> 第1章 > (十八)ぎくしゃくした関係
(十八)ぎくしゃくした関係
 翌日の晩のことだった───。
 たまりかねた俊介は、強引に百恵を車の中に押し込むと、千曲川を渡って、夜の国道十八号線をひたすら北に向かって走り続けた。無言のままの俊介を、横目でチラリを見れば、肩に力の入った神妙な顔付きで、ハンドルを握りしめたままいつまでも口をつぐんでいた。百恵は俊介に握られて赤くなった左手首を右手で押さえながら、
 「ねえ、どこまで行くの?」
 と、聞いた。俊介は何も言わなかった。
 ───彼が家に来たのは、明日の早番に備えてそろそろ寝ようと思った十時近くの事だった。「姉ちゃん、新津さんだよ」と、弟の太一が部屋のドアをノックして伝えに来たのだった。百恵は「こんな時間になんだろう?」と半分迷惑に思いながら外に出てみれば、いつもと違う様子の俊介が、「これからドライブに行こう」と、いきなり彼女の腕をつかんだのだった。思えばゴーコンの日以後、俊介からは毎日のように電話があり、何度か「会おう」と誘われてきたが、その都度日程が合わなかったり疲れていたりで、ずっと延び延びになっていたという経緯があった。
 「ちょっと……、明日も早番だからまたにしようよ」と言うと、「いいから乗って!」と強引に車に乗せようとしたので抵抗したが、彼は腕を離してくれなかった。
 「なあに?いきなりこんな夜中に来て」
 「いいだろう恋人同士なんだから!夜中にドライブくらいしたって!」
 「ちょっと、手を離してよ!」
 俊介は離すどころか更に強い力で百恵を車に乗せたのだった───。
 すれ違うトラックのサーチライトをいくつ数えたろうか。やがて俊介の車は信濃町は野尻湖のほとりに停車した。エンジンが止まると、開かれたウィンドウから涼しげな風とともに、湖の波の音が入り込んだ。
 「どうしたのよ、強引に誘ったかと思えばさっきから黙りこくって……」
 百恵の言葉に俊介は、「ごめん、むりやり連れ出しちゃって……」と答えた。
 「ねえ、帰りましょ、私、明日また早いの……」
 「なんだか最近忙しがってて、ゆっくり会ってる時間もないじゃないか。たまには俺にも時間をくれよ」
 俊介は別に何か言いたそうな口振りで、シートを倒してため息をついた。
 「この間会ったばかりじゃない。みんなで飲み会やった時」
 「会ったばかり?あれから二週間も経ってる。ほおっておけば一ヶ月なんてあっというまに過ぎてしまうよ。俺には耐えられない。それにあの時、なぜ先に帰ってしまったの?」
 「………………」
 百恵は咄嗟に浩幸の事だと直感した。仕方のない事だとは思っても、何より俊介が傷つく事が怖かった。
 「やっぱりそうなんだね……」
 「……な、なにが?」
 百恵はとぼけた素振りで星空を見た。───大学時代にこんなことがあった。絵画サークルで大学構内をテーマに、ある時二人は同じ角度の学舎を見ながら、F二〇号キャンバスに思い思いの色を置いていた。俊介はどちらかというと写実派で、百恵は印象派路線の画風を好んでいたが、指向の違う二人は、それぞれの感性でお互いの絵を評価しあうのが常だった。ところがある時、サッカー部の男子学生がそんな二人の間に割り込んできて、モネやセザンヌなどの画家を最大に賛美しながら百恵に一通の手紙を手渡した後、俊介の絵を鼻で笑って去って行ったことがある。手紙を開けば紛れもないラブレターで、携帯電話番号とメールアドレスまで書いて「連絡ください」とあるではないか。百恵は困って、「どうしよう」と俊介に相談すれば、だいぶ気分を損ねた様子で「百恵がもらったんだから自分で判断しろよ」と、それから暫くはまともな会話ができなかった。結局その男には高梨の携帯を借りて「ごめんなさい」とメールを送ったが、たかだかそんな些細な出来事で、俊介の機嫌がなおるまでには一ヶ月かかった。プライドが高く一度決めた事はなかなか曲げず、表面上はやや強引なリーダー的資質がある反面、内実は非常に繊細で、周囲の動向にも敏感な性格であるのだ。
