(二十二)妊娠三カ月

 ジャン=ジャックが退院したのは、あの日からおよそ二カ月を経過した十二月の寒い午前中の事だった。百恵は夢子の死から間もなく職場に戻ったが、それからジャン=ジャックが退院するまでの間は、職場と医院との往復の日々を送った。昼休みといえば特養棟を抜け出し山口医院へ足を運んでジャン=ジャックの体の心配をし、仕事が終われば真っ先に彼のもとへ通って大樹の夕食の心配をした。その後は実家に戻って恵の相手をしたかと思えば、大樹の寝る頃には再び医院へ戻って宿直室で大樹を寝かしつけた。
 そして、ようやく退院を間近に控えたある日、ジャン=ジャックからも大樹からも、
 「家で一緒に暮らそう」
 と強く勧められたが、いまだ百恵の心の整理はついていなかった。
 「一緒に暮らすのはいつでもできるけど、お母さんのこともあるから……」
 と、母の恵を理由に拒んだのである。ジャン=ジャックは、
 「それなら百恵さんのお母さんも同居したら」
 とまで言ってくれたが、百恵は話をはぐらかしたまま返答する事ができなかった。
 外はその年の初雪が降っていた。
 不審がるジャン=ジャックや大樹の思いを余所に、百恵は、
 「やはり言わなければいけない───」
 と思いながらも、退院してからの日々も無情に流れ去り、やがてずるずると年を越して次の年の一月に突入していたのだった。

 やっぱり私には言えない───
 どんな理由をつけようと、私は彼を裏切った───
 彼が私を愛してくれればくれるほど、私の罪は重くなる
 私が彼を愛すれば愛するほど、彼の罰は深くなる
 伝えるならば、早いほうがいい、
 早いほうがいいにきまってる
 でも、私にはそんなこと、口が裂けたって言えないの
 どうすればいい───、どうすればいいの───?
 このまま一生、私は地獄のあえぎを背負いながら、
 あの父子を茅の外から見守らなければならないなんて……
 助けて……、助けて……、
 おばあちゃん───
 お父さん───

