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(十)戦争で引きちぎられた愛
 テレビから、携帯電話の出会い系サイトで少女と知り合った二十八歳の男が、一ヶ月間少女を監禁した事件が報道されていた。会った際にトラブルになり、車で連れ回した末「逃げたら殺す」などと脅迫して、ホテルを泊まり歩いたという事件で、少女はすきを見てコンビニエンスストアに逃げ込み店員に助けを求め保護された。二十八歳の男は逃走していたが、その報道があった日に逮捕された。
 それは、百恵が千ばあさんの耳掻きをしていた時だった。
 「まったく、あたし達の時代じゃ考えられないね。見ず知らずの人と電話で知り合うって、それすら理解できないよ……」
 千ばあさんが気持ちよさそうに、目をつむりながら呟いた。
 「今は携帯電話でメールができたり、私はあまりやらないけどウェブサイトを見たりできるのよ」
 「ウェブサイト……?なんだい、それは?まあ、死ぬのを待つだけのあたしにゃ関係ないね」
 「そんなこと言わないで、長生きしてね、千おばあちゃん……。ところでおばあちゃんはお見合い結婚なの?」
 「まあモモちゃんたら……。年頃だもんねえ」
 千ばあさんは自分の恋愛話をしはじめた。

 昭和十七年───、昨年十二月、太平洋戦争が勃発してから日本は異様な戦勝ムードの中にあった。高等教育の女学校で青春時代を謳歌していた千ばあさんは当時、鬼もほころぶ十七歳。女学校までの通学の列車の中で、いつも自分を見つめる一人の書生がいたという。着流しの学生服に束ねた本を持ち、チラリ、チラリと見つめる視線に、いつしか彼女も気になりだし、ある日、落としたノートを彼が拾って手渡されたのがきっかけで、少しずつ話をするようになった。
 「今度、よろしければ、喫茶店かどかで一緒に勉強でもしませんか?」
 彼の誘いでそれから毎日のように、学校が終わると途中下車して、とある喫茶店で二人だけで勉強をするようになった。帰りの列車が同じ時は二人で降りて一緒に歩き、別の時は先に一人で行って待ち、駅から十五分くらいのところにあるコーヒー喫茶で向き合いの席に座って本を広げる。帰りはいつも一緒に駅まで歩き、手をつなぐわけでもなし、特別な会話をするわけでなし、ただ一緒に共有する時間と空間があるだけで二人は幸せだった。
 彼は経済学を専攻する優秀な書生だったが、昭和十八年に入り戦争の様相が俄かに曇り出すと、学徒出陣の法令が施行され、彼は徴兵にとられる運命となったのである。別れの前夜、二人は会って約し合った。
 「きっと無事に帰るから、その時は所帯を持とう」
 と───。そして彼女は信じていた。必ず彼が帰還してくることを。なぜなら彼女のお腹には、その時宿した彼の子供がいたからだ。
 しかし戦争は日に日に悪化していった。若い男は次々に兵隊にとられる、女性は国を守るための武装をし、切りつめられる家計の一切を守るため必死になり、学生や子供までが戦争協力をする教育システムに組み込まれ、一億の国民が火の玉となって戦争への参加を強要されたのだ。
 上空を飛行する敵機の爆音の下、愛する彼からは何の音沙汰もなかった。東南アジアの方へ遠征したことまでは知り得たが、その後の行方はとんと知れなかった。連日の日本軍の快進撃の報道を見るにつけ、「きっとどこかで生きているに違いない」と信じながら、昭和十九年の夏、彼女は彼の子供を出産した。乳飲み子を抱えながら、食べる物もない、また世間からは「未婚の子を産んだ」と後ろ指を指されながら、必死で涙を堪えながら生きて生きて生き抜いてきたのだ。
 ───やがて戦争は終わった。
 彼の戦死の知らせはなし、彼女は小さな食堂を営みながら細々と生計を立て、彼の子を育てながらじっと彼の帰りを待っていた。
 いつしか半世紀という歳月が流れ過ぎていた。彼女の子供は成人し結婚して子を産み、老いて仕事ができなくなった彼女は居場所を失い、様々な事情も重なって、このコスモス園に入所した。

 千ばあさんは目に涙を溜めていた。
 「いったいいつまで待たせるんだろうね、あの人は……。おかげでわたしゃ、こんな婆さんになってしまったじゃないか」
 百恵のもらい涙は千ばあさんの頬に落ちた。
 「モモちゃん……、あんた泣いてくれるのかい?」
 百恵は涙を拭きながら「だって……」と言った。
 「彼、死んだって思わなかったの?戦争が終わったら、別のいい人見つけて結婚すれば良かったのに……」
 「そんなことできるもんか。だって彼はあたしを愛してくれているんだから。そしてあたしも彼を愛しているんだ。だって、約束したじゃないか。裏切れないよ、愛は……。きっとどこかで生きてるよ。こうしてあたしが待っているんだから……」
 百恵はとめどなく流れる涙をおさえることができなかった。