 俊介の事を知っていれば知っているほど、百恵は答えに窮した。
 「とぼけないで!あの山口とかいう医者のことだよ!」
 百恵はドキリと俊介の顔を見つめた。その真剣な双眸の中に、今までに見たことのない夜叉の光を感じとることが出来た。思わず目をそらせば、夜の野尻湖は真っ黒く、ところどころ月の明かりを波に反射させていた。
 「隠してもだめだよ。雄助がみんな教えてくれた。百恵がコスモス園の屋上で、あの人の前で泣いていたのを雄助の姉貴が見たって……。本当?」
 百恵は腹を決めて「ごめんなさい」とつぶやいた。
 「なぜ謝るの?自分が悪いのを認めるってこと?」
 「ちがうわ……」
 「じゃあ、なぜ謝るのさ!それとも俺に悪いと思っているから?」
 百恵はこの際、本当のことを伝えておかなければいけないと思った。俊介を傷つけまいと嘘を重ねるより、傷ついても本当の事を伝える事が誠実だと判断した。
 「そうよ!だって新津君、傷つくじゃない!……」
 俊介はあきれたように笑った。
 「ふん、俺のためか……。俺のために奴と会っていることを隠し、それで何日も会おうとしなかったんだ……」
 百恵は、浩幸を“奴”と言った俊介に眉をひそめながら、野尻湖の波を見つめた。すると、俊介は暫くだんまりを決め込んだかと思うと、突然、
 「結婚しよう」
 と言った。百恵はびっくりして俊介の顔をのぞきこんだ。
 「いきなり何を言い出すの?」
 「本気だよ。このまま百恵をはなしておくわけにはいかない」
 「ダメよ……」
 「なぜ?」
 「だって新津君も知ってるじゃない。私、介護福祉士になるの。三年以上の実務経験と必要科目の単位を取得すれば受験できるの。今、通信教育で足りない単位を勉強しているんだから。それまで結婚なんて考えられない」
 「ウソだ。奴のせいだ。奴がいるからに決まってる!」
 「そんなに奴、奴っていわないで!」
 百恵の涙ながらの声に、俊介は「ごめん」と言った。しかし続けて、
 「でも、冷静になって考えて見ろよ。あの人は医者だ。年齢も俺達とはひとまわり以上も離れている。それにバツ2の子持ちだっていうじゃないか!」
 「ずいぶんと詳しいのね。高梨君の請け売り?」
 「そんなことを言ってるんじゃない。所詮、住んでる世界が違うってこと」
 「同じ地球という星の世界で何が違うの?しかも同じ須坂市……」
 「どうしていつもそう飛躍したものの言い方をするんだ。俺に言わせればあの人は女ったらしの何者でもないね!きっと百恵の事も好きでも何でもないに決まってる」
 「いいじゃない!そんなこと!」
 “好きでも何でもない”という言葉に、思わず百恵は叫んでいた。その瞳には涙がたまっていた。
 「いいじゃない……そんなこと……、だって、私が彼のこと、好きなの……」
 瞳の涙が、その重さに耐えきれなくなって、ポタリと音をたてて落ちた。俊介は何も言えず、大きなため息をひとつ吐くと、車のエンジンをかけた。
 帰り道、二人はずっと無言のままだった。後に飛び去る光の景色は、まるで深いトンネルの中をくぐっているように思えた。やがて百恵の家の近くに着くと、俊介はハザードを点灯させて車を路肩に止めた。
 「おやすみなさい……」
 百恵がドアノブに手をかけた時、いきなり俊介は彼女を抱き寄せキスをした。百恵は必死に抵抗したが、俊介の力の方が数段勝っていた。俊介は百恵を力まかせに抱きしめたまま、
 「俺は絶対に百恵を離さない」
 と言った。しかし百恵の激しい抵抗に、やがて俊介は諦めたように、
 「ごめん……」
 と言って手を離した。百恵は気が動転したまま車から飛び出すと、涙をおさえながら家に駆け込んだ。