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痴呆の都
> 第1章 > (十九)統合の噂
(十九)統合の噂
俊介の思わぬ行為に百恵は困惑していた。世の中の男はどうであれ、俊介だけはあんなことをする男とは思っていなかったのだ。何につけ、自分の事を最優先に考えてくれ、百恵が「いやだ」と言うことはけっしてしない人だったからだ。それが昨晩はまるで別人のように変貌して迫ってきたのである。俊介の事は嫌いでなかった。というより好きなのだが、それは愛と呼ぶには一線を画した友達関係の部類に近い感情だった。それは浩幸に出会ってはじめて鮮明に気づいた事だったが、いまとなってはとても彼との結婚生活の情景など思い浮かべることができなった。
と、休憩中のスタッフルームに丸腰がやってきて、「百恵さん、今日残業できる?」と聞いた。百恵は今日は早く眠って昨晩の事は忘れようと考えていたが、つい断りきれずに「はい」と答えた。丸腰は続けて、
「でも残業といっても介護じゃないの。子供のお守りよ。嫌い?」
と言った。聞けば施設長はじめ施設内の重役たちの大事な会議があるという。そこに施設医の浩幸も出席するが、今日は山口医院の休診日で、院内看護士たちは入院患者の世話で忙しく、子供のお守りをする女性がひとりもいないのだと言う。そこで浩幸の子供の大樹の世話を、コスモス園の職員にお願いしたいとの要請があったというのだ。百恵は躊躇した。俊介とのことで心の整理もついていないうちに、浩幸の子供の面倒を見ろとは、不器用な彼女にはとてもできない芸当だった。「あ、あの……」と言いかけたが、丸腰は「じゃ、お願いね」と言い残して出ていってしまった。
丸腰と入れ替わり入って来たのは七瀬だった。
「ねえモモ、聞いた聞いた?」
今日の残業の話を伝える間もなく、七瀬は慌てた様子で百恵の耳元で、たったいま仕入れた情報を小声で、
「今日の最高会議の議題、何だか知ってる?」
と、少し興奮した口調で話し始めた。
現在コスモス園は社会福祉法人に属する施設だった。社会福祉法人とは社会福祉事業を行うことを目的とした法人の事で、社会福祉事業とは第一種と第二種に分類され、コスモス園は第一種に属する。いわゆるそこで行われる社会福祉事業は、公共性の特に高い事業として、その対象はおおむね社会的弱者ともいうべき者で、その人格の尊重に重大な関係をもつ事業のことである。即ち、人を収容して生活の大部分をその中で営ませる施設を経営する事業が主で、第一種社会福祉事業についてはその経営主体に制限を設け、原則として国、地方公共団体、または社会福祉法人に限りこの事業を経営させることとなっている。社会福祉の枠での事業だから、当然入所する高齢者たちは、介護を必要とする者の他に経済的生活困難者などの身体健全な者もいたが、コスモス園ではその一環の中で施設医などの専従医師を置き、特に医療的処置が必要な者については介護スタッフなどの他に看護士をおいていた。
ところが近年における山口脳神経外科の発展には目を見はるものがあり、数年前にも医院の拡張をしたばかりであった。院長の山口浩幸はその中で、コスモス園に対して医療的側面から特に医療を提供する体制の必要性と入所者の健康保持の管理体制の充実促進を強く考えていた。現に週一回の定期診察などは、充分な設備もなく、診察場所などはいまだにリハビリ室を使っているのである。そこで浩幸が提唱したのはコスモス園と山口脳神経外科との統合計画であった。所詮、コスモス園施設長である高野とは根本的に介護と医療という出発点において考えを異にするものであったが、両方の良い面を併せ持つ理想の施設を目指そうと浩幸の方が歩み寄ったのだ。当然、福祉事業という枠内では高度に重傷な要介護老人の受け入れには限界があった。浩幸の提案は、コスモス園を医療法人化し、山口脳神経外科医院の統合下に置くというものであった。ところが、あと五年もすれば定年の施設長高野は、保守的な考えに終始していた。浩幸の革新的な発想に対して、「理想は分かるが現実には……」と拒み続けてきたのである。
