一生の旅路にはぬかるみの道もあり、灼熱の砂漠もある。越え難き険難の山もあり、渡り難き激流の川もある。あるいは長雨に悩まされ、何日も一歩も進めない時もあれば、道を間違えて引き返さねばならない時もあろう。されどその行く手には、誰もがあると信じて疑わない、幸福という名の天竺があるはずなのだ。だから皆生きている。進むことをやめたとき、天竺は消え、人は生きる意味を失うだろう。
一歩、二歩───。否、一ミリ、二ミリ───、とにかく前へ進むのだ。豪雨の中を、嵐の中を、日照りの中を、寒波の中を、勇気を取り出して進むのだ。
百恵はコスモス園特養棟の屋上から見える、雪に覆われた夕陽傾く赤紫の北信五岳に堅く誓った。
思えば長く苦しい道のりだった。彼女の辿り着いた天竺は、同時に次の旅路へのスタートラインである。就業時間を終えて久しぶりにあがった屋上の彼女は、沈みゆく夕陽に胸をわくわくさせた。
「百恵さーん!」
見れば地上から手を振るジャン=ジャックだ。
「どうしたのー……?!」
「少し歩こう!」
私服のジャン=ジャックの姿から、仕事が早めに終わったのだとすぐに分かった。浩幸の自宅に再び大樹と三人で住み始めた百恵と彼は、たまには大樹抜きで二人だけで散歩でもしようと、こっそり相談していたのだ。百恵は喜んで階段を駆け下りた。
蛍ケ丘の町をゆっくり歩いて、二人がやって来たのは区内の小さな公園だった。日中は子ども達の遊び場となる幾つかの遊具も、夜の帳に包まれつつある今は、周囲に残る雪の中でひっそりとあるだけ。冬の寒気が覆う中ではあったが、暫く歩いた白い息を吐く二人の身体は、既に温かい程だった。
「こんなところに公園があったのね……。私ちっとも知らなかった」
百恵が言った。
「“鶴の公園”って呼ばれてます。僕も子どもの頃よく遊んだものだ。大樹だってよく来ているはずですよ」
「鶴の公園……?」
見れば少し大きな滑り台がある他は、数種類のブランコやベンチがあるだけの何の変哲もない広場。百恵は公園内を見回して首を傾げた。
「鶴なんてどこにもいないわ───?」
ジャン=ジャックは笑いながら、公園内の西側にあるコンクリートで作られた池の様なところに向かって歩き出した。
「ほら……」
その指さす先には、水のない池の中洲のような所に、四つの鳥の足の作り物がある。その根元は欠けて、上にあるはずの鳥の姿は想像することもできない。
「鳥の足……?」
「鶴の足ですよ」
笑いながらジャン=ジャックは、『鶴の公園』の名の由来について話し始めた。
「実は僕も、この公園にある鶴の姿を見たことは一度もありません。しかし公園が設置された当初は、確かにここに二羽のつがいの鶴の像があったそうです。だからこの公園は『鶴の公園』って呼ばれているんですよ。僕が小学生の頃の噂ですが、当時この町に一人の車椅子の精神障害者の方がいましてね、昭和四十年代の話ですから障害者を受け入れる施設も制度も現在ほど充実していませんから、よくその方は車椅子で町の中を散歩していました。僕らはその方の姿を見かける度に、何をされるか分からないという恐れからいつも逃げ出したものです。ところが公園の鶴がなくなった噂に二つありまして、一つはその美しい鶴は夜中に泥棒に盗まれたというもので、もう一つは、その精神障害者が足の根元から折って家に持ち帰ってしまったというものでした。───どちらが事実だったと思いますか?」
彼は楽しそうに質問を百恵に投げかけた。
「なんか心理テストをされてるみたい……。どちらもあまり明るい噂じゃないけど……。私だったらこう考える。その二羽の鶴があまりに美しかったから、天の神様は永遠の生命をお与えになり、二羽の鶴は不死鳥となって永遠の愛を誓って大空に羽ばたいていった……、どう?」
「……案外ロマンチストなんだ」
ぶっきらぼうなジャン=ジャックの台詞に、百恵は「なによ!」と膨れた。
「でも正解は君の言う通り、そのどちらでもない。本当は台風で倒れてしまったんだ」
「なんだ、つまらない話……」
ジャン=ジャックは笑いながらブランコに向かって歩き出した。その後を百恵が付ける姿は、愛しあう恋人同士の姿に違いなかった。
「でも僕は思うのです。公園から鶴がなくなったという事象に対して、事実を知らない庶民はそのように考えるんだなって。みんなが百恵さんのようなロマンチストならもっと世の中は変わるだろうと思うけど、“なくなる”というマイナスイメージを伴う出来事の原因を連想する時、どうしても悪い想像をしてしまうのは大衆の性質ではないかってね。あの精神障害者の方には申し訳ありませんが、“なくなる”ということと“怖い”というイメージが人の頭の中では非情に結び付き易い関係にあって、濡れ衣を着せられたようなあんな噂が出てしまったんだって。その根っこは『精神障害者』イコール『怖い』という偏見があった」
「よく分からない。何が言いたいの?」
ジャン=ジャックは童心に返ったようにブランコをこぎ出した。
「無知からくる民衆の偏見の怖さですよ。僕が脳移植をしたなんて世間が知ったら、いったいどんな地獄を見るだろうって……。撲一人だけならいいけど、もう君を悲しませたくないんだ……。そう思っただけ」
「なんだ、そんなこと───」
百恵は隣のもう一つのブランコに座った。
