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(十一)桜吹雪
 がりょう公園での花見は、土曜日の正午から開催された。男性介護スタッフの若手が、朝五時から場所取りをしていた場所は、竜ヶ池の北側にあたる親水庭園と見晴台の近くの小広い芝生の上だった。そこに広く陣取った青いシートの上に、施設長はじめおよそ二十名近くの施設スタッフ達が居並んだ。竜ヶ池を正面にした一番奥の中央に施設長、その左隣りに施設医の浩幸はじめ内科の先生、右隣りにはなぜか百恵が座らされていた。「新入スタッフは前へ」と、強引に座らされたのである。
 果たして時間になると、信州北信地方の流儀である堅苦しい形式じみた進行で花見が始まった。暗黙の了解で、幹事が司会進行をつかさどる。大学仲間での形式も何もないざっくばらんな席しか知らない百恵は、社会人になってはじめて経験する面倒な飲み会に驚きながら、長たらしく感じる施設長の話を聞き終えた。続いて浩幸が挨拶に立った。百恵は横目で彼の顔をのぞき込んだ。
 「僕は、こういうふうに話す場を与えられて話すのは好きではありません。今日は桜を見ながら楽しく過ごしましょう」
 と、これだけ言うと座ってしまった。それは、話など良いから早く飲みたいというその場の雰囲気を読みとっているようにも思えた。続いてもう一人の内科の先生の話が終わって、ようやく看護士長の乾杯の音頭で飲み会が始まったのである。
 始まったかと思うとすかさず幹事が、「ええ、それではこの四月から新しく介護要員として加わった馬場百恵さんから一言お願いしたいと思います」と、指名された百恵は、「何も考えていないよ」と顔を赤らめながら立ち上がった。そして浩幸の視線を気にしながら、
 「私は介護の仕事は始めてで、今も何も分からずにやっていますが、皆さんの指導をあおぎなら頑張りますので、どうかよろしくお願いします」
 と言った。席は拍手と共に、「彼氏はいるの?」とか、「年はいくつ?」とか、「家はどこ?」とかいう声が飛び交い、「まあまあ、飲みながらゆっくり伺いましょう」という幹事の言葉で、ようやく和やかな雰囲気になったのである。
 入れ替わり立ち替わり百恵の前に酌に来る人たちに、「すみません、私お酒飲めないんです」と断りながら、それでも一口二口と飲まされて、百恵はすぐに酔ってしまった。その中でも、施設長の高野と浩幸の会話がずっと気になって、耳をそばだてていたのである。
 「先生、今日は大樹君は連れてこなかったのですね?」
 「ええ、面倒を見てくれる看護士の女の子が沢山いましてね。心配はいりません」
 浩幸は口数も少なく、酌に来る人たちの盃を、笑みを浮かべた表情で飲み干すのだった。
 一時もしないうちに施設長は立ち上がると、「ちょっと私は仕事がありますので、これで失礼します」と両脇の浩幸と百恵の肩を叩いて立ち上がると、「施設長はどうしても仕事がありましてこれでお帰りになります」という幹事の言葉に合わせ、ブーイングと拍手に送られて行ってしまった。
 隣同士になった百恵と浩幸は、百恵はうつむき、浩幸は静かに酒を飲んでいた。ふと、百恵の前にビールのお酌をする手が差し出された。見れば浩幸が笑いながら「どうぞ」と言っている。
 「すみません。私、お酒飲めないんです」
 「そうですか……」
 浩幸は飲ます事を強要もせず、そのビールを自分のコップに注いだ。
 「すいません。気がつきませんでした……」
 慌てて百恵は自分の前のビールを浩幸に注いだ。
 「そういう意味じゃありませんよ」
 浩幸は百恵を見ると微笑んだ。酒盛りは花より団子で次第に盛り上がっていった。中には腹踊りをやりだす男性の事務職員が出てきたり、気の合う女性スタッフ達は、甲高い笑い声を上げて世間話に花を咲かせるのであった。そんな時、浩幸が、
 「どうですか?こんなに桜もきれいだし、少し歩きませんか?」
 百恵の心臓が高鳴った。浩幸の笑顔に吸い込まれるように、理性とは別のところで「はい」と返事をしていた。
 「山口先生、モモちゃん連れてどこ行くの?」
