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(十七)おさえ難き恋心
 百恵がずっと気になっていたのは、先日のゴーコンの際に見かけた浩幸の連れ合いの女性のことだった。年の頃なら三十代半ば、その美しい面立ちとスタイルは、百恵の嫉妬心を刺激するに十分だった。嫉妬心というより羨望に値するか、少なくも浩幸に対する思いに大きな障害を与えたことには違いなかった。あの時はその場にいたたまれなくなりすぐに店を飛び出してしまったが、第三者ならば、単なる知り合いの関係以上であることは、恋愛には比較的無頓着な百恵にさえ分かった。それは、第一に単なる知り合いという関係のみで二人だけで飲みに来る店ではなかったし、第二にはカウンターに座った二人の前にはブランディグラスが置かれて、その二人の距離が接近していたこと。まるで男女が何かの記念日に行なう儀式のような荘厳さがあったのだ。
 大人の恋は百恵には分からない。ただ何かを知り尽くした二人が口数も少なくグラスを傾ける光景は、半分お遊びの域にある俊介との関係とは明らかに異質のものであった。以前、俊介と二人だけで居酒屋に行ったときは、ビールとウーロン茶を注文し、鍋やから揚げをつまみながら大学の思い出や芸能界のことなどで時間を過ごし、それはそれなりに当時にしては楽しく思えたものだが、あの光景に出会ってからは、それがただ一緒にいただけの無意味なもののように感じるようになっていたのだ。
 「あの女性はいったい誰なのだろう……?」
 百恵の空想は、円を描いて浮かんでは落ち、上昇気流を見つけてはあがくトンビのように、想像の空を苦しみながら舞っていた。しかし、どう楽観的にとらえても、いきつくところは浩幸の現在の彼女という結論だった。
 コスモス園の中庭を歩きながら、黄色い花が咲き乱れる花壇の前で、百恵は立ち止まった。よく見かける花だが名は知らない。ただその黄色だけが、疲れを吸い込むベッドように百恵の意識を吸い込んだのだ。
 がりょう山を登った時、彼は言っていた。「自分はもう本気で女性を好きになれる男ではない」と───。ならば、あの女性は浩幸に遊ばれているのか、さもなくば、お互いそれを承知の上で付き合っているのだろうか。ふと、花に群がる小さな虫に意識を移せば、耳にとても美しい音楽が流れ込んできた。歌声のする方を見れば、一人の老人が、中央の噴水のある小さな池に向かって、なにやら外国の歌を唄っている姿があった。
 その老人の名を三井孝徳といった。アルツハイマーで日常に支障をきたすようになった生活に見切りをつけた家族が、数ヶ月前に入所させた三二八号室の施設利用者である。家族の話によれば、公務員としてくそ真面目に働く中で、歌が大好きだった彼は傍ら地元地域のコーラスグループを主宰していた経歴を持ち、週に二、三回はそのために時間をさくのが唯一の道楽だったと言う。今は自分が唄っていることすら知っているのだろうか、オペラ風のその歌声は初夏の優しいそよ風に乗って、うつろな百恵の耳に流れてきたのであった。
 「素敵な歌ですね?どこの国の歌かしら?」
 百恵はその歌声に誘われて、三井に吸い込まれるように寄って行きそう聞いた。しかし、百恵の存在に気づく様子もなく、三井はずっとその歌を唄い続けた。百恵はその歌についての詮索はあきらめて、三井の隣でじっとそのメロディを聞いていた───。その歌詞は英語ではない。単語の発音や聞き慣れない語彙ですぐにそうと知れることができるが、そうでなければヨーロッパ地域の言語だろうか、いや、聞き様によっては東南アジアの言葉にも聞こえる。どこかもの悲しくて、名もない庶民が唄った切ない恋歌のようにも聞こえる。百恵は浩幸への恋心を癒すように、静かに噴き出す噴水の高さを測っていた。
 やがて三井はその歌を唄い終えた。
 心地よい余韻の中で、百恵は三井に顔を向けると、ようやくその存在に気づいた彼は、驚いた表情も見せずに再び噴水に視線を移した。百恵は小さな拍手を送った。
 「私にもその歌を教えてください」
