百恵は「はっ!」としてジャン=ジャックの横顔を見つめた。彼は振り向こうともせず、正面を見つめたままだった。次に出る言葉が何なのか、百恵は全てを諦観したように俯いて、どうせ自分の口から言えないのならば、いっそ彼に断罪してもらった方がどれほど楽であろうか。その結末がどんな形になろうとも、もはや仕方のないことだと思った。愛した人に裁かれるのであれば、どんな屈辱をも耐えよう。そう腹を決めた次の言葉はあまりに意外であった。
「いいんですよ、百恵さん……。一人で悩んでなくたって」
途端、彼女の両目から、いままで堰き止めていた雫が一気に流れ出た。
「全部僕が、君の純粋な思いを拒んできたのがいけないんだ。君は何も悪くない……。全部僕がいけないんだ。もし、君が過ちを犯していたにしても、それは全部僕の責任だから。地獄に行って、閻魔王に裁かれるのは僕だ。仮にその時、地獄の番人である鬼達が君に襲いかかったとしても、僕が君を守る。だから、君が悩む事なんて何もないんだよ……」
ジャン=ジャックはそう言うと、ようやく百恵の顔を見つめ返した。そして小さく笑うと、
「ここに座って……」
と、彼女を隣りに座るよう促した。
その全てを覆うような優しさに触れて、百恵は隠し通す自分の卑しさに、もう耐えられなかった。次の瞬間、
「ごめんなさい───!!」
膝を落として泣き崩れたのだった。
彼を裏切り、自分を裏切り、それでも浩幸を愛するあまり手放したくなかったやっと掴んだ幸福や、大樹を囲んでやっと実現したかに見えた家族の幸福を守ろうとするあまり、たった一回の過ちを隠し通そうとしていた後ろめたさのずるい自分が、まるで砂で作った城塞が押し寄せる波で崩れていくように、彼女の心の氷を溶かしていった。
その肩を優しく叩いて、ジャン=ジャックは何も言わなかった。
そうして暫く泣き伏していた百恵であったが、やがて意を決したように、涙声を交えて語りだした。
「あなたと別れて菊池さんと出逢ったの……。彼の顔、彼の声、彼の姿───、なにもかも浩幸さんと同じだった。気が付いたら私、菊池さんの事が好きになっていて、あなたに悪いって思いながら、彼と浩幸さんを重ねて付き合い出したの……。そして彼も『自分を浩幸さんだと思っていいよ』って言ってくれた───。でも、彼にとって私は、遊び相手の玩具でしかなかった。私バカだから、そんな彼の下心も知らずに……、あの晩……、あなたが突然倒れた晩…………」
百恵は言葉を詰まらせた。
「分かったよ。もう、言わなくていいよ。相模さんから聞いていたよ」
百恵は驚いた顔でジャン=ジャックを見つめた。
「私を嫌いにならないの……?」
「どうして?」
涙を溜めたきょとんとした百恵の表情に、ジャン=ジャックは俄に笑い出した。
「その顔、あの時の顔と同じだ。ほら、まだ統合前のコスモス園のリハビリ室で、君と最初に出会った時……。考えてみれば、あれが僕の一番最初の君へのプロポーズだった。ほら、覚えてないかい?『僕と結婚すれば“山口百恵”になれる』って言ったこと」
ジャン=ジャックは懐かしそうに笑いながら続けた。
「君は自分の心にバカ正直過ぎるんだよ。あの当時から変わっていないんだね……。当時、僕には結婚する意志なんて全くなかったのに、君は振られても振られても、僕の後をまるで雛のように付いてくる。健気で可愛かったけれど、正直、半分迷惑だった───」
すると、左手の薬指にはめてあるビーズの指輪をかざして、
「でも君は、このビーズの指輪を通して遠い記憶を甦らせてくれた。あの時はじめて、君は僕に必要な女性なのかも知れないと思ったんだ。そしてその後起こる様々な障害を、僕と一緒に耐えてくれたね。僕は、いつしか君を愛するようになっていた……。もし君が近くにいなければ、僕はあの大怪我をした時、既に死んでいたと思う」
ジャン=ジャックは百恵の瞳にたまった涙を、両手の親指で拭き取った。
「しかし、脳移植をした後は本当に苦しかった。二重人格になってしまうし、いつ死ぬかも分からない───。だから君と別れることが、君にとって一番幸せになれる最善の道だと考えたんだ。でも誤算だった。君はそれでもこんな僕を思い続けてくれて、闇の中で苦しみ喘ぐ僕を見つけ出してくれた……。どうしようもないバカは本当は僕の方なんだ。君の心を無下に拒み続けたこの僕は、世界に類を見ない大馬鹿者に違いない。だって生命の命令に逆らって生きることが、もっとも不幸な生き方になってしまうなんて、その時の僕には分からなかったんだから。でも君は、僕と出会った最初からその事を知っていた」