 百恵は行政に提出する入所高齢者の資料をまとめながら、窓辺から、どんよりと曇った冬の空を眺めた。まるで晴れない心はその空のよう。雪の気配こそなかったが、寒空にヒヨドリが一羽飛んでいた。そしてその鳥と自分の姿を重ねてため息を落とす。
 その時である。
 急に吐き気を覚えた百恵は、急いでトイレに駆け込んだ。
 グッ、ウエッ、ゴヘッ、ゴヘッ、ウエーッ…………
 文字で表現すれば書きようのない嘔吐の声が、誰もいないトイレの中で静かに響いた。
 「何か変な物食べたかな……?」
 そして何度ももどそうと便器に顔をうずめ、その度苦しそうに幾度となく咳き込んだが、口から出てくるものは苦渋い胃液だけだった。
 「朝は何を食べたっけ……?昨晩は何を食べたっけ……?」
 記憶する食材を頭に思い浮かべて、その時は別段苦にもしなかったが、その吐き気は日を追う毎に回数も増え、その間隔もだんだん狭くなっていったのだった。そればかりでない、吐き気と並行して身が妙に酸っぱいものを要求することに、
 「まさか───!」
 と、顔を蒼白にしたのである。
 生きた心地もせず、その日仕事を終えてから薬局に寄り、妊娠検査薬を買って家に帰った。そして募る不安のまま、検査薬に尿をかけてみれば、明らかに妊娠反応を示したのであった───。
 百恵は目を疑いながら妊娠検査薬の説明書を何度も読み返した。そのうち放心状態に陥ったかと思うと、便器に腰をおろしたまま、無意識の涙をいくつもこぼしたのである。
 「何かの間違いだ───」
 とうてい信じられない百恵は、その翌日、仕事を休んで産婦人科まで足を運んだ。しかしそこの中年の女医も言うことは同じであった。
 「おめでとうございます。妊娠三カ月よ───」
 女医の穏やかな笑みとはまったく逆の激しい心の動揺は、そこでも百恵を暫くの間、放心状態にさせた。
 「うそっ───!!」
 その後は、どこをどう歩いて家に戻ったのか、気付けば部屋のベッドで泣いていた。
 もはや浩幸に合わせる顔もない───。
 百恵は果てしない大きな影に押しつぶされて、いつまでも布団を濡らすことしか知らなかった。
 相談する者もない。光輝に電話をかけても、一歳になった子どものお祝いに、家族旅行に出かけているとの事。百恵は「きっと何かの間違いに違いない」と自分に言い聞かせながら、まるで悪夢から逃れようとするように仕事に打ち込んだ。
 そんな百恵にいち早く気付いたのは尾佐田であった。
 「馬場さん、どうしたの?何かあった?」
 「どうしてですか?」
 「なんだかここ数日、様子がおかしい───」
 「何でもありませんよ」
 百恵は尾佐田に悟られる事も恐れて、すぐにその場を立ち去った。
 悪いタイミングは重なるもので、就業時間が終わり「さて、家に帰ろう」と立ち上がった時である。スタッフルームの入口に、嬉しそうに笑う大樹が立っている。
 「どうしたの?ママ。最近ぜんぜん家に来ないじゃないか。パパと心配してるんだ」
 硬直した百恵は、まったく動く事ができなかった。
 「今日、パパが退院して丁度一カ月になるから、そのお祝いをしようってことになったの。パパがママを呼んで来いって言ったから呼びに来た!」
 退院一カ月の祝いとは百恵を呼ぶ口実であることはすぐに知れた。なぜなら、浩幸の家に顔を出していたつい数日前までは、そんな話など一言もなかったからである。ここ数日顔を見せない百恵を心配して、ジャン=ジャックが仕組んだ計らいに違いなかった。
 「ちょっと今日、忙しいんだよなあ……」
 百恵の精一杯の嘘を気にもせず、
 「そんなの明日やればいいよ!」
 と、手を強引に引っ張る大樹に逆らえないまま、百恵は浩幸の家へと連れられた。
 「わあ、すごい!誰が作ったの?」
 リビングのテーブルには沢山のご馳走が並べられていた。百恵はいつもと変わらぬ自分を演じようと、必死に言葉を見つけてそう言った。
 「これはぼく、これはパパ───」
 と、大はしゃぎの大樹は、家の俄シェフについての説明を加えながら、作る時の苦労話などを頻りに続けた。
 「このマリネも作ったの?すごいじゃない!」
 「それはチョンボです。知り合いの料理店から出前を頼みました」
 見ればエプロン姿のジャン=ジャックが、鶏肉の唐揚げを持ってキッチンから顔を出した。百恵は思わず一笑すると、
 「似合うわよ!」
 と付け加えた。
 刹那、料理の混在したにおいが百恵の嗅覚を襲った。
 思わず吐き気をもよおした百恵は、慌ててトイレに駆け込んだ。驚いたジャン=ジャックは唐揚げをテーブルに置くと、咳き込む百恵の背中を静かにさすった。
 「どうしたの?食あたり……?」
 百恵の嘔吐はおさまらなかった。その姿をじっと見つめながら、そのうちジャン=ジャックは心の中で、
 「もしや……、つわり……?」
 と、思い始めていた。専門外とはいえ医師である。通常つわりは、妊娠四週から七週あたりに始まり、十二週から十六週くらいで終わるとされているが、かなり大きな個人差があり一様には言えない。咲子の言う夜伽の日から十二週目に出てきた症状であることは充分に考えられた。ジャン=ジャックは百恵の背中をさすり続けた。
 「なんでもない!なんでもない!ちょっとこの前、鶏肉食べ過ぎちゃって、それでちょっと吐きっぽくなっただけ!さっ、食べよ、食べよっ!」
 百恵は精一杯の明るさを装うと、そのままテーブルに座って、何事もなかったかのように料理を食べ始めた。大樹もそれに乗せられて、はしゃぎながら食べ始め、団欒の笑い声は絶えなかったが、その間百恵は、何度となく席を立った。ジャン=ジャックはそんな彼女の様子を気にしながらも、その事については何も言わないでいたが、いつしか夜も更けていった。
 すっかりはしゃぎ疲れた大樹は、時計も九時半を過ぎると、やがて静かに眠ってしまった。その身体を抱いて、寝室に寝かせたジャン=ジャックは、再びテーブルを挟んだ百恵の前に腰をおろすと、
 「楽しかった───」
 と、ひとこと言った。
 居たたまれなくなった百恵は、
 「それじゃ後片づけをしたら帰るね」
 急いだ様子で立ち上がると、そのままジャン=ジャックの脇を、キッチンに向かって歩き出した。
 と、通過する拍子に、ジャン=ジャックの右手は、百恵の右手首をぎゅっとつかんだ。

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