> 第1章 > (十六)炭鉱の男
(十六)炭鉱の男
 「男は炭鉱をやるもんだ!」
 遅番の引き継ぎを終えて、百恵がグループホームをする老人の部屋へ行った時、入所者は円陣を組み日常会話を楽しんでいたが、近くにいた数人の介護スタッフは「またはじまった……」という表情で、話す哲さんを見つめていた。
 「交替です。ごくろうさまでした」
 百恵は早番の男性スタッフに小声で伝えると、近くのおばあちゃんの肩を揉みはじめた。「ありがとう。とっても具合いいわ……」と、おばあちゃんは目をつむりながら哲さんの話に耳を傾けた。
 彼の話を聞くのは既に十回をこえているだろう、話し出せば三十分では終わらない。話のあらすじは、彼のこれから話す内容を知らない人にも、効果音を入れながら伝えることができる自信が百恵にはある。
 「あれは一番金になる仕事さ!」
 哲さんは『青春の門』の舞台になった福岡県の飯塚で昭和四十年頃まで炭鉱の仕事をしていた坑夫であった。
 福岡の筑豊炭田は石炭の供給地であった。鎖国の唯一の貿易港として栄えた長崎にほど近く、古くから船舶用燃料としての焚石の需要が多かった所である。
 明治初期までの採炭方法はいわゆる“狸掘り”といわれ、これは哲さんの口癖でもある。つまり小さな坑道から真っ黒になってはいだす姿が狸が穴から出てくる姿に似ているところから付けられた言葉だと言う。産業革命による科学技術の進歩は、日本においてもめざましい発展を遂げていた。特に蒸気機関の発明によってもたらされた燃料の供給は、長年、鉱山で働く者たちの生活を助けていたのである。明治中期から盛んに引かれた鉄道や、度重なる戦争の燃料として、ますます石炭の需要が増える中、一つの鉱山で働く何百人もの男たちは、低い賃金で世俗とは切り離された一種独特な文化生活の中で生きていた。
 昭和恐慌の影響による不況の波による失業者も多くあったが、炭鉱といえば戦後になってから生活水準も次第にあがり、やがては男にとっては花形の職へとなっていったのである。
 哲さんの父もまた坑夫であった。幼少の頃は、十五間長屋の一つ、間口一間、三畳一間の『納屋』と呼ばれる粗末な家に住み、半坪の炊事場と、表は半間の押戸と狐格子、裏は突き上げ窓が取付けられただけの、昼間でも薄暗く陰気な掘っ建て小屋のようなところで生活していた。便所も共用で、衛生環境はけっしてよいものではなかったが、物心ついた頃には、父と一緒に炭鉱に行っては、そこで働く男たちの姿をながめていた。当時は朝鮮の強制労働者も多くいたが、坑夫として働く者たちは、みな同じ労働仲間として差別などしている光景は見たことがない。その中で目にした男気や気っ風の良さなど、哲さんを根っからの炭鉱の男に仕立て上げるには充分な環境であった。
 ところが戦後になって、朝鮮や中国の労働者たちが解放されると、炭鉱労働者の数が激減した。そこで敗戦日本の復興には産業の再建が至上命令だった日本政府は、様々な好条件を提示して炭鉱労働者を確保したのである。そして新技術の導入により、炭鉱の仕事の形態は大きく姿を変えたのであった。加えて労働組合の結成により、炭鉱労働者の権利は富みに拡張され次第に裕福になっていった。哲さんはまさに炭鉱時代の黄金期を生きたのである。
 「炭鉱の仕事は最高さ!あれこそ男の仕事っていうものさ!真っ黒になりながら汗水たらしてクタクタになって、仕事が終われば、勝手気ままに仲間達と飲み明かし、人生を語り、ロマンを語る。時には経営者と喧嘩しながら、まさに男の生き方があそにはあった」
 哲さんの話は終わらない。「坑内は年中光がささない。そして、ひとたび災害がおこれば一瞬にして人の命を奪ってしまう。それは恐怖心との戦いさ───」