 お願いするまでもなく、三井は再び同じ歌を唄いはじめた。おそらく痴呆による障害で、歌のタイトルも意味も、どこで覚えた曲なのかも、あるいは自分が今ここで歌を唄っている事実さえも分からずに唄っているのかもしれない。百恵はテープレコーダのように何度も繰り返す彼の歌を聴いているうちに、少しずつ口ずさめるようになっていった。

 「モモ、診察の時間よ!」
 異国の歌に魅了されていた意識を途切れさせたのは、七瀬の元気な声だった。百恵はハッと我に戻ると、週一回の施設医の診察日だったことを思い出した。
 「三井さん、ごめん。また教えて」
 百恵は三井の歌声に送られながら、今日診察予定の担当になっている高齢者の部屋へ小走りに向かった。
 浩幸とは早番の週、その診察日には彼が出張等でいない限り、必ず二週間に一回は顔を合わさなければならなかった。しかし先週は遅番だったので、あの日からはおよそ十数日振りに会うことになる。それで先ほどは、どのような顔で会えばいいのかとか、あるいはあの女性のことを聞いてみようかとか、いらぬ事を様々に考えていたのだ。百恵は照れと不安と嬉しさとやきもちと……、複雑な気持ちを一生懸命胸の中に押し込みながら、数人の診察者を引率してリハビリ室へと向かった。
 平常心を装おうと決めたが、つい浩幸の姿を目にしたときは、ふと合った目線をそらさずにはいられなかった。
 「お願いします……」
 しかし浩幸の態度はまるでいつもと同じで、一見無愛想な表情で聴診器を診察者の身体に当てては、いくつかの質問をしながら、その状態を淡々とカルテに書き込むのだった。そのあまりに普段と同じ浩幸の態度に、百恵はなんだか急に悲しくなって、瞳にいつしか涙をためていた。
 「馬場さん、何を考えているのですか?僕はお一人お一人を真剣に診察しているんです。僕の言葉は患者さんに対する言葉ですが、貴方が真剣に聞かなければ困ります!」
 「す、すみません!」
 百恵はこぼれ落ちた雫を右手の甲であわてて拭き取って、診察用のノートにペンを走らせた。
 一時もしないうちに百恵の担当だった老人達の診察は終わった。百恵は何も聞けないまま、次の診察者のグループと入れ替わるしかなかった。晴れない気持ちのまま、残りの仕事についたのだった。
 その日は早番の勤務だったので、午後三時には家に帰れたが、七瀬も残業だというし、浩幸もまだ施設に残っているようだったので、帰りそびれてというか、浩幸に会うかもしれないというわずかな期待に寄り添うように、“少し風にでもあたろう”という理由付けで屋上にあがったのだ。
 西に見える北信五岳に対して、東側には人工的に削られていく痛々しい雁田山の姿があった。小布施町と高山村にまたがる小さな山で、その採石事業は緑化計画を立て前に、昭和四十年代から進められているそうだが、採石された砂利は良質とされ、高速道路やNAGANOオリンピックの建設にも使用されるなど、実に北信地方最大の採石場となっていることも事実であった。ちょうど雁が羽根を広げる形に似ているところからその名があるが、須坂からだと削られゆく岩肌をむき出した小高い山で、その岸壁が日々年々、何台もの重機によって崩されていく。小布施側の麓には葛飾北斎や小林一茶ゆかりの岩松院があり、戦国武将として名高い福島正則の霊廟もある。小学校の遠足ではそれらを見学して山にも登った。百恵はそんな事を思い出しながらその山を見つめていた───。
 「何が見えますか?」
 突然の声に、心臓が飛び出したかのような驚きで振り向けば、そこに白衣の浩幸が立っていた。
 「せ、先生……!驚かさないでくださいよ───」
 あまりの突然さに次の言葉は見つからなかった。
 「馬場さんもよくここに来るのですか?」
 浩幸は、握った紙コップのコーヒーをベンチに据えられたテーブルの上に置くと、施設内では唯一の喫煙所であるそのベンチに座って煙草を吸い始めた。
 「診察が終わるといつもここでコーヒーを飲みながら煙草を吸うんです。ほら、ここから善光寺平がよく見えるでしょ。銀色に光るエムウェーブなんかを見つめながら、長野五輪で金メダルを取ったスピードスケートの清水宏保選手のことなどを考えたりするんです」
