> 第1章 > (十四)徘徊とゴーコン
(十四)徘徊とゴーコン
 痴呆高齢者にとってこの世の中で、まったく意味を持たないもの。それは、“時”の流れ───。彼らと面と向かって仕事をしていると、百恵は「果たして時間なんてものが存在するのか」という錯覚に陥ってくるのだった。

  それぞれの人生を生きた
  彼らの瞳の光の意味を理解するなんて
  二十五歳になったばかりの私には
  とてもとてもおこがましくてできないけれど
  その光の温かさを感じることならできる───

 時間についての概念は、小学校の理科の課程から当たり前のように出てくるようになった。だから一日は二十四時間で、一時間は六〇分で……、だから一人ひとりに与えられた時間はみな平等で、その平等に与えられた時間の中で、人は生き、成長し、喜び、楽しみ、時には思い悩み、傷ついて、そして、傷心を癒してくれるのもまた時間だと信じていた。だって、あのアインシュタイン博士だって、時間の概念がなかったら相対性理論なんて発見できなかったに違いないって思うもの。
 太陽が昇ると朝がきて、月が昇ると夜になり、春が来れば花が咲き、秋になれば実をつける───。明日食べようと残しておいたプリンが、翌日になって食べようとしたら賞味期限が昨日だったことに気がついて、どうしようもない悔しさで腹が立ったり、出窓で育てているサルビアが、花を咲かせるのはいつだろうかと待ち遠しく思ったり、洗濯物が乾いたとか乾かないとか、安室ちゃんとかチャゲアスとかジョン・レノンとか “たまごっち”とか、ふと昔のことを懐かしく思い出したり、今晩の献立を考えてみたりとか、すべてが刻々と過ぎる時間の中で行われているものだと信じてた。
 「時間を無駄にするな」とか、「時間を有効に使え」とか、「過ぎ去った時間は取り戻せない」……とか、上司の須崎理事長などはこういう言葉をよく使う。確かに時間という概念に則ればそんな言葉も出てこよう。でも……、
 でも、もしかしてこの世の中には、概念による時間はあったとしても、実在の時間なんて存在してないかも知れない───。なんだか私、最近、そんな気がしてきたの……。

 夜勤のナースステーションで、非常用の呼び出しマイクから百恵を呼んだのは、三二五号室の梅さんだった。アルツハイマー型認知症の診断を受けた数年前から、コスモス園に入所している六十七歳のおじいちゃんである。
 「ちょっと、あれ……持ってきてくれんかいな」
 百恵は、夜勤が一緒の七瀬に顔を向けた。
 「モモ、彼氏がお呼びよ……」
 七瀬は眠そうなあきれ顔で言った。要件はだいたい彼女にも想像できた。用もなく呼びつけては「さみしい、さみしい……」と言い続けるのである。案の定、百恵が三二五号室に行くと、梅さんは彼女の手を強く握りしめたまま、
 「さびしい、さびしい、さびしい……」
 と、何度も何度も繰り返した。
 「大丈夫よ。私が来たから安心して眠って……」
 百恵の言葉にも気づかない様子で、一時間ほど「さみしい」を繰り返すと、やがて梅さんは眠りについた。百恵はほっとため息を落とすと、彼の布団を整え、非常口の灯りだけの暗い廊下をナースステーションへと歩きだした。
 静まりかえった廊下に、運動靴のキュ、キュという音だけが異様に響いていた。映し出された影は壁に長い帯となって不気味な風景を作り出し、切れかけた曲がり角の歩行灯が一瞬消えてまた点くと、外で野良猫がギャーと鳴いた。百恵が背筋をぞっとさせた時、何か生暖かい風が吹いた気がした。ふと振り返ると、向かいの突き当たりの廊下を何か白いものがスーッと通り過ぎた。百恵は冷や汗を出しながら気のせいだと自分に言い聞かせ、急いで階段を降りようと掛けだした。すると次に二階の廊下に黒い人間のような形をした物体を目にしたのだ。思わず「ひゃ!」と声をあげ、一階のナースステーションへ急ごうとした曲がり角で、今度は別の物体と鉢合わせをしたのだった。百恵は声も出せないまま、腰を抜かして近くの部屋に駆け込むと、息せき切って蒼白で、非常用マイクのボタンを押した。
 「どうしましたか?」
 「光ッチ、た、た、助けて……」
 百恵の尋常でない声に七瀬は血相を変えた様子で「モモ?どうしたの!」と叫んだ。
 「お、お、おば、おば……お化け───!」
 百恵は恐怖に打ち震えながらやっと言葉に出した。マイクの向こうの七瀬は、どっと疲れた様子で急に笑い出した。
 「なに言ってんの、お化けなんているわけないじゃない。きっと徘徊よ」
 「は、は、はいかい……?だって、三っつも見たのよ、ぼーっとしたお化け!」
 「今日は徘徊のラッシュね……」
 七瀬はそう呟くと笑いながら「すぐ行くから待ってて」とマイクを切った。
 徘徊は痴呆老人のひとつの特徴でもある。真夜中に目的もなくさまよい歩き、自分の居場所に戻れる者もあるが、痴呆の進行が進んだ者は、たどりついた先でそのまま寝てしまう。七瀬の話によれば、施設の出入り口は完全に閉まってあるから、施設内では比較的徘徊を自由にさせているとのことだった。ただ、失禁癖のある者や歩行が危ない者についてはスタッフが付いて気が済むまで付き添うのだと言う。とはいえ、実際徘徊する姿を見るのははじめての百恵にとって、それは異様な光景だった。百恵は胸を撫でおろしながら「驚いた……」とため息を落とした。そんな百恵を笑うと、ふと七瀬が、
 「でも、よくよく考えると、徘徊しているのは私の方かも知れないわ」
 とつぶやいた。百恵は意味が分からず彼女を見つめた。
 「だって、他の人は知らないけど、私は人生の目的もないまま、ただ路頭に迷いながら生きているって感じじゃない?これって、人生の徘徊よね……」
 「そんなことない。光ッチ、がんばってるわ!」
 七瀬は「ありがとう」と言うと、徘徊者の一人は失禁癖があるから自分が付き添うと言い残し、百恵にはナースステーションで待機するよう伝えると、先程のお化けを探しに行ってしまった。