 「手が早いね。よっ!色男!」
 浩幸は笑顔のまま何も言わず、冷やかしの声に見送られながら、二人は桜吹雪の中に消えていった。
 がりょう公園の桜は、日本の『さくらの名所百選』にも選ばれている有数のスポットである。約八百本ものソメイヨシノの並木は、訪れる人たちの心を和ませる。桜祭りの頃は、露店が連なり、散りゆく花びらと竜ヶ池に映し出されるその様は、世俗の世界とは全く別の光景を作り出す。舞い散る花びらは季節遅れの雪のように、茶色い地面をも真っ白に染めていた。浩幸と百恵はその中を、何も話さずゆっくり歩いた。
 「貴方もああいう場は苦手なんですね……」
 「お酒が飲めないので、周りのペースについていけないんです」
 百恵は少し照れながら言った。
 「僕も嫌いです。でも付き合いで仕方がないんです。そうだ、おでんでもおごりますよ」
 浩幸は近くの茶店に入ると、タマゴと竹輪とペットボトルの清涼飲料水を二つずつ買ってきて、そして池の見えるベンチに腰掛けると、「どうぞ」と竹輪を差し出した。
 「なんだか懐かしい……。昔おばあちゃんとここに来た時も竹輪のおでん、食べたっけ」
 浩幸は何も言わず、自分の竹輪を一切れちぎると、近くに寄ってきたカモに投げ与えた。桜吹雪が舞い散る中で、二人は年の離れた恋人のように見えた。
 百恵が竹輪を食べ終えると、浩幸は今度はタマゴを「どうぞ」と差し出した。百恵はそれを一口かじると、
 「もうたくさん……、食べられない」
 と、浩幸の持つ入れ物に返した。
 「そうだね。さっきから食べてばかりだからね」
 と、浩幸は何の照れもなく、百恵のかじったところからそのタマゴを食べはじめたのだった。百恵はドキッと浩幸の顔を見つめた。俊介との付き合いも長いが、どこかに食事に行った時でも、お互いのものをつつき合って食べたことすらなかったのだ。しばらく驚いた表情で彼を見つめていると、「どうしたの?」と、不審そうに浩幸が言った。
 「い、いえ……、別に……」
 百恵は慌てて目をそらした。
 「医者のくせに貧乏性なんです。自分の子供が残したご飯も、もったいなくて全部僕が食べてしまう」
 「大樹くん……?」
 浩幸は子供の名前を知っていることに、少し驚いた顔で百恵を見つめた。
 「ああ、その……、コンビニでバイトしてた時、よく先生いらしていたから……」
 百恵の慌てた様子に、浩幸はひとつ微笑んだ。
 「仕事を離れている時くらい、その先生というのはやめてもらえませんか?堅苦しくて嫌いなんです」
 浩幸はそう言うと立ち上がって歩き出した。そして弁天橋の脇を通りすぎた時、
 「どうですか?今は馬場さんの彼氏もいないことだし、ほんの少しだけ名前で呼び合うというのは?僕も馬場さんと呼ばずに“モモ”って呼びますから、貴方も私を“浩幸さん”……、いや違う、今時の娘は何て言うんだろう“ヒロポン”……、“ヒロピー”……、ちょっと古いかな……」
 百恵はクスリと笑った。
 「恋人同士じゃありませんから、いいです、馬場さんで……」
 「そうだね」
 二人は顔を見合わせて微笑んだ。丁度小さな滝が流れる橋のところで、浩幸が、
 「そうだ、ちょっと山に登ってみませんか?」
 見れば須田城址への入口を示す杭が立ってある。百恵は履いてきたハイヒールを気にして「今日は新人歓迎会の意味もあると思って、私、こんな靴で来てしまったの」と言うと、
 「山の頂上に昔この辺りを治めていた須田氏の城跡があるんです。大丈夫、そんなに驚くほどてっぺんは遠くありませんし、道もそんなに険しくありません。ゆっくり登っても十五分もあれば城跡に着けますよ」
 そういうと浩幸は先に登りはじめてしまった。百恵は「もう!」と思いながら後を付いていった。
 「この“がりょう山”の伝説を知っていますか?」
 ゆっくり山を登りながら浩幸が言った。
 「知りません」
 浩幸は少し意地悪そうに「須坂の人でしょ?」と言った。
 「学校で習いませんでしたから」
 百恵の言葉に、浩幸は透明な微笑みを浮かべた。
 「昔、この山のお城に“りょう姫”というとても美しいお姫様がいた───」
