(二十五)永遠の光

 この世に存在するすべての物から名前を取ったら、
 ただ形のある物体だけが存在する空間になるだろう。
 更にそれらの物体から形を取ったら、そこにはいったい何が残るのだろう……?
 ただ無意味な空間だけが残るのだろうか?
 ───私はそうは思わない。
 無意味であるなら、そこに形ある物を生み出す必要もないからだ。
 意味があるから形が生まれたのよ。
 そして、その形ある物体に意味を見出し、人は名前を付けたのだ。
 山、川、空、海───。
 星、月、雲、太陽───。
 鳥、犬、人、車───。
 本、筆、シャツ、家───。
 お米、コーヒー、スプーン、ラーメン……。
 そして、母、父、夫、子───。
 すべて意味があるから存在している。
 存在しているから名前を付けた。
 “名は体を表す”ってそのこと───。

 宇宙の塵が集まって、やがて星という形あるものが生まれるの。
 その星を生み出す力が、空間には厳然とあるとは思わない?
 そうして生まれた何劫もの星の一つが地球だなんて、
 そうして何億年もの時間をかけて、生まれてきたのが人間だなんて、
 そして何十億人もいる人の中で、愛するたったひとりの人と巡り会うなんて───。
 奇蹟とか偶然とか言ってしまえば簡単だけど、
 奇蹟と呼ぶには不思議すぎ、
 偶然と呼ぶには安易すぎ───。
 あえてそれを呼ぶならば、妙という名の必然……。

 そうして人は巡り会い、愛し合い、
 様々な障害を乗り越えて、新しい生命を育むの。
 これほど不可思議なことがあるものでしょうか?
 私はその不可思議な必然の中で浩幸さんと出逢ったの。

 私が五歳の時の彼の目は、どこかとっても悲しげだった。
 時が流れて再び彼に出会った時も、彼の瞳は寂しげだった。
 彼は大きな孤独の中で、自分の理想を実現しようと必死だったの。
 彼は私に冷たい態度をとったけど、私はそんな純情さを愛してしまった。
 でも、長い歳月の溝を埋めてくれたのは、五歳の時の宝物。
 ビーズの指輪───。
 私は空間にある厳然とした力を無意識のうちに感じてた。
 彼は独りぼっちだった。でも、とても強かった。
 どんな状況になったって、いつでも笑顔を浮かべてた。
 スキャンダル騒動、
 医療ミス問題、
 そして不慮の事故───。
 脳移植───。
 それでもどこまでも私の事を考えてくれていた。

 そして彼は教えてくれたの。
 未来は自分で創っていくものだって。
 未来の自分が、築くものだとしたら、今の自分は過去の自分が作り出したもの。
 私や私をとりまく環境は、過去の私の生き方の産物。
 過ぎ去った過去は変えられないけど、未来はきっと変えられるって。
 未来に何が起こるかではなく、何を成そうか───。
 それなら私は欲張って、
 私をとりまく人や社会までも、
 悠々自適に過ごせる環境を作り出していきたいわ!

 でも、社会のいろんな事件を思うとき、
 そのことばかりに目が行って、
 それが果てしない宇宙空間の中のたった一つの現象であるってことも、
 とても長い歴史の中のたった一つの出来事であるってことも、
 すっかり忘れてしまっているの。
 結局事件の本質が理解できなくて、
 私の知ってる痴呆のおじいちゃんとおばあちゃんにあやかって、
 私は悩める社会を“痴呆の都”と名付けたの。
 でも、この世は痴呆の都と思ったけれど、
 浩幸さんと出会い、様々な経験を乗り越えて、
 私自身が少し成長したのかな?なんだか一八〇度世の中が変わって見えてきた。
 痴呆とは前進することを忘れた病気なの。
 愚痴を言い出したときから始まるの。
 知らなかった───。
 私の周りのすべてのものが、私自身が作っていたなんて。

 いろんな事があったけど、
 今はとってもしあわせ。こんなに幸せでいいのかしら。
 私の近くには、浩幸さんがいる……。
 大樹君がいる……。
 ───そして…………

 その年の八月中旬───。
 百恵は玉のような男の子を出産した。
 死んでしまうのではと思うような痛みに耐えて、元気な産声をあげて出てきた男の子に、百恵の“百”と浩幸の“幸”をとって、一〇〇の幸せという意味で“百幸”と命名した。年の離れた弟の誕生に、大樹はすっかりお兄ちゃんになった。
 命名の際、家族に一悶着あった。それは一家の苗字をどうしようということである。考えて見ればおかしな構成であった。家主はデュマを名乗り、妻は馬場を名乗り、子は山口をそのまま名乗っていたからだ。おまけに家の表札は依然山口のままである。離婚届けを出してしまってからは、役所に行くのもなんだか面倒で、一家は不思議な同棲状態を維持したまま現在に至ってしまっていたのだ。
 とりあえず出生届け締め切りの日も近づいていたので、デュマ・ハクユキはないだろうと、馬場百幸として届け出たが、夫婦別姓の風潮もあり、いまや一家にとって共通の苗字などさほど重要な問題ではなかった。表面上のものではなく、その根底にあるお互いの絆こそ、家族にとって大切であることを達観し、結局、時が来たら考えようと、その際も決着がつかないままになったのだ。
 北信濃の夏の夜は、比較的過ごしやすいと言われるが、その日は稀に見る熱帯夜だった。クーラーを効かせた室内で、百恵は百幸に母乳を与えながら、テレビゲームにいそしむジャン=ジャックと大樹の姿を、笑みを浮かべて眺めていた。

 山口百恵にはなりたかったけれど、
 やっぱり私は私───。
 小さい時から「ばばあ、ばばあ」とバカにされて悔しかったけど、
 結局、老人介護の仕事が天職だった。
 痴呆のおじいちゃん、おばあちゃんは私の友達……。
 特養棟の仲間は私の家族……。
 そして大樹君と百幸君は私の宝……。
 そして、浩幸さんは私の大切な夫、そして師でもあるの!
 私、まだまだ三十一歳。
 おばあちゃんじゃないけれど、私の名前は“馬場百恵”───。

 突然、百幸が泣き出した。驚いたジャン=ジャックはゲームを中断して、片手におさまってしまうほど小さな百幸の身体を「よしよし」と言いながら抱き上げた。その様子を大樹が笑って見守っている。
 「見て、見て、百幸君が笑ったよ!わあ、浩幸さんにそっくり!」
 「僕の子だからね、当然!」

 二人の左の薬指の光は、遠い宇宙の空まで届いた。

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