 夜勤を終え、早番の看護士や介護スタッフたちがナースステーションに入って来ると、引き継ぎを済ませ、介護スタッフたちはスタッフルームへと移動した。
 「おつかれー」という言葉が飛び交う中を、仕事を終えた百恵と七瀬は部屋を出た。
 「ねえモモ、今週末は公休でしょ。この前話してたゴーコンやらない?モモの彼氏の友達呼んでさ、公務員の……」
 「高梨君?いいけど、彼、高梨先輩の弟よ」
 「あちゃ……そうなの?じゃあ、仮にうまくいっても、先輩の事、お姉さんなんて呼ばなきゃいけなくなるわけね……。やめよ、やめよ。それじゃあ、二人だけで飲み行かない?」
 そこへ早番の山中が「ねえ、ねえ、何の話?」と寄ってきた。七瀬は少し挑発するような口調で「ゴーコンの内緒話し」と答えた。
 「ゴーコン?俺も行く行く!」
 軽いノリの山中に「今週末よ。山中さん仕事でしょ?」と七瀬が言うと、「早番だから夜は空いてる。ぜひ行こう!」と話が決まり、中山は「さあ、頑張るぞ!」と言いながら去っていった。「まあ、元気がいいこと……」と百恵と七瀬は顔を見合わせて笑うと、七瀬はいつになく明るい口調で小声で「ラッキー!」と言った。
 「光ッチ、やっぱりあなた山中さんのこと……」
 百恵の言葉に少し顔を赤らめた七瀬は、
 「やだ、モモったら!モモの彼氏も呼ぶのよ、当然でしょ!私と山中さんきり仲良くなってもつまらないでしょ。そうだ、どうせだからモモの大学の仲間も呼んで、最初の予定通りゴーコンでいきましょう!」
 と、七瀬は心をはずませながら帰って行った。
 こうして決まったゴーコン当日、「長野市の権堂にいい店がある」という俊介の提案で、待ち合わせを居酒屋にして軽く飲んだ後、全員揃ったところで移動しようということになった。集まったのは百恵の絵画サークルのメンバーで俊介と高梨と彩香、それに七瀬と最後に遅れてきたのが「ごめん、ごめん」とやってきた中山の六人だった。
 「これで三対三ね」
 と彩香が嬉しそうに言うと、俊介の後をついて、六人は洒落たスナックへ移動した。
 「新津君、どうしてこんな店、知ってるの?」
 と百恵が聞くと、「仕事でたまに来るんだよ。洒落た雰囲気の店だけど結構手頃なんだ」と言いながら六人掛けのテーブルに腰をおろした。すかさず俊介は水割りと、百恵のためにウーロン茶を注文した。すると隣同士に座った山中と彩香が親しそうに話をはじめてしまった。百恵は隣の七瀬を気にしながら、「何か歌う?」とカラオケの本を開いた。不愉快な顔付きの七瀬は、気を使いながら話す高梨の質問にも愛想なく答えながら、目の前の山中と彩香をずっと気にした様子で水割りをガブガブ飲んでいた。
 「ちょっと、光ッチ、飲み過ぎじゃない?」
 「いいの、いいの、明日は休みなんだから。じゃんじゃん飲みましょ!」
 俊介はそんな七瀬を気にして「何かあったの?」と百恵に聞いた。
 「え?ま、まあ……ちょっとね……」
 俊介は首を傾げた。百恵は七瀬を元気づけようと、コスモス園での愉快な出来事を次々話し出した。その話に俊介も高梨も大笑いしたが、山中と彩香は乗ってくる様子もなく、七瀬はますます落ち込んだ様子だった。
 「そうだ!歌でも歌いましょ!ピンクレディー、ピンクレディーがいいわ。光ッチ、何でも踊れるって言ってたじゃない。私も得意なの!」
 と言った。俊介は「そんな古いの知ってるの?」と驚いていたが、とても素面ではできないと思った百恵は、七瀬のウイスキーを一気に飲み干すと、その曲をリクエストしたのだった。俊介ははじめて見る百恵の態度に戸惑いながら「大丈夫?」と言った。
 「いいわよ、ピンクレディーだろうがマイケルジャクソンだろうが踊ってやるわ!」
 七瀬はやけくそになって立ち上がった。果たして音が鳴り出すと「よし、行こう!」と、二人は小さなステージに飛び出して踊りだした。残った四人は呆気にとられた様子で顔を見合わせた。
 丁度、二番に入った時である。スナックに大人の男女が入ってきた。最初歌って踊る二人は気づかなかったが、その男女がカウンターの席に着いた時、七瀬の歌声がピタリと止まった。百恵が必死に肩を叩く七瀬に気づけば、七瀬はたった今入ってきた男女の方を指さしている。酔ってぼやける視覚が、その男女の姿を捉えた時、百恵は急にしゅんとなって、そのまま途中で化粧室に逃げ込んだ。二人で逃げ込んだ化粧室で、
 「ねえ、見た見た?さっきの山口先生じゃない?気づかれちゃったかな……」
 七瀬の言葉に鏡の前で、百恵は何も言わなかった。
 「きれいな女の人、連れていたわね……、誰かしら……」
 百恵はしばらく鏡に映った自分の顔をみつめると、
 「私、帰る……」
 と、ひとこと言った。浩幸に気づかれないようにそっとバックを取りに席に戻ると、無頓着な山中は早速浩幸の横に座っていて、「七瀬さん、馬場さん、こっちこっち!」と大きく手を振っていた。振り向いた浩幸は軽く手を挙げると静かに微笑んだ。その隣には自分より綺麗な女性がひとり、百恵に向かって軽い会釈をしたのだった。百恵は浩幸の瞳をじっと見つめると、思わず理性を失ってスナックを飛び出した。
 「どうしたの!」
 慌てて俊介と七瀬が後を追い、百恵の腕をつかんだ。
 「ごめんなさい……、私、なんだか急に具合が悪くなって、今日はもう帰るから、みんなによろしく伝えて……」
 そう言うと、俊介の手を振り払うように夜の街を歩きだした。
 「新津さん、モモは私が送るから心配しないで……」
 そう言うと、七瀬は百恵の後を追った。席に戻った俊介は、先程百恵が見つめた男が、前にラーメン店で出会った施設医であることを確認した。

