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(十三)愛した女性
 山口脳神経外科医院は、須坂市の蛍ヶ丘にある。
 先代の山口正夫は地元でも有名な赤髭先生で、広く尊敬を集めていたが、一人息子の浩幸が医師として独り立ちできることを見定めると早くに院長を交替して、自分は専ら患者の家に毎日往診に出かけるのが趣味の、まるで利益には無欲な人物だった。変人といえばあれほどの変人もない。なぜなら膨大な治療費を要する患者に対しても、保険に入っていなかったり、家族にお金がないと見るや、極端に言えばその費用を全て無料にしてしまうという無謀な事も、平気でやってしまうような異常なほどのお人好しであった。「かわいそうじゃないか」が口癖で、すでに逝去して五年になるが、その葬儀には「先生にお世話になった」と言う何千人もの参列者が訪れたほどである。
 おかげで医者とはいえ、山口家の家計はいつも火の車だった。欲しい物も買えず、食べたい物も食べれず育った浩幸は、医学大学にもバイトをしながら奨学金で学んだ苦学生だった。
 「僕はあんな医者には絶対ならない!」
 これが若き日の浩幸の誓いであった。
 医師免許を取得した彼は、すぐに県立の病院に勤めたが、正夫の「早く戻って来てほしい」という再三の願いで、間もなく山口医院の後継として院長に就任したのである。正夫は自分に経営の才がないことを知っていた。いわば毎年赤字決済の医院の存続を一人息子に託したのだった。
 「僕はパパのような医者にはならないから!」
 「好きなようにしなさい」
 以来、浩幸は山口医院の財政的建て直しに奔走するのである。
 その時、浩幸には愛する女性がいた。県立病院に勤めていた薬剤師で、三歳年下の河田美津子という名の女性だった。美しく気品のある姿に一目惚れしたのである。彼女は同僚の男性医師や男性患者からもちやほやされる存在だった。それほど美しい顔立ちをしていたのだ。浩幸が県立病院を退職する事が決まった日、彼女にその事を伝えた時、とても淋しげな表情をして「行かないで」と言った。それは、明らかに異性に対する思いから出た言葉であることは、流す涙の数で知ることができた。浩幸は美津子の心が自分に向いている事をその時はじめて知った。
 やがて二人は恋に落ち、院長就任と同時に結婚して、すぐに一人の女の子をもうけたのである。浩幸二十五歳の時である。それは、浩幸の人生にとって最も幸福な日々だった。仕事はハードでも帰れば愛する妻と愛する娘が笑顔で迎えてくれた。そして妻は確かに言っていた、
 「頑張って。私がついているから───」
 と。
 しかし、妻の美津子に変化が現れたのは、結婚して三年目の蝉時雨がキリギリスの声に変わった頃からだった。仕事で遅く帰ってきたときも、そこには美津子の笑顔はなかった。
 「おかえり……」
 と言うものの、何か他の事を考えているような、もっと言えばどこか罪を犯しているような、陰気な表情で彼を迎えるようになったのである。
 「どうしたの?」
 と聞けば「なにが?」と気のない返事が返ってくるだけで、それを堺に、夫婦の関係も次第に険悪なものへと変化していった。浩幸には何が起こっているのか見当もつかなかった。が、ある日、美津子の態度が癇に触り、大喧嘩となったのである。
 「もう、あなたと一緒にはいられない!」
 「ああ、それなら出ていくがいいさ!」
 思わず感情的に口走った浩幸の怒声に涙を溜めて、美津子は「そうするわ!」と、娘の手を引いて彼の前から姿を消した。浩幸は動転しながら、「とんでもない事を言ってしまったのではないか」と直感していた。
 しばらくして分かったことは、美津子に男ができていたという事だった。今から思えば、忙しさのあまり、妻にも娘にも充分といえるほどの相手をしてあげられなかった事を悔いたが、離婚届から六カ月後、美津子の苗字が林となったことを噂で知った。相手がどんな男かも知らないままに、浩幸は深い悲しみをただじっと耐えながら、心の癒えるのを待つしかなかった。
 そうして、五年の歳月が流れた───。
