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(十二)うわべ家族
 百恵が交替勤務になったのは、五月の連休明けからの事だった。もっとも連休といっても入所の高齢者たちの世話をするコスモス園ではないに等しく、俊介の強いデートの誘いに応じることもできなかった。電話口の俊介は、
 「なんだか介護施設って牢獄みたいなところだね」
 と腹を立てた様子で言った。
 「自分で選んだところだから……。それに私、新人でしょ、連休だからって簡単に休暇もとりにくいのよ」
 「こんなことなら紹介するんじゃなかった……」
 その口調は終始荒かった。「ごめん」と言ったが、心のどこかでその会話を冷めて見ている自分がいた。先輩の丸越朋美から「百恵さん、連休明けから交替勤務をしてほしいのだけど」と言われたのは、丁度俊介とその話をした翌日だった。
 コスモス園の交替勤務は、早番、遅番、夜勤の三交替だった。役職職員や事務職員の他は、よほどの理由がない限りほとんどの者が交替番をしており、休みも公休といってカレンダーのそれとは大きく異なる。その事は面接の時にも聞かされていたから覚悟はとうにできていた。拒む理由などなく「はい、分かりました」と呼吸をするように答えたのだ。
 初日は早番の勤務だった。コンビニに勤めている時も交替番だったので、さほどの抵抗もなく出勤することができ、スタッフルームで夜勤の人からの引き継ぎが完了すると、七瀬光輝という同世代の女性介護スタッフが、「よろしくね」と親しみの笑いを浮かべてコーヒーを持ってきてくれた。七瀬は高校卒業後、介護専門学校に進んで現在社会福祉士の免許を取得しているこの道では百恵より何年も先輩の立場で、職場では介護スタッフ兼任の入所相談員もしている。しかし学年は同じく、「この職場、同世代の人がいなくて退屈してたの」と人なつっこく寄ってきたのだ。百恵は「ありがとう」と言ってコーヒーを飲むと、二人は“光ッチ”“モモ”と呼び合おうと決まり、すぐに意気投合したものである。
 早朝の見回りが終わり、朝食の準備にかかるまでは若干の時間があった。七瀬と百恵はお互いの身の上話に花を咲かせた。
 「ねえねえ、彼氏いるの?」
 七瀬の質問に苦笑しながら、「最近、なんだかかみ合わなくて……」と答えた。
 「なーんだ、いるのか……。私なんかこんな所に勤めているから出会いがなくて。ねえねえ、誰か紹介して!今度ゴーコンしましょ!」
 七瀬のはしゃぎようにたじろぎながら、百恵は気のない相槌で答えていた。そんな七瀬が午前中の入所相談で、施設のロビーで入所希望者の家族の人たちと話をしている表情に、百恵は別人と見違えた。朝の七瀬とは想像できないほど真剣な様子で話を聞いているのである。ちょうど百恵もロビーのソファで、施設利用者の苦情を聞いている時だったので、その内容を聞くことができたのである。
 「おばあちゃん、とっても良い施設じゃない……」
 話しているのは嫁らしき四十代の小太りの女性である。ソファに小さく座っているおばあちゃんの表情は暗かった。その脇には痩せこけた小太りの女性のご主人らしき男もいる。
 「ご自宅で介護できない理由をお聞かせ下さい」
 七瀬の瞳が輝いていた。
 「うちはお父さんと娘が働きに出ていますので、昼間のおばあちゃんの面倒はぜんぶ私が見ているんです。少し前までは何でも自分でできていたんですが、最近、身体も動かなくなってきて物忘れもとっても多くなってきてしまったんです。しばらくはデイサービスにも通っていたんですけど、どうも馴染めないみたいで。ね、そうよね、おばあちゃん。それで最近はずっと家にいるんですけど、私も付き合いの方が忙しかったり、やることもいろいろあって、とてもあばあちゃんの面倒まで手がまわらなくなってしまって、それでご相談に来たんです。だって一人で立つこともできないんですから、どこに移動するにも私が支えなきゃいけないんです。ね、おばあちゃん、そうよね。いっその事、施設に入った方が友達もできるだろうし、おばあちゃんにとっても、家族にとってもいいんじゃないかって、ね、そうよね、おばあちゃん」