 百恵は何も喋らずに、ひとりで早足で歩いていた。その後を追うように、七瀬が小走りについていく。
 「ねえ、モモ……、いったいいつまで歩くつもり……?」
 二人はとっくに繁華街をはずれ、侘びしい広い通りを歩いていた。
 「私たち、ほんと徘徊老人みたいね……」
 しばらく無言のまま歩いていた百恵が、ふと思い出したように呟いた。
 「知らなかった……。モモ、本当に山口先生のこと、好きだったなんて……」
 「ごめんね。光ッチ、せっかく楽しみにしていたゴーコンだったのに……。私が台無しにしちゃったみたい……。でも、彩香も彩香よ!こんなことだったら前もって言っておけばよかった……」
 七瀬は少し考えた後、こう言った。
 「私はいいの。だって、どんなに山中君を好きになって、どんな結果になろうとも“あ〜あ、振られちゃった”で、私一人が傷つけばすむ話だもの。でも、あなたはダメ。山口先生を好きになればなるほど、あなたも傷つくし、何よりあんなに優しい新津さんが傷つくじゃない!モモには新津さんがいるのよ!」
 百恵は言葉を失って立ち止まった。そして、花見のがりょう山の時のことを思い出しながら、いけないと思いつつも、理性とは裏腹の感情がとめどなく出てきて、それがもう押さえる事ができなくなっている事に気づいていた。
 「私だって知ってるわよ、そんなこと!何度『ダメだ』『ダメだ』って自分に言い聞かせたか分からない。でも、でも、この心が私の言うこと聞いてくれないのよ!」
 百恵の頬に涙が落ちた。七瀬は「モモ……」と言ったきり、何も言えなくなってしまった。
 「最初に出会ったのは、私がコンビニでバイトしてる時……。三歳くらいの子供の手を引いてやって来る彼の表情はとても寂しげだった……」
 百恵は浩幸への思いをしまい込んでおくことが苦しくなって、七瀬に今まであった事を全て話した。話せば今の苦しみから解放され、今、自分がなすべきことが分かるような気がした。七瀬は何も言わず頷くだけで、最後に「そうだったんだ……」と一言いった。
 月の光は明るく、西の空に流れ星が落ちた。
 二人は何も言わずに徘徊老人のようにいつまでも歩き続けた。