ジャン=ジャックが倒れて一週間が経過しようとしていた。
朝の診断に訪れた西園は、何も言わずに咲子の肩に手を置くと、そのまま病室の扉を開けて廊下に出た。そこにはいつものように心配そうな顔付きの百恵が立っている。そして再び西園は、何も言わずに首を振る。毎回その繰り返しである。
百恵は瞳を曇らせ休憩所に戻ると、自動販売機でコーヒーを買った。病室に入ることのできない百恵の居場所は、いつしかジャン=ジャックの病室近くのフロアにある、小さなテーブルが二、三個並べられたそこになっていた。カレンダーを眺めればあれから既に一週間。仕事の方もそろそろ心配になりかけた頃である。
たまに病室の扉の開く音がしたかと思えば咲子で、点滴の交換やシーツや着替えの洗濯などで休憩所の前を通りすぎる他は、入院患者が度々訪れては雑誌を読んだり、窓際から外を眺めたり、百恵を捕まえて世間話や、気休めに自分の病状などの話をしていくだけだった。最初は休憩所の前を通るたび、そんな百恵に冷たい目線で睨み付けていた咲子も、さすがに二、三日を経過してからは呆れた様子で相手にもしない。その日もそんな感じで、百恵は肩を落としてコーヒーを飲む。
そして咲子の姿が見えなくなったのを確認すると、急いで病室の前に立って扉を少し開ける。さすがに咲子が支配するその空間に足を踏み入れることはできなかったが、隙間から、動く気配のないジャン=ジャックの姿を見つめて涙ぐむのだ。
それでも大樹が学校を終えて見舞いに来たときだけは例外だった。大樹を先頭に、ほんの一歩分だけ病室に入る。ジャン=ジャックの脇に腰掛けた大樹は、
「何してるの?お姉ちゃん」
と彼女を呼び寄せ、その声に引っ張られてようやくその隣りに腰掛けるのだ。咲子は不愉快そうに、
「この子の保護者のつもりにでもなってるの?“将