの?」
 「なによ、こっちは真剣よ。新津君だって初めて会ったとき笑ったじゃない!」
 「そうだっけ?何なら、いっそ今すぐ俺と結婚しようか?そうすれば新津百恵になれるじゃない?それに、就職の心配をする必要もない……」
 百恵は絡めたパスタの指先を止めて笑う俊介を見つめた。その視線に気づいた俊介は急に真顔になってコーヒーを一口飲んだ。
 「ごめん……。プロポーズの言葉にしては少し軽すぎたノリだった。でも聞いて、俺に経済的な基盤ができたら、いずれそう言うつもり」
 「新津くん……」
 百恵は朝のコンビニでの回想を話そうと思った。今の自分の悩みを理解してくれる人は、俊介しかいないと感じた。大学の絵画サークルの気の合う仲間同士で泊まりで出かけ、半分は遊び、半分は風景画を描いて津々浦々を旅した。それは、その積み重ねの中で徐々に芽生えてきた淡い恋愛感情だった。
 「実は私、高齢者介護の仕事をしようかって思ってる……」
 「初耳だな……。百恵がそんな事を考えていたなんて……、OLになりたかったんじゃないの?」
 「うん……。でもね、今朝コンビニの外に咲く赤い椿を見ていて思い出したの。おばあちゃんの事……」
 俊介は俄かに笑い出した。
 「幼少よりババアと呼ばれ続けてきたかわいい女の子が、老人施設で働くなんて、ちょっと傑作だね」
 「私、本気よ。今年、介護ヘルパーの試験を受けてみようって……」
 「ごめん、笑って悪かった。でも介護福祉士とかホームヘルパーの資格って、専門学校を出たとか、ある程度の経験が必要なんじゃないかな?そうだ、それなら雄助に聞いてみるよ。あいつの姉貴がコスモス園でケアマネージャーをしてるはずだから、もし空きがあったら紹介してもらえるかも知れない」
 「ええ、ほんとう!高梨君のお姉さん?コスモス園に勤めているなんて知らなかった。懐かしいな……。大学卒業して以来会ってない。高梨君、元気にしてる?」
 店内の照明とBGMが二人の会話に花を添えていた。やがてウェイトレスが食べ終えたパスタの皿を引きあげていった。