百恵の携帯電話に尾佐田から、
「菊池夢子さんが死んだ」
と連絡が入ったのは、その日の翌日の事だった。
ベッドの脇で、驚きの表情をしながら電話を切った百恵を見つめて、
「どうしたの?」
と、ジャン=ジャックが言った。
「今朝、菊池夢子さんが亡くなったって……」
ジャン=ジャックもショックの色を隠せなかった。仮にも母愛子の双子の妹である。浩幸にとっては叔母に当たる、唯一母の昔を知り得る人物でもあるのだ。痴呆だったとはいえ、昔を思い出したという話を百恵から聞くにつけ、ぜひ一度時間を作って、彼女とゆっくり話をして過ごしたいとも考えていた矢先の事でもあった。
「浩幸さん、ごめん……。私、ちょっと行ってくる───」
百恵は矢も楯もたまらず病室を出ていった。
霊安室の夢子はとても安らかな表情をしていた。きっと、過去の償いを全て語り終えて逝った彼女は、この世に思い残すことはなかったのだと百恵は思った。両手を合わせ焼香を済ませると、脇の大川に、
「ご家族への連絡は?」
と聞いた。といっても夢子の親族など、一人息子と、今はまだ入院中の浩幸しかいない。夢子の死を知って駆け付けて来る者など片手にさえ余ってしまうだろう。百恵は人の人生の結末の厳粛さを思った。
「息子さんにはとっくに連絡しました。すぐ駆け付けると言ってましたから、お昼頃には到着すると思いますよ」
「そう……。誰が最初に気付いたの?」
「早番の梅川さんす。体温を測ろうとしたら死んでたって」
百恵は大川の話を聞きながら霊安室を出た。
「それにしても百恵先輩、いつまで休暇取ってるつもりっすか?俺、百恵先輩がいないと寂しくて仕方がないんすよ。早く出て来て下さいっす」
「相変わらずお喋りね!あなたに言われなくてもそのうち来るわよ」
「そのうちっていつっすか?」
「もう、うるさい。ちょっと静かにしててよ!」
百恵はお昼頃に到着するという菊池の事を考えていた。あんなことがあった翌日も、日勤の勤務時間が終わる頃、菊池は百恵に電話をよこした。もっとも状況が状況だっただけに「今日はそれどころではないので、ごめんなさい」と、話しもせずに切ってしまったが、その後も何度か彼から電話があった。いずれも彼と知りながら回線ボタンを押すことはなかったが、ジャン=ジャックへの愛を確認したとき、既に菊池は遠ざけておきたい存在になっていた。それでも一度は浩幸の面影と重ねて、彼に対しては誤解を招くような言動をしてしまったことに、申し訳なさを感じていた。彼の自分に対する思いもまんざらでないと思うとき、どうやって謝ろうかと、そのことを考えるのにいっぱいだったわけだ。
スタッフルームの尾佐田に頭を下げた。
「どう?少しは休めた?」
尾佐田は仕事の手を動かしながら笑った。
「尾佐田さん、本当にありがとうございました───」
「そう、その目よ。それが馬場さんの目。それでこそ、あなたに有休を取ってもらった甲斐があったってわけ」
尾佐田は終始嬉しそうだった。
「で、いつから出てこれそう?このままだと今度は私が倒れそう」
「ああ、すいません!明日からでも来ます」
「冗談。あと二、三日休んで。こっちは彼となんとかするから、ねえ、大川君!」
尾佐田に大分しぼられている様子の大川は、急に背筋を伸ばすと、「尾佐田さん、いつからあんなんなっちゃったんすか?」と百恵に小声で愚痴をこぼして、慌ててスタッフルームを出て行ってしまった。
果たして午前十一時頃になって、喪服姿の菊池が飛び込んで来た。
「驚いて高速を飛ばしてきました……」
百恵は彼に一礼すると、動揺する心を抑えながら、
「この度はご愁傷様でした」
と言って、霊安室に案内した。どういうわけか、菊池は母が死んだ事より百恵に会えた事の方が嬉しいようで、霊安室に着くまでの間、「どうして電話をとってくれなかったのですか?」とか、「今まで休暇をとっていたんですってね」とか、いらぬ話ばかりを繰り返していた。そして暗い霊安室に入ると、菊池は神妙な顔付きになって夢子の顔をのぞき込んだ。
「遂に死んじゃいましたか……」
菊池はひとごとのように呟くと、手を合わせて焼香をした。
「人の命は儚いものですね……。いったい母さんの人生に、何の意味があったというのだろうか」
「あなたを生んでくれたじゃない……」
投げやりな菊池の台詞に、百恵はそう言って答えた。
「馬場さんは純粋なんだ……」
菊池は恍惚とした表情に、涙すら浮かべていなかった。
「お通夜とかお葬式はどうしましょうか?」
百恵は本来の仕事に戻ってそう言った。
「無意味です。母さんに線香をあげてくれる人なんて一人もいませんよ。このまま火葬場に持って行って下さい」
「でも……」