 浩幸は“がりょう山”の伝説を話し始めた。話の内容はこうである。
 りょう姫は村の人たちのためにこの山の麓に桜の苗木を植えた。ところがその頃、村には天馬という悪たれ坊主がいて、ある日城主の大切にしていた観音像を壊してしまう。激怒した城主は天馬を村から追放してしまったが、りょう姫は幼い頃、天馬に助けられた事を思い出す。───それから何年かして、城のある山が突然地震に襲われる。しかし不思議な事は揺れているのは山だけで、村には何ひとつ被害はなかった。城主は七千年に一度目を覚ます竜の話を思い出し、山全体が竜であることに気付く。地震の間隔は日に日に短くなり、城主は城の全員を山からおろし、自分は城と共に心中する覚悟を決める。その時、山の自然を心から愛していたりょう姫も自分も残ると懇願し、その強い思いを知った城主は、もう少しだけ城に留まることを許したのだった。
 竜の噂はたちまち全国に広がって、やがて天馬の耳にも届く。天馬は名のある領家に拾われて立派な武士に成長していた。そして、生まれ故郷を救おうと戻ってきたが、そこで竜を退治して名を挙げようとする修験者と出会う。修験者は竜を鎮める方法が一つだけあると天馬に教えた。それは竜の血で肉体を溶かし、竜の頭脳に入り込んで、竜の身体を支配するという事だった。天馬は自らが生け贄となり村を救おうと決意して、その前に、逃げ遅れたりょう姫を救いに山に登る。しかし、修験者は生け贄は若い娘でなければならない事を天馬に告げなかった。
 果たして天馬が城に着いた時、彼が生け贄になろうとする決意を知って、城主は生け贄は若い娘でなければならない事を教える。愕然とした天馬のかわりに、りょう姫が自分が生け贄になると言った。時は既に迫っていた。竜は目覚め、天に立ち上ろうと俄かに身体を持ち上げはじめたのである。その時の地震で城主は死に、修験者が打ち込んだ大きな岩は、竜の逆鱗に突き刺さって血をふきだした。村を守るには、りょう姫が竜の脳に入り込むしかなかった。村を救うために命を落とすのならば幸せだという思いは、りょう姫も天馬も同じだった。天馬はりょう姫を竜の傷口に連れていき、別れにりょう姫は山の麓の桜を守ってほしいと最後の願いを託す。やがてりょう姫の身体は溶けていき、竜は鎮まった───。
 「竜ヶ池は、その時竜が暴れたときにできた池で、すぐそこを流れる百々川の石が皆赤いのは、その時流れた竜の血のためだそうですよ」
 浩幸は百恵の表情をのぞき込んだ。
 「え?じゃあ、この山全体が、竜になったりょう姫の身体ってこと……?」
 「そうです。次に目を覚ますのは、何千年も先の事ですけどね。見て下さい、この松───」
 浩幸は一本の松の近くに寄っていき、その幹を二、三度叩いた。
 「ねじれている……」と驚く百恵に、浩幸は「須坂の人でしょ?」とからかった。
 「もう!」
 “根あがりねじれ松”は須坂市の指定天然記念物に指定されている。松がねじれる原因として、年間を通して南東の風が稜線にそって北東に吹くことが多いためだとされており、表土が浅く水分も少ないため松の成長がおそく、根が地表から出てしまうという珍しい松だった。がりょう山にはそんな“根あがり松”や“ねじれ松”が無数に点在しているのだ。
 「“ねじれ松”っていうそうですけど、これは竜になったりょう姫の、深い苦悩が、松をねじれさせているってことです───」
 百恵はポカンと浩幸の顔を見つめて、「信じているんですか?その話……」と笑った。
 「おかしいですか───?でも、実際、そうだったら楽しいと思いませんか?さあ、てっぺんはもうすぐです!」
 浩幸の後を、百恵は肩で息をしながらも楽しそうについて歩いた。
 果たして頂上には、花見の混雑とは打って変わって、静かな涼風が流れていた。
 「ここが城跡ですか?何にもありませんね……」
 百恵が不満そうに言った。見れば須田城址の案内板の他は、その近くに小さな屋根の形をした石が置かれてあるだけで、ただの狭い平地であった。
 「こんなに狭い場所に本当にお城があったのですか?」