 しかし、浩幸の心から美津子への思いがなくなる日はなかった。ところが、山口医院に勤める看護士に田中好美という女性がいた。四年前から看護学校を卒業してすぐに山口医院に採用された者だが、彼女が患者をいたわりながら歩く姿を見かけるまで、ほとんど意識などしない存在だったが、ふとその横顔が目に入った時、美津子と同じ何かを彼女の中に見つけたのだ。浩幸は次第に彼女にひかれていく自分を知ることになる。それは別れた妻に対する未練に違いなかった。そうして浩幸は、彼女と二度目の結婚をしたのである。
 好美は非常に清楚でおしとやかな、いわゆる昔の良妻賢母を思わせる何につけ控え目な女性だった。浩幸は彼女を愛したわけでなく、彼女の中にあった美津子の面影を愛していたことを知っていた。しかし好美は彼を愛していた───。
 やがて、二人の間にも子供ができた。
 「私はあなたの子供をたくさん産んで、世界一幸せになるんだから……」
 普段は口数が少ない好美が、お腹をさすりながら潤んだ瞳を浩幸に向けたとき、彼はその目を正視できずに席をはずした。好美は彼の心に自分がいないことを薄々察していたに相違ない。次の瞬間こぼれ落ちた涙は、水色の吐息と同時であった。
 臨月も間もなく迫った頃、長野市で行われた医師会の会議で忘れ物を思い出した浩幸は、好美にそれを届けてもらおうと電話した。「子供のためにも軽い運動がてら届けるわ」と答えた好美はタクシーを頼み、会議の行われるホテルへ飛んだ。だが、タクシーを降りて横断歩道を渡ろうとしたとき、よそ見運転のトラックと衝突したのである。救急車で運ばれたものの、既に意識はなかった。
 事故の連絡を受けて、浩幸は血相を変えて運ばれた病院にかけつけた。応急手術をした医師は、浩幸とも面識のある中年の男だった。
 「ああ、山口先生……」
 「好美はどうなんですか!」
 中年の医師は首を横に振った。「幸いお腹の赤ちゃんは無事でした。きっと事故の瞬間、本能的にお腹を守ったのでしょう。しかしこのままでは子供の命も危ないと判断し、帝王切開でお腹を切りました。未熟児ですが子供さんの方は命に別状はありません」
 浩幸は好美の横たわる病室に駆け込んだ。
 「脳挫傷です。残念ですが、意識が回復することはないでしょう」
 浩幸は涙を流して好美の手を握りしめた。

 僕は、なんてことをしてしまったんだ……。美津子を手放したくないがためにその面影を持った好美を殺してしまった……。君は僕を愛してくれていた。でも僕は……、いや、違う!僕も君を愛していたんだ!君が死のうとしている今になって、ようやく僕はそのことに気がついたんだ。ごめん、ごめん、ごめんよ、好美……!

 その時、好美はかすかに息をふき返した。中年の医師は、「信じられない」という顔でその光景を見つめていた。
 「浩幸さん、ごめんね……忘れ物、届けられなかった……」
 「なにを言っているんだ、君は……」
 好美の瞳から涙がこぼれた。しかしそれは笑顔が作り出す桃色の涙だった。
 「早く、早く僕らの赤ちゃんを連れてきて下さい!」
 浩幸は発狂するように叫んだ。近くにいたナースが慌てて赤子を連れてきた。
 「ほら、僕らの子だよ……。元気な男の子だ。名前はどうしようか……」
 好美は最後の力をふりしぼるように「ごめんね……」と言った。それが彼女の最後の言葉となった。浩幸は愕然と肩を落として嗚咽した。
 子供を大樹と命名した。生前、好美と高山村に行ったとき、樹齢何百年もの大きな樹木を見つけて、その樹の下で二人だけでサンドイッチの昼食を食べた事を思い出したのだ。その時好美は、
 「この木はあと何年生きるのだろう」
 とつぶやいた。「さあ……?、百年、いや二百年くらいかな?」と適当に答えた浩幸を見つめ、
 「わたしもずっと、あなたの近くにいていい?」
 と言った。その時は、何も言わず笑顔を返しただけだったが、その答えの証しに子供にその名を託そうと考えたのだ。好美はいわば浩幸にとって、美津子を忘れさせてくれた女性であり、死ぬ寸前に本当の妻となっていたのである。
 それから三年───。浩幸はただ大樹の成長だけを願って生きているのである。