 釜すみを親指の大きさに額につけると厄よけになるとは哲さんの持論だろうか。坑内では手を叩いたり、口笛をふいてはいけない。手ばたきは抗木が折れる音に似て、口笛は坑内で災害が起こった時の竹笛の救援信号に似ていたからだという。また、坑内では頬かぶりをしてはいけない。これは昔坑内での怪我人や死人は顔をかくして運び出したからともいわれるが、耳がきこえ難くなることを戒めたものでもあり、手拭を顔にする時も必ず耳を出していたそうである。また“穴”と言ってはいけない。これは穴は墓所を意味したからであり、また女性は坑内では髪をといてはいけないとは、山の神が女の黒髪に心を奪われて守護をおろそかにするからだと信じられていた。
 死人を坑外に運び出す時は大声で「今何片ぞ」「あがれ」「あがりよるぞ」と通る場所や動作を教え坑内に魂を残さぬようにする習わしの話も哲さんの得意調子であった。その他、歯や魚とりなどの不吉な夢をみたら入坑してはいけないとか、朝は汁かけ飯を食べてはいけないとか、また朝食の時に箸を折ると入坑してはいけないとか、魚類を弁当に持っていってはいけないとか……。多くの迷信を信じながら、炭鉱の男たちは皆ひたむきに働いていたのだった。
 ところが、石炭が独占していた日本のエネルギー市場に、国際的な石油資本が進出してきたのは昭和二十年代後半ごろからのことである。以来、石炭から石油への移行が大きく動きだし、昭和三十年代に半ばになると閉山する鉱山が続出したのである。もはや時代の土砂崩れは誰にも止めることができず、そして昭和三十七年、石油輸入の自由化により、石炭は人の生活から必要なものではなくなったのである。そしてその大きな土砂は、一人の男の偉大な誇りをも、いともたやすく呑み込んでしまったのだった───。
 その後哲さんは職をみつけるため全国を渡り歩き、知人のつてでたどりついたここ須坂市で、郵便局の仕事を紹介されて残りの半生を生きてきたのである。
 そこまで話すと哲さんは急に黙りこくった。普段はとても無口な人で、若干痴呆も入っているので会話はひどく苦手な分野だったが、炭鉱の話だけは理路整然とまるで講談でもしているかのように話す。スタッフ以外の者は、次に出てくる言葉に期待しながら哲さんの顔を見つめていた。すると、
 「しょんべん……」
 と、哲さんは何事もなかったかのように呟いた。百恵は思わずブッとふいて、哲さんの腕を支えてトイレに向かった。廊下をゆっくり歩きながら、百恵は哲さんの奥さんについて考えていた。妻に先立たれ、三人の娘は皆嫁に行き、今は独り身という境遇であった。
 「哲さんの炭鉱の話はとても面白いけど、奥さんとはどうやって出会ったのですか?」
 哲さんはふと歩みを止めると、「死んだ女の話はしねえものだ」とぽつんとつぶやいた。そして再び歩き始めると、
 「男ってのはな、孤独じゃなきゃいけねえんだよ。そいで女ってのはな、死ぬまで惚れた男に尽くし抜くもんさ。あんたも覚えておきな」
 と言った。百恵は心で「そんな決まりなんかあるものか」と思った。
 「炭鉱の男ってのはな、真っ黒な土に埋もれて、それでも目ん玉と歯だけはいつも真っ白に輝かせていなきゃいけねんだ。どんなに苦しくたって、微笑みを浮かべて、コツコツ、コツコツ土を削って、現銭山(賃金)を持ってうちに帰るものさ」
 哲さんは何につけ“こうでなければならない”という彼独自の哲学を持っていた。昭和一桁生まれの彼の話に大きな世代の隔たりを感じながら、それでも自分の主張を貫く姿勢に、百恵は偉大な精神の力を感じていた。ステレオタイプの現代思想に乗じて、哲さんの考えの非を指摘することはできたが、それをしたところで「ではお前はどうなのか?」と言われた時に、何も言い返せない自分があることを知っていた。
 「哲さんて強いのね……」
 「強いだと?バカヤロー、あたりまえの事を言っているんだ!───ああ、今日は少し話し過ぎた。俺も年をとったもんだ。男は黙ってなきゃいけねえのに……すまねえ、忘れてくれろ」
 哲さんは元の老人に戻って無言のまま歩き続けた。その掌には、炭鉱時代にできたものであろうか、大きなタコが数カ所に、百恵の腕にざらざらとした心地よい感触を伝えていた。