 浩幸は何も言わずに、そこに設置されているテーブルの椅子に腰掛けると、百恵も彼の隣りに若干距離をおいて腰をかけた。すると浩幸は持っていたペットボトルの蓋を開けて飲料水を飲んだ後、煙草の先端に火をつけた。
 「たまにこうしてここに登るんです。いつも一人で登るのですが、この間は大樹も一緒に連れて登りました。何も考えずに下界を見ていると、昔、須田氏がどうしてここに城を作ったかが分かる気がしてくるんです……そういえば、女性を連れてきたのは貴方が最初です」
 浩幸は煙草の煙を吐きながら、遠くに光る千曲川を見ていた。
 「先生……、いつも大樹君の手を引いてコンビニに来ていましたけど、先生の奥さんて、どんな女性……?」
 百恵は浩幸の横顔をじっと見つめながら、そっと呟いた。彼は百恵の顔を見つめ返し、
 「どうして……?気になりますか?」
 と微笑んだ。百恵は今まで聞けなかった事を、何の心構えもなく、ごく普通の会話のように聞けてしまった自分からはっと我に返ると、慌てて「いえ、別に……」とその質問を否定した。浩幸は煙草の火をもみ消すと、遠くを見つめた。
 「さあ、戻りましょうか。きっとみんなが僕たちの悪い噂をしているに違いありませんから」
 浩幸が山を下りはじめた時、
 「あっ!」
 百恵は履いていた右のハイヒールのバランスを崩し転んでしまった。
 「大丈夫ですか!」
 浩幸は慌てて百恵の手を引いて起こそうとしたが、どうも足を変なふうにねじったようで、両足で立つことができなかった。
 「ごめんなさい。私、ドジだから……」
 「いいえ、貴方がこんな靴を履いているのを知っていて、こんな所に誘った僕がいけなかった……、足を見せて」
 浩幸は百恵の足に手を当てた。
 「軽い捻挫をしてしまっていますね」
 「平気です。ほら、歩けますから……」
 数歩歩いてよろけた百恵の身体を、浩幸は強く抱き寄せて支えた。その時、百恵の鼻をかすめた香は、昔どこかでかいだものに相違なかった。浩幸は百恵の前に立つと背を向けて、中腰で座って両腕を後で広げ「どうぞ」と言った。
 「平気です。一人で歩けますから」
 その言葉をうち消すように、「僕の責任です。仕事にも差し支えるでしょ。下におりたら水で冷やしましょう、早く!」と、百恵を背負って歩き始めた。
 百恵の鼓動は高鳴った。揺れる背中の彼の首筋から香る匂いから、遠い記憶をたぐってみたが、いくら考えても思い出すことはできなかった。いつしかうっとりとする自分から我に返ると、急いでその気持ちを押し込めた。

 ───子持ちよ、子持ち!先生には奥さんがいるんだから!そして私には新津君がいるでしょ。だから多分この男性は、けっして好きになってはいけない男性───、好きになってはいけないの!あんなに評判の悪いやぶ医者なんだから、きっとろくなもんじゃないんだから!こんなことして、私の気を引こうったってその手には乗らないわよ。おでんで間接キッスしたくらいで、ファーストネームで呼び合おうなんて言ったって、そんな手には乗らないんだから!───でも、でもこうして先生の背中に顔をうずめていると、こんなに胸が高鳴るのはなぜ?こんなに恥ずかしく、そして嬉しく感じるのはなぜ───?

 「さっきの質問ですが……」
 浩幸がふと呟いた。
 「えっ?」
 「僕の奥さんのことです……聞きたいですか?」
 「…………」
 浩幸はひとつ鼻で笑った後、
 「一人目は離婚、二人目は……、死にました……」
 と言った───。
 涼風が、百恵の額からにじみ出るかすかな汗に、心地よい清涼感を与えていた。
 「でも馬場さん、僕を好きになってはいけませんよ」
 「い、い、いきなり何を言うんです……?」
 百恵は慌てて、赤面したまま返す言葉も見つからなかった。
 「これでも僕は医者です。貴方の心拍数で、おおよそ考えていることは察しがつきます。僕はもう、本気で女性を愛せる男じゃありませんから……」
 百恵は何も答えなかった。しかし、歩調に合わせて揺れる身体で、少しずつ浩幸の中に溶け込んでいく自分の意識を感じていた。