百恵は急に悲しくなった。いくら仕事上合理的な考えを持っていたにせよ、いくらお葬式に来てくれる人がいないにせよ、それが夢子の残したたった一人の息子の判断とは、あまりに惨い仕打ちではないか。今まで一緒の時間を過ごした菊池とは別人に思えた。
そこに彼の携帯電話が鳴った。「失礼」と菊池は電話を取ると、暫くは夢子の死とは無関係な仕事の話を続け、最後に「何日までにお願いします」と言って電話を切った。
菊池は百恵を見つめて静かに笑った。
「でも人間なんていつかは必ず死にます。私も仕事をやりながらたまに思いますよ。何のためにやっているのかなって……。この間馬場さんは、自分の使命が分からなくなったって言ってたけど、私には新鮮だったなあ、あの言葉。でも人間って、そうやって自分が存在する理由を見つけないと生きていけない動物だと思うのです。私には仕事が自分の使命だなんて、いくら考えても思えなかったけど……。結局、生きる理由も分からなくて、このまま母さんのように死んでしまうのだろうかなんて……。悲しいですね人間なんて。無意味ですね人生なんて……」
百恵は菊池を悲しそうに見つめ、ぽつんと呟いた。
「あなたも痴呆の世の犠牲者ね……」
「でも馬場さん。私は貴方と会ったとき、この無意味な人生に意味を見いだす事ができました───」
彼の目つきが情欲に支配されたものに変わった。
「それは、貴方です」
菊池はいきなり百恵を抱き寄せたかと思うと、キスをしようと彼女の顔をつかんだ。
「や、やめてください……。夢子さんが見ていますよ!」
百恵は必死であがいて菊池の腕から逃れた。
「母さんは死んだんだ!見ているわけがないじゃないか!」
百恵は、突然訪れた母の死に、菊池は気が動転しているものとばかり思っていた。さもなければ、この人間性の変貌はとても理解できなかったからだ。怖くなった百恵は、そのまま霊安室を飛び出した。
お昼は菊池に、
「どこかに食べに行きましょう」
と誘われたが、先程の霊安室での事もあり、断ってコンビニで弁当を買って食べた。菊池は残念そうに一人で出て行ったが、百恵はどうやって彼の気持ちを断ろうかと思い悩んでいた。
「菊池さん、お葬式どうするって?」
家から持って来たお弁当を食べながら尾佐田が言った。
「なんか、やる意志がないみたい。無意味だって」
「最近はそういう人も増えているのかなあ……?でもやらないわけにはいかないでしょ?」
「そうですよね……。だから私、コスモス園内で簡単な式をしようかなって思ってます。お葬式もやらないなんて、夢子さんがあんまりですもの……」
「そうね……」
百恵にはその相談もあった。やがて弁当を食べ終えると、菊池を探しに外に出た。駐車場に彼の車が置いてあったので近くにいると思った。コスモス園の中庭や、中央棟の正面玄関を通り過ぎ、彼を見つけたのは自転車置き場の日陰になっているところであった。
声をかけようと近づくと、菊池はそこに置かれた自転車のひとつに腰掛け、電話をしている様子だった。百恵が近づこうとした瞬間、
「だからしょんべん臭い田舎娘なんだって───」
百恵はハッとして近くの木の幹陰に隠れた。
何やらかなり親しい友人と話をしているらしい。
「いやね、ハンバーグ残すからさ、『食べないの?』って聞いてあげたら、『前の彼氏なら私の残したの全部食べてくれた』なんて言うから、食べたよ!コーヒーまで飲んでやったさ。ダサイって思ったけど、けっこう可愛い顔してんだ、それが───。ふん、そんなことねーよ!───それでさ、そのまんま旅館に連れ込んだまではいいんだけど、酒飲めねえの、そいつ!ビール一口飲んだらコロッて寝ちまってさ───。でも案外よかったぞ、三十路の女の割には結構しまっててな……」
その会話の“女”が自分であることはすぐに分かった。百恵は悔しさを通り越して、あんな男に少しでも気を許してしまった自分が情けなくなった。一体、菊池英靖と夢子との出会いは自分にとって何だったのだろうと思うと、地団駄踏むしかなかった。
こうして菊池には声もかけず、スタッフルームに飛び込んだ百恵は、鼻毛を抜きながら暇そうにしていた大川に、夢子の葬式の全てを託すと、そのままそそくさとジャン=ジャックのいる病室へと帰って行った。
なにもあんな男に頭を悩ますことなどなかった───。
百恵は悔しさを堪えて、夢子の葬式は行わない旨をジャン=ジャックに伝えた。
「可哀想ですね……。でも、それが兄の出した結論なのですね」
ジャン=ジャックは、悲しそうに膝にかかった毛布を見つめた。
百恵はすっかり菊池が浩幸の兄であったことを忘れていた。そのやるせない思いを殺しながら、
「いいのよ、勝手にさせておけば!」
いつにない百恵の荒立たしい言葉に、ジャン=ジャックは咲子が言っていた夜伽の男が菊池であることを薄々勘づいていた。