今日はその最終決断をせまるもので、コスモス園にとっても山口脳神経外科医院にとっても、今後の行く末を図る非常に重要な会議であると言う。
「私たち、どうなっちゃうのかな?医療法人化されたら、私たち介護スタッフはお払い箱になっちゃうのかな?」
七瀬が神妙な顔付きで言った。百恵は急に笑い出した。
「なにがおかしいの?」
「山口先生はそんな人じゃないわ……」
百恵の言葉に今度は七瀬が笑い出した。
「どうしてそんな事が言えるのよ?」
「ただ、そんな気がするだけだけど……」
七瀬はあきれ顔で立ち上がると湯桶室に入り、お湯を沸かしはじめた。そして「コーヒー飲む?」と言った後、
「おじいちゃんやおばあちゃんからは冷酷人間の異名を付けられてる先生よ。私にだってお金のために何でもやる先生に見えるもの。きっとコスモス園を統合下に入れてガッポリ儲けようっていう寸法よ。そんなふうに思っているのモモだけ。山口先生を好きなのは分かるけど、あまりのめりすぎて後で痛い目にあわないでよ」
七瀬は自分のコーヒーカップにインスタントのコーヒーを入れた。
百恵は引き継ぎの時間になると、大樹を預かるためロービーで浩幸の到着を待った。よくよく考えてみれば、浩幸という人物はコスモス園という大きな物体を相手に統合計画を打ち出す程の人である。ひょっとしたら俊介の言う通り住む世界が違うのかも知れないと思いながら時計を見つめた。
やがて浩幸は大樹の手を引いて徒歩でやってきた。しかしその姿はあまりに庶民的で、とても何百人という施設や医院関係者、あるいは施設利用者や入院患者に影響を及ぼすような大きな仕事をする人間のようには見えなかった。
百恵に気づくと、浩幸は「やあ」と気さくに声をかけた。
「残業で大樹君のお守りをするように言われました」
浩幸はニコリと笑うと大樹に、
「良かったな、大樹。今日はこのお姉ちゃんがお前の面倒を見てくれるそうだ」
大樹は恥ずかしそうに浩幸の大腿部に隠れた。
「おいで」
百恵が両手を広げると大樹はつかつかと歩み寄り、百恵はその小さな身体を抱き上げた。
「“百恵”お姉ちゃんだ。いっぱい遊んでもらえ」
大樹は「モモエ……」と何度も繰り返し、嬉しそうに彼女の胸に顔をうずめた。百恵は体験したことのない子供を抱きかかえる感触に何故だか懐かしさを覚えながら、浩幸の笑顔を見つめた。それは百恵が思い描く夫婦とその子供の世界に寸分違わなかった。そして、その瞬間が永遠に続くのではないかという錯覚にさえ陥った───。
「それじゃ、お願いします」
次の瞬間、浩幸の表情が恍惚としたものに変化したのを見た。それは、百恵の知っている彼とは明らかに違う、多くの人が評価する彼の素顔であったかも知れない。
「がんばって……」
思わず漏れた百恵の言葉に、浩幸は面妖そうな顔で見つめ返した。
「僕のやっている事はなかなか理解してもらえないけど、どうやら馬場さんは僕の味方のようだ……、ありがとう」
浩幸は恍惚の表情を笑顔に戻して、やがて会議室へと向かっていった。
会議は長引いていた。しかし大樹のお守りは楽しく、時間が過ぎることなど全く気にならなかった。積木をしたり、絵本を読んだり、手遊びをしたり、たまに大樹が「おしっこ!」と言えば、一緒にトイレに行ってはズボンをおろすところからシャツを整え手を洗わせるまで、まるで自分の子供に世話をやく母親のように全く苦にはならなかった。