 浩幸は煙を吐き出すと、「そういえば、さっきは少しきつい言葉を言ってしまってすみませんでした」と謝った。
 「あれは私が悪かったんです。怒られて当然です」
 浩幸は急に鼻で笑い出すと、
 「ずいぶん素直なんですね。はじめての診察で会った時は、僕にくいついてきたのに……」
 と言った。
 『何を考えていたんですか───?』
 そう聞こうとした浩幸の言葉を遮ったのは、あの時と同じ百恵の瞳を彼が見たからだった。浩幸は何も言わず煙草の火をもみ消すと、「さて、仕事がありますので……」と、立ち上がった。
 「先生、待って下さい!」
 百恵は思わず浩幸の白衣の袖口をつかんで俯いていた。切なさの涙の通り道が、そよ風に吹かれてそこだけ温度を下げた。
 「誰なんですか───?あの女性……、誰なんですか?」
 胸がはちきれそうだった。とても浩幸の顔など正視できずに俯いたまま、しかし、どうしても聞かずにはいられなかったのだ。浩幸は静かに百恵の腕をつかんで離すと、
 「そんなに悲しげな声で聞かないで下さい。誰って?どの人のことですか?」
 「この前、スナックで一緒にいた女性です!」
 涙を溜めた瞳のままで、百恵は浩幸を見上げた。浩幸は目を細めた。そして「ああ……」と思い出したように言うと、
 「別れた妻ですよ……」
 と呟いた。
 その真実を知ったとき、百恵は呆気にとられて、次の瞬間、急に恥ずかしくなって背を向けた。
 「ごめんなさい!私、変な事聞いちゃって───」
 「別にいいですよ。もう、昔の話です。彼女とは久しぶりに会いました。再婚の男性は弁護士をしている方で、現在の生活がとても幸せそうで安心しました。実は彼女の娘が現在中学二年生で、看護士の道に進みたいと言い出したそうなのですが、彼女の夫の事業が今大変そうで、僕に生活費の援助を願いに来たのです。可哀想ですし、別に断る理由も特にありませんので支払うつもりですが……、それが、何か……?」
 百恵は「何でもありません!」と言い残すと、いたたまれなくなり、浩幸の脇を小犬のように逃げ去った。浩幸は一連の百恵の態度や仕草で知った自分に向いている百恵の心を、どうしてあげることもないできない事を知りつつ、小さなため息をついた。

 私って最低!あの女性が先生の最初の離婚した奥さんだって知ったとき、なんだかとっても嬉しくなっちゃったの。それまで地獄の血の池で息がつまりそうだったのに、先生から真実を聞いたとき、なんだか天使にでもなった心地で、心がふわりと宙に浮いていた。そういえば、がりょう山で先生が独り身だって知ったときも、なんだか無性に嬉しくなって、先生の背中で胸をドキドキときめかせていた。一人目は離婚、二人目は亡くなったっていうのに、先生にとってこんなに不幸な事が、私にとっては幸せなこと───?
 やっぱり私って最低!
 でも幸せって、もしかしたら人の不幸の上に成り立つのかも知れない。誰かが幸せになる裏には、きっと別の誰かが犠牲になっているに違いない。私が大学を出て最初の就職に失敗したおかげで、その職に就けた幸福者がいるはずよ。おかげで私は苦しんだけど。世間一般の結婚だってそうよ。挙式の二人は一見幸せそうに見えるけど、その裏では悲しんでいる人がたくさんいるはず。新郎の元ガールフレンドに新婦の父親、新婦の男友達に新郎の母親……。こうして考えると、本当に何が正しくて、何が間違っているのかなんて分からない。
 でも私は、いったい先生に何を求めているのかしら?───何にも求めていない。ただ好きなだけ。
 好き、好き、好き……、
 この気持ちを表現するのに、これ以外の言葉が思いつかないのはなぜ?……。
 子供が泣いていれば「どうしたの?」って聞くでしょ。おじいちゃんやおばあちゃんが困った顔付きをしていれば「何か手伝おうか」って言うでしょ。友達が悩んでいれば「悩みを聞かせて」と言って一緒に悩むでしょ。でも、今の私には、先生の悲しみを共有できないの。そして、先生の心を知ろうともしていない。
 私って、こんな女だったんだ……。

 激しい恋愛感情が百恵の小さな胸の中の思いを交錯させていた。その夜は、浩幸の顔をいくら思い出そうとしても、その輪郭すら浮かんでこなかった。