 小太りの女性は、「そうよね、おばあちゃん」を何度もはさみながら、言葉を笑顔で包み込むようにそう言った。とうのおばあちゃんは何も答えず、ある一点をじっと見ているだけの様子だった。
 「要介護認定をまだ受けられていないようですので、入所は難しいと思いますが、通所の申請は一応やってみます。ただ、現在コスモス園も施設自体の収容可能定員がいっぱいになっていますので、何ヶ月か、あるいは何年かお待ちいただくようなことになるかも知れませんがご了承下さい」
 七瀬は事務的にそう言うと、必要書類を家族に手渡して、玄関まで見送った。おばあちゃんはゆっくりだが自力で立ち上がると、無口そうなご主人に支えられながら出ていった。
 「私がいなくなることで家族円満になるなら、わたしゃ本望だよ……」
 「何をいうんだよ、母さん」
 おばあちゃんのしゃがれた声が百恵の耳に入ってきた時、彼女は急に悲しくなった。百恵は七瀬を呼び止めると、「今のご家族……」と言った。
 「典型的な“うわべ家族”ね。おばあちゃんは言っていることもしっかり理解できているし、ゆっくりだけど自力で立つこともできた。今の方たちはおばあちゃんとご主人が実の親子で、女の方はお嫁さん。最近多いのよ、こういう相談が。介護の域にまで達していないのに、いわゆる世話を焼くのが面倒で相談に来る人。老人介護施設は“姥すて山”じゃないのに……。本当に介護を必要としているのに入所できない人もいるし、その見分けがけっこうたいへんなのよね。施設の財政のこともあったり、利用者人数や介護の度合いとスタッフ人数のバランスもあったり……、もう、けっこう大変」
 「“うわべ家族”か……」
 百恵がつぶやいた。北朝鮮の拉致被害者が何十年ぶりに家族と再会した涙のニュースや中国残留孤児の家族再会の感動のニュースがあるかと思えば、実の子を虐待したり、産後間もない赤ちゃんを殺したり、親を殺害したりする悲劇のニュースも連日のように報道される。百恵はそんな事を考えながら、社会全体を覆い尽くす大きな闇のようなものを感ぜずにはいられなかった。
 「モモのご両親は……?」
 七瀬が聞いた。
 「ええ、健在よ」
 「私ね、こんな仕事しながら、たまに家族って何だろう?って考えるの。私、お父さんがいないから……」
 七瀬は小学校の時に両親が離婚したこと、看護士だった母が女手一つで自分を育ててくれたことを話した。いつも明るい母は、一度も自分には涙を見せた事がなかったと語る。自分も寂しかったけどきっと母はもっと辛かったと───。
 「私ね、ある時お母さんに聞いたの。お父さんと別れて本当に幸せだったか?って……。そしたらね『分からない』って答えた。『でも、世間体を気遣ったり、心を偽ってうわべだけの家族を演じるよりずっと気が楽だ』って、そう言ってた。だからさっきの様な人たちを見ると、別々に暮らした方がいいよって思っちゃう。だからね、私は将来を考えるとき、絶対悪い男には引っかからないぞ!って、そのお母さんの言葉を聞いたとき誓ったの」
 「ねえ、山口医院の山口先生のこと、どう思う?」
 話が家庭の核になる夫婦の事に及んだとき、思わず百恵の口からもれた。「どうして?」と七瀬が不思議そうに言ったので、「別に、ただ、なんとなく……」と言葉を濁した。
 「バツ2で今は独り身だっていうけど、何だか冷たい感じのする先生ね。私は苦手」
 と七瀬が言った。
 「バツ2……?一人目は確かに離婚だって言ってたけど、二人目は亡くなったって」
 「あら、そうなの?やけに詳しいじゃない。誰に聞いたの?」
 「誰って、そんな事いいじゃない!」
 「あやしい……あやしいんだ!彼氏、新津君って言ったっけ?言っちゃおうかな!」
 はしゃぐ二人の横をリハビリスタッフをしている山中健男が通りかかった。百恵の印象では少し軽率な感じのするちょっとカッコイイ男であった。途端、七瀬の態度が豹変すると、少し照れたように頭をペコンと下げた。
 「やあ、七瀬さん、調子はどう?」
 「いいですよ。山中さんは?」
 「参ったよ。楠さんがリハビリ中に転んで骨折っちゃってさあ。もう、さんざん」
 そう言うと、山中は慌てている様子で行ってしまった。
 「え!楠さんが!たいへん!中山君、待って!」と追いかけるまでの一連の七瀬の態度を見て、百恵は彼女が山中を好きな事を知った。