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(一)忘却の中のひらめき
 霞みかかる大気のむこうで、紅色の寒椿が咲いていた。
 雪解けの須坂の春はまだ遠く、ぼんやりと瞳に映ったその椿を眺めながら、百恵は小さなため息を落とした。
 蛍ヶ丘は須坂市の北、小布施町に隣接する小さな町である。百恵はそこに在するコンビニエンスストアでアルバイトをするいわゆる就職浪人だった。昨年春、大学を卒業したものの世の中は就職難で希望の職に就くことができず、この春からのそれにも漏れてしまった口である。というより、自分は何をしたいのか?もっと言えば、自分という存在は何なのだろうと考え始め、結局分からずに、仕事をしないわけにもいかないからバイトでもしようと、昨年の秋から家から少し離れたコンビニで働きはじめたのだった───。
 早番は早朝五時からの勤務。眠い目の奥の寒椿は確かに紅色だった。
 工事現場に行くのだろうか、作業着姿の中年の男がラジオを鳴らしながら店内に入ってきた。男が品定めをしている間耳に入ってきたのは、昨日発生した殺人事件のニュース。息子が刃物で父親を殺害した事件で、道徳的には許されざる行為が、社会的風潮としては「またか……」というある種の諦観ムードが完全に支配していた事件でもあった。百恵は聞くともなしに聞いていたが、やがて早朝の来店者は缶コーヒー二本とパン、そして煙草を買って出ていった。
 マニュアル通りの科白で男を送り出した後、百恵は再び椿に目を移した。やがて、コンビニ前の道路を走る車が次第に増え、椿を覆っていた寒気の霧が急に晴れた時、
 「そういえば……」
 脳裏には、愛した祖母が亡くなる時の光景がひらめいていた。それは、遠い忘却の中でぼんやりと浮かぶ、祖母の枕元に置かれた紅色をした一輪の寒椿だった。
 「忘れてた……。私、高齢者介護の仕事をしたかったんだっけ……」

 おばあちゃんの枕元にはちょうど同じ色の椿の花が咲いていた。十歳の私は何もしてあげられなかった。まだ身体が小さくて、おばあちゃんを抱きかかえることも、支えてあげることもできなかったから、トイレにも、お風呂にも連れていってあげられなかったの。
 私、その時誓ったっけ……。大きくなったら介護の仕事をしよう!……って。
 元気な時のおばあちゃんは、私をよく家の近くを流れる河原へ連れていってくれた。でもその川は魚が住まない川で、石はみな茶褐色に染まっているの。あるとき私が「魚釣りをしたい」と言うとおばあちゃんは静かに笑っていた───。
 帰り道にある小さなお店で、いつもお菓子を買ってくれるの。どれにしようか迷ってしまって、長い時間、おばあちゃんは何も言わずに待っていてくれた。ようやく決まると、「ほんとにそれでいいの?」と笑っていた。そう、ついでにおばあちゃんはカップラーメンをよく買っていた……。私が学校から帰るとおばあちゃんはおやつがわりにそのラーメンを食べていて、私が「いいな、おばあちゃんきり」って言うと、いつも半分わけてくれたっけなあ……。

 百恵の表情に微笑みが浮かんだ。その回想を断ち切るように、店内が急に混みだした。
 「何、考え事しているの?」
 声をかけたのは大学時代に絵画サークルで一緒だった新津俊介だった。
 「なあに?また栄養食品?たまにはちゃんとしたもの食べないとダメよ」
 カウンタに持ってきた商品のバーコードを読み取りながら百恵が言った。彼女にとって彼氏といえば彼氏である俊介は、大学卒業後IT関連の会社に勤めるサラリーマンだった。県外出身の彼は、百恵と同じ長野の千曲川大学に同期で入学したが、卒業と同時に長野市の会社に就職が決まったので実家には戻らず、そのまま中野市のアパートに一人暮らしをする人の良い青年だった。ちょうど通勤途中にあるコンビニへは、彼女が早番の時には必ず顔を出す。いっそ就職などしないで、早く結婚して専業主婦になる道もある。百恵は俊介を見てニコリと笑った。
 「このところ毎日忙しかったんだけど、今日は定時にあがれそうだ。どう?久しぶりに外で食事でも。おごるよ」
 百恵が笑顔を返事に変えると、「じゃ、仕事が終わったら迎えに行くから、家で待ってて」と、俊介は手を振りながら出て行った。