「パパはやさしい?」
そう質問したとき、大樹は大きく嬉しそうに頷いた。百恵はコンビニでの光景を思い出し、
「でも、毎日カップラーメン食べているんじゃないの?」
と聞いた。
「そうだよ。ぼくは赤いのが好きだけど、パパは緑が好き!」
きっと商品のパッケージのことを言っているのだろうが、百恵はこの父子の身体の事が心配になって、「カップラーメンは美味しいけど、本当は身体に良くないのよ。あまり食べない方がいいわって、パパに伝えて。言える?」と言った。
大樹は大きく頷いた。
「いつもはパパと何をして遊んでいるの?」
大樹は少し考えた後、「パパはお仕事忙しいの」と答えた後、すこし間をおいて「でも、ビデオ屋さんでデーブーディ借りてくれるよ」と言った。
「DVD……?何を借りるの?」
「ドラえもん、アンパンマン、それから……仮面ライダー」
「パパは何を借りる?」
「わかんない……白黒のえーが。わかった!アキラ・クロサワ……」
「黒澤明監督の映画?」
ラブロマンスの洋画しか見ない百恵には無縁のジャンルだった。そんな会話をしながら時計を見れば、既に二時間の残業時間は過ぎていて、休憩を挟んで三時間残業の始まりから十五分ほど経過していた。
「パパ遅いね……」
大樹は心配する様子もなく、「ねえ、あれやろ!」とリハビリ用のボールを持ってきてキャッチボールをはじめた。
会議は佳境を迎えていた。施設長の高野を中心に、両脇に副施設長と施設理事、以下事務長の須崎をはじめ、コスモス園の役員十名程度が浩幸を囲んで様々な議論をしていた。中でも事務長の須崎は反対派の筆頭で、彼の攻撃的な反論に、浩幸はひとつひとつ説明を加えなければならず、雰囲気的には大筋の合意が得られているにもかかわらず、いざ決定の段階になると話は遅々と進まなかった。
須崎といえば次期施設長をささやかれている人物でもある。副施設長にしろ理事にしろ、いずれも定年間近で、高野が定年でいなくなる頃には、すでに二人もいなくなっているという構図ができていた。おのずとその白羽の矢は、現在事務長を務める須崎に刺さることは時間の問題だと思われていた。非常に緻密で几帳面であるのは良いのだが、対人関係はひどく苦手で、施設利用者や介護スタッフからも悪評を得ていることが玉に傷だった。その須崎が不満をあからさまにしながら発言した。
「もし仮に統合が実現した場合、その後の私たちの立場はどのようにお考えでしょうか?」
浩幸は目を細めた。
「何でしょうか。須崎さんはコスモス園の介護医療の将来より、ご自分の役職の方が心配ですか?」
「そういう意味ではありませんが」
須崎はふてくされた表情で自分の意見を否定した。
「少なくとも我々はお年寄りの命を預かる仕事をしています。もしその事を忘れ、自分の地位や肩書きのために仕事をするような人間が出たとしたら、私はその人間を排除するでしょう」
浩幸の発言に、須崎は机をドンと叩いた。
「まあまあ須崎君、落ち着きなさい」
高野になだめられて須崎は苦虫をかみつぶしたような顔で宙を仰いだ。高野は結論を迫られている空気を察知して言葉を次いだ。
「私たちのコスモス園も、日本の高齢化が進むにつれて、その社会的役割の重要性がますます増してきました。しかしながら山口先生がご指摘されるように、この施設にはその役割を果たすだけの設備も制度も時代の進行につれて不充分なものになってきたと思わざるを得ないケースがとても増えてきました。それは何よりこの私が知っているつもりです。私も先生の話を聞くにつれ、なるほど、その道があったかと感涙にむせぶ思いでありますが、いかんせん、私も老いて保守的になり、それへ踏み出す勇気がないのです。もはや山口先生はじめ、若い世代の皆さん方に託すしかないと思っておりますが、須崎君のような考えを持った人もいるのが現実で、急に医療法人にして山口医院と統合するといっても大きな波乱を招くだけだと考えています。そこで私の一つの結論は、先程先生がおっしゃた“医療法人化への五カ年計画”に賛成の意を表するのでございます。山口医院より資金的な援助を受けながら、医療法人として機能し得る施設の構築を、これより五年という歳月をかけて少しずつ実現して参りたい。そして医療法人となった暁には、介護医療施設のさきがけとして、全国に模範の施設へと大きく発展して参りたいと思うものでございます───」
議事進行の男が「今の施設長の発言に意義のある者は挙手をお願いします」と言った。会場は数人の拍手があがり、挙手をする者はなかった。しかし雰囲気的には、理想的な話の内容は理解できるが、戸惑いの方が大きいという反応は否めなかったが、これを堺にコスモス園は医療法人化へと動きだす採択がなされたのであった。
「ご理解、うれしく思います」
浩幸はそう言うと頭を下げた。
「細部に渡ってはこちらで詰めて参りますので、今日はここまでにしておきましょう」
施設長の言葉で、ようやく会議は終了した。浩幸はふてくされている須崎に「ご苦労をかけます」と伝えると、ゆっくり会議室を出た。
百恵は大樹を連れてコスモス園の屋上にあがっていた。そこで影踏みをしたり、鬼ごっこをしたり、浩幸が大樹を見つけた時は、二人はケンケンパーをして遊んでいた。最初その光景が微笑ましく、屋上への出口の陰でしばらく見惚れていたが、公共のスピーカーから“七つの子”の音楽が鳴り出すと「大樹!」と言って迎えに出た。
「あっ!パパ!」
大樹は百恵の手を引いて浩幸のところに寄ってきた。
「あのね、あのね、ケンケンパーしたんだよ!」
「そうか、よかったな!」と、浩幸は大樹を抱きかかえ、「ありがとう。助かりました」と百恵に言った。
「私も久しぶりに仕事を忘れて遊んじゃいました!」
「それはよかった」
「先生、それより会議の方はどうでした?」
「ええ、なんとか良い方向へ動きそうです。馬場さんが応援してくれたおかげかな?」
「それじゃ、いよいよ医療法人化へ動き出すんですね」
「なんだい?もう馬場さんのところまでそんな話が漏れているのですか。参りましたね」
「私もその方がいいと思っているんです。だって今のコスモス園じゃ、本当に介護を必要とする人たちが入所できないケースが多くてびっくりしてるんです」
「介護と看護は違うよ」
「ええっ?そうなんですか?私、同じだとばかり思ってました。だってここではみんな同じ仕事をしてますよ」
浩幸はあどけない百恵の発想に笑わざるを得なかった。
「何がおかしいのですか?だって私、ここのおじいちゃんやおばあちゃん達、みんな大好きなんです。看護士さんの方だってみんな患者さんが好きなんじゃないんですか?そういう意味では同じだと思いますけど」
「確かにそうだね。貴方のような職員がどんどん増えるといいな……。じゃ、大樹、帰ろうか」
浩幸が大樹の手を引いて帰ろうとすると、当の大樹は百恵の方へ行きたがって動こうとしなかった。それどころかみるみる膨れて、ついにはお姉ちゃんから離れたくないと言って泣き出してしまったのだ。
「大樹のやつ、馬場さんの事が気に入ってしまったようだ……。こうなると梃子でも動かないんです。さて、困った……」
浩幸が人ごとのように言うと、「いいです。私、玄関まで抱っこして見送ります」と、百恵は大樹を抱えて歩き出した。それはクレヨンを持ちはじめたばかりの無名の画家達が、真っ白い画用紙に描く家族の姿に似ていた。
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