(二十)愛し合う二人

 意識が戻ってからというもの、ジャン=ジャックの体力は次第に回復していった。その間、百恵は片時も彼のそばを離れなかった。仕事にも行かず、ずっと自分の近くにいる彼女を有り難く、また嬉しくも思ったが、さすがに休みを取って二週間という話を聞けば、ジャン=ジャックも心配をせずにはいられなかった。
 「百恵さん、仕事の方は本当に大丈夫なの?」
 「あら、医療法人理事の権限を使って、私を職場に追い返すつもり?」
 「そうじゃないけど、君がいない分、他のスタッフ達に負担がかかっているに違いない。ちょっと心配になったもので」
 「やっぱり今のは浩幸さんじゃなく理事の言葉だ。ご心配にはおよびません。特養棟のスタッフ達は、尾佐田さんをはじめ、みな一流中の一流の優秀な人達ばかりだから、私が一カ月や二カ月休んだところで、ビクともしません」
 と言いながら、百恵は内心心配になった。
 「たいした自信だね。やはり百恵さんを特養棟に配置換えをしたのは正解だった」
 「それとも今からでも仕事に戻っちゃおうかな……?」
 百恵は意地悪そうに言った。
 「そうしていただけますか?僕の方はもう大丈夫ですから……」
 ジャン=ジャックの目が淋しそうに光ったのを百恵は見逃さなかった。
 「まただ……。浩幸さんはいつも本心とは逆の事を言う。寝言で私の名前、何度も何度も言ってたくせに!もう、騙されませんからね!」
 「それは言わないでください」
 百恵は無邪気に“イーッ”という顔を作って笑う。二人の左手の薬指に、ビーズの指輪が光っていた。
 百恵は静かに立ち上がって室内の水道の蛇口をひねるとタオルを水に浸した。そしてコップに水を注ぎ、ジャン=ジャックの前の小さなテーブルの上に置くと、
 「お薬の時間。口を開けて」
 と言った。
 「まったく僕は、君に管理された囚人のようだ。薬くらい自分で飲めますよ。そこまで百恵さんの手を煩わせません」
 百恵は「ダメ!」と言いながら、盛んに抵抗するジャン=ジャックの顎を押さえ付けて、白い粉薬を強引にその口に入れたものだから、ジャン=ジャックは思わず咳き込んで、目の前の百恵の顔に、勢いよく咳といっしょにその白い粉を吹きかけた。
 「大福の早食い競争をしたみたいだ……」
 百恵の白い顔を見つめて、ジャン=ジャックは腹を抱えて大笑い。百恵も自分の顔が気になって、室内の鏡にその顔を映せば、二人の大笑いの声はいつまでも止まらなかった。
 廊下にまでこぼれる二人の楽しそうな声を聞いていたのは咲子であった。煮えくり返った腹を押さえ付けながら、大樹の夕食の食材を買いに出た百恵のいない隙をねらって、密かにジャン=ジャックの病室に入り込んだのだった。
 ジャン=ジャックは咲子の顔を見ると、いつものように気さくな笑顔を作った。
 「僕の意識がないとき、かなり一生懸命看病をしてくれたみたいだね。ありがとう、お礼を言います」
 咲子はつつつ……とジャン=ジャックに駆け寄り、その左手を握った。そこにあったビーズの指輪にはすぐに気付いた。
 「先生まで……。先生はあの女に騙されているの!目を覚まして!」
 「あの女……?」
 ジャン=ジャックは不審そうに咲子を見つめた。
 「馬場百恵の事よ!」
 「百恵さんのことですか───。すみませんが彼女の事を呼び捨てにするのはやめてもらえませんか?」
 「どうして……?あの女は先生が突然倒れた時、何をしてたか知ってますか?知るはずがありませんよね!あの女の口からは言えるはずがない!」
 「もう少し落ち着いて話していただけませんか。病み上がりで頭がズキズキします」
 「ごめんなさい。もう少し穏やかにお話しします。馬場さんは、あなたが倒れたとき、どこかの男と夜伽を過ごしていました」
 「夜伽───?何ですかそれは?」
 「つまり───、抱かれていたってことです!先生が生死を彷徨う手術中に、あの女はどこかの男と抱き合っていたってこと!あの馬場っていう女は、先生の知らないとんでもない淫乱女なんです!」
 ジャン=ジャックはしばらく何も言わずに咲子の顔を見つめていたが、
 「それで……?」
 と、妙に落ち着き払った声で言った。
 「それで……って……、何も思わないのですか?あなたは遊ばれているの!」
 ジャン=ジャックは俄に笑い出した。
 「きっと百恵さんは淋しかったんだ……。仕方がありませんよ。全部僕が彼女を苦しめたのが原因なんだ。謝らなければならないのは僕の方だ。彼女に罪はない……」
 「仕方がない……って……、先生───、先生は私の事が好きだったでしょ?」
 「僕は百恵さんを愛している。心から───。もし、僕の言動で君がそのように思ったのなら誤解だ。謝ります。すいません───」
 咲子は呆然とジャン=ジャックを見つめた。
 「───、それだけ……?それが寝ずに看護した私に対する言葉なの?」
 「すみません───」
 それだけ言うとジャン=ジャックは黙り込んだ。
 「ひとつだけ教えて……。あの女、妙な事を言ったの……。あなたが前院長だって。脳移植をしてどうのこうのって……。本当なの───?」
 ジャン=ジャックは咲子を見つめた。
 「僕は脳外科医だ。脳移植なんて現代の医療技術では不可能です。それが何か───?」
 咲子はそれだけ聞くと、涙を溜めて病室を出て行った。

 大樹が学校から帰った病室は、幸せな家族を絵に描いたような賑やかさだった。およそ待ち続けた遠い春が、ようやく大地を覆い尽くしたように、百花爛漫の花々が咲き香っているようで、百恵は幸せ過ぎて、誰かが一言でも苦しかった日々の事を言ったなら、思いあまって滂沱の嬉し涙を流したに違いない。
 大樹の学校で体験したほんの些細な出来事は、口にした瞬間三人の大きな話題となり、いままで堰き止められていた一家団欒の様相は、その数年分がいっぺんに押し寄せてきたふうである。
 「ねえ、パパ。ひとつだけお願いがあるんだけど……」
 大樹がふと呟いた。
 「なんだい?言ってごらん。パパができることかい?」
 「簡単なことだよ!でも、絶対に約束してくれなきゃ言わないよ」
 もったいぶった言葉に、今度は百恵が「なによ」と囃し立てる。大樹は百恵の耳元で「お姉ちゃんの事だよ」と囁く。百恵は急に黙って恥ずかしそうに俯いた。
 「なんだよ、二人で内緒の相談かい?分かった、分かった、約束するから、大樹言ってみなさい」
 大樹は少し躊躇すると、以前百恵にも話した事を、父である浩幸にも伝えたのだった。
 「パパが退院したら、お姉ちゃんと三人であの家で暮らしたいの……」
 ジャン=ジャックは急に黙り込んだ。百恵も何も言わずに俯いたまま。
 「だめ……?」
 大樹は心配そうな口調でそう言った。やがてジャン=ジャックは腹を決めたように大樹の顔を見つめ返した。
 「パパからもひとつ、大樹にお願いがある。それができなければ三人で生活することはできない。その願いを聞いてくれるかい?」
 「ぼくにできること……?」
 「簡単なことだよ」
 ジャン=ジャックはしばらく間を置いて、やがてその言葉を口にした。
 「百恵さんの事を“ママ”って呼んでくれるかい……?」
 「なあんだ、そんなことか!」
 大樹はまるで呼吸でもするかのように、百恵に、
 「ママ」
 と呼びかけた。母を知らない大樹にとって、百恵は既に母親として大樹の心にあったのだ。ただ母親とは何か、母親とは何をする人なのか、そして母親とは自分にとってどういう存在なのか、皆目見当もつかない大樹にとっては、百恵を“ママ”と呼ぶきっかけも、そのタイミングも、まったく見いだす事ができなかっただけなのだ。
 大樹はこれが母親なのかと知った時、“ママ”という言葉を惜しまず連呼した。
 「ママ、ママ、ママ……」
 百恵はその脇で、早くも声をあげて滂沱の嬉し涙を流して泣いていた。
 「やっぱりパパと大樹は父子だね。二人とも百恵さんにぞっこんというわけだ」
 百恵は浩幸らしからぬ言葉に「ばか!」と言って、いつまでもいつまでも泣いているのだった。しかしその心の中には、けっして浩幸には言うことのできない大きな罪悪の陰を残していた。
 話がこうなった以上、言わないわけにはいかない───。
 心の奥でそう思いながらも、絶対に言えない自分を既に自覚していた。
 言ったら浩幸は自分から離れていってしまうのではないか。せっかくできた家族に大きな亀裂を与えてしまうのではないか。そんな恐怖より、浩幸を裏切った自分自身が許せない。
 当の彼が既にその事を知っているのも知らず、百恵はいつまでも心の整理がつかなった。
 こうして新しい家族が生まれたにも関わらず、ジャン=ジャックが退院してからも、三人が一つ屋根の下で生活する事にはならなかったのである。

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