ジャン=ジャックは少し照れながら、百恵の瞳にキスをした。
「僕の生命の奥の、百恵さんへの真の思いを目覚めさせてくれたのは、実を言うと君のお父さんなんだ。洋さん……」
百恵は何も言わずにジャン=ジャックを見つめていた。
「僕は君のお父さんを殺してしまった……」
「いいえ、あれは浩幸さんのせいじゃない!」
「確かに手術は完璧だと思っていたさ───。しかし結果として僕は彼を救えなかった。お父さんは自分が死ぬことで僕の中の罪の意識を駆り立て、それと同時に、それまで押し込めていた君への思いを呼び覚まそうとして死んだんだ。僕には分かった。だからお父さんは僕の魂に語りかけたんだ。『百恵さんをよろしく頼む』って───。信じなくてかまわない。本当に僕の主観世界での話なのだから。でもあの時、君と一緒の生活をしていれば、お父さんはけっして死ぬことはなかった……」
「お父さん……、そんなこと浩幸さんに伝えたの……?」
ジャン=ジャックは静かに頷いた。
「でも時は遅かった。僕の冷たい仕打ちに、君は僕から離れて行った……。当然だよ。悪いのはすべて僕の方なのだから……」
二人はしばらく黙り込んだ。大樹が部屋にいるときは、その活気で温かく感じられた室温が、急に冷え込んだ。外は雪でも降りだしたのだろうか。ジャン=ジャックは再び静かに語りだす。
「でも君は、僕との離婚届を出した後も、一途に山口浩幸を思い続けてくれた───。ありがとう。本当に嬉しい。だから、だから、僕が拒絶反応で倒れたあの晩、君と一緒にいたのは僕の兄なんかじゃない。撲自身なんだ───」
その言葉は逆に、彼女が犯した過ちを大きく包容する彼の償いの言葉でもあった。そして百恵にとっては自責に駆られる、一層悩める言葉でもあった。
「でも、でも!私、あの時、違うって思ったのよ!あれは浩幸さんじゃなかった!」
百恵は罪悪の目でお腹をさすった。
「そしてあれは、もう絶対に許されない過ちだった───」
途端、つわりの吐き気が再び百恵を襲った。ジャン=ジャックは自分の事のように彼女をみつめて、その細い背中を静かにさすった。
「───やっぱり子どもができたんだね?」
百恵は頭を深くうなだれた。もう泣くことも忘れていた。そして、浩幸に対して償える行為はたった一つしかないと思った。しかしそれをしたところで、潔白な身体には戻らない事も知っていた。だがそれ以外に方法がなかったのだ。妊娠三カ月と知らされてから、思い悩んだ挙げ句の結論がそれだった。
「私、おろす…………」
百恵の瞳は氷のように冷たかった。
その重い言葉の中には、彼女が特養棟に配属されて以来、何かが変わってしまったと自覚していた一凶があったことには気付くはずもなかった。生きる屍と呼ばれる人間の中にその身を置き、いつしか気付かぬうちに、自分こそが屍と化していたのだ。蛇は蛇を知り、屍は屍を知る。以前の百恵なら、“生”を断つ行為など、逆立ちしても思いつく人間ではなかった。
その思い詰めた言葉は、ジャン=ジャックを驚かせた。彼女の気持ちは痛いほど理解できたが、およそ彼女の口からは想像できなかった言葉を聞いた時、浩幸の理性は激しい叱咤となって彼女の頬を殴りつけたのだった。
「ばかな事を言うものじゃないよ!生命とはそんなに軽いものじゃないだろ!貴方はそれをよく知ってるはずだ!だから僕は君を愛した───」
百恵は叩かれた頬をおさえながら、赤髭先生と呼ばれた浩幸の父の事を思い出していた。
「ごめん……」
ジャン=ジャックは我に返ると、「殴られるのは僕の方だった……」とその行為を悔いた。
「でも私、やっぱりおろす!でなきゃ、あなたと一緒に住めないもん!」
まるで子どものように泣きじゃくる、への字になった百恵の口許を見たとき、ジャン=ジャックは無性に彼女が可愛くなって、その細く柔らかい身体を強く抱きしめた。
その胸の鼓動が、以前感じた浩幸のものとまったく同じ事に、百恵は目を丸くして、浩幸から姿を変えた栗毛頭のジャン=ジャックの青い瞳を見つめた。
忘れるはずがない。
その胸の温かさは、幾たびとなく包容された浩幸のものに違いない。
そう思いながら、百恵はその胸に顔をうずめた。
「よく聞いて───」
ジャン=ジャックは一層百恵を強く抱きしめた。
「お腹の子は僕の子どもだよ───」
百恵もジャン=ジャックを抱きしめた。
「大樹が君の子どもであるようにね……。だから、二度と中絶なんて悲しいことは言わないで下さい」
「私を許してくれるの……?」
「許すも許さないも、僕は君を愛してるんだ……」
部屋の寒さから逃れるように、二人は何度もキスを重ねながら、いつまでも抱き合っていた。