「私、浩幸さんのお母さんと夢子さんの真実を知ったとき、言おうか言うまいか本当に考えたの。だけど、あなたにはばれちゃったけど、菊池さんには言わなかった。ほんとの事は誰でも知りたいと思うけど、知らなくてもいい場合もあるんじゃないかって、その時思ったの……。だから脳移植の事だって、このまま誰にも言う必要なんかないと思うんだけど」
「倫理がからんでくる問題だからね。社会、いや世界中が騒然とするよ、きっと。以前のような一部のマスコミを騒がすだけではおさまらない。まあ、それも楽しそうだけど───」
百恵は呆れて「もう!」と、ブランコに揺られるジャン=ジャックの姿を見つめた。
「冗談ですよ。そんなことに費やす労力があるのなら、僕にはもっと他にやることがある。誰かに言うつもりなんて毛頭ありません。第一、言ったところで現段階の医療技術の常識では誰にも信用されませんよ。宇宙人を見たと騒ぐ変人に思われるのが落ちです。真実は実在するだけで、それをどう受け止め、どう生きるかはその人が決めることだし、知らなければ知らないにこしたことはない人の方が多いような気がします」
「美幸ちゃんも?」
ジャン=ジャックは土をこすってブランコをこぐのをやめた。
「彼女は子どもに僕の名前を付けました。しかも三歳からついこの間まで、僕の存在すら知らずに成長してきた。それなのに突然僕が現れたらどうでしょう?彼女こそ知らなくていい人の代表じゃありませんか。それに今は子育てにてんてこまいでしょう。これから先、話さなければならないケースが発生したら、真実を明かすこともあるでしょうが……」
「ねえ、ひとつだけ聞いていい?」
百恵はジャン=ジャックの横顔を見つめた。
「浩幸さんがそんな身体になった直接の原因。須崎さんを恨んではいないの?」
「恨もうと思えばいくらでも恨む事はできますよ。でも恨んだところでどれほどの価値があるでしょう。後向きの生き方だけはしたくないんです。彼を恨めば美幸を恨むことにもなっていく。そんな無意味な事に時間を費やすより、僕にはやらなければいけない事が山ほどあるんだ。介護医療問題のことに、新しい家族のことに───」
百恵は嬉しそうにブランコを飛び降りた。
「やっぱり貴方は浩幸さん!」
百恵は彼の手を引いて小高い滑り台の頂上に登った。
「おいおい、あまり激しい事はしないでくださいね。君は妊婦なんだから」
「わかってる!」
百恵はそう言うと、ジャン=ジャックの身体を抱いて楽しい悲鳴をあげながら、二人でゆっくり頂上から滑り降りた。降り着いた所でそのまま空を見上げると、一等輝く金星が光って見えた。
「ねっ、デュマ先生───?」
百恵は彼をそう呼んだ。ジャン=ジャックは不思議そうに天を仰ぐその横顔を見つめた。
「私の考えている事、わかる?」
ジャン=ジャックは一笑すると、
「わかるわけないよ……」
と答え、それを受けて百恵はニコリと微笑んだ。
「来年の秋には特養棟の屋上に遊園地ができるでしょ?」
「おいおい待ってくれよ。次はコスモス園の敷地内に保育園でも作りたいなんて言い出すんじゃないだろうね」
百恵は驚いたようにジャン=ジャックの顔を見つめ返した。
「どうしてわかったの?」
ジャン=ジャックは呆れ顔で金星に目を移した。
「デュマ先生なんて言うから、何を言い出すかと思ったら。君の考えそうな事だ……」
「もう名称まで決まっているの。『コスモス保育園』。良い名前でしょ?私、あなたと遊園地の企画書作りながら、ずっと考えていたのよ。介護や医療の枠内だけでは今の特養棟に山積みされる諸問題は解決できないって。もっと社会を総合的に考えた施設の構築が必要だと思ったの───。だから先生も、医療と介護の枠をとりはらって、その両方を実現するための医療法人を作ったのでしょ?でもぜんぜんダメ!特養棟って、その広げた枠内でも対応できない深刻な問題を抱えているの。天才山口浩幸にして思いもよらない落とし穴」
「僕に対してそんな事を言えるのは君だけだ───」
ジャン=ジャックは渋面を作って愉快に笑い出した。
「その解決のためには遊園地を作るだけじゃとても不充分。隔離された介護の現場をもっと社会に開くの!もっといえば特養棟内に保育園を作って、たえず元気な子ども達の生命の息吹を流し込むの!昔の日本社会はそうだったわ。様々なジャンルの機関がごく自然に地域の中に混在していて、だからそこに人間同士の交流が生まれて、活き活きとした社会ができあがっていたんじゃないかって。社会の痴呆現象は、それが世の中から消えてしまった弊害じゃないかって考えたの。現代人の痴呆現象が、便利を追求する社会システムの細分化、複雑化から生じた人間疎外が原因としたら、それを崩す新たなシステムづくりが必要だと思うのよ!」
「言いたいことは分かりますが、少子化問題が騒がれる中で、保育園の設立は難しいんじゃないかな?第一、子どもが集まらないよ」
「子どもだったら沢山つくりましょ!」
百恵の短絡的な発想に、ジャン=ジャックは再び呆れて苦笑した。
「だめ……?」
「いや、とても面白い発想だし、道理もかなっているように思う。でも、僕らの追求する道は介護医療ですよ。教育問題じゃない」
「それが行き詰まっているんだから仕方がないじゃない」
「やっと医療法人を立ち上げたかと思ったら、次は学校法人か……。やれやれ、君のおかげで仕事がどんどん増える」
「浩幸さんならきっとできるわよ!」
「当分、君には振り回されそうだ……」
そう言いながら二人の夢の形はまったく同じであった。
珍しく晴れた冬空の下で、二人は滑り台の上でいつまでも金星を眺めていた。
ふと、その隣を流れ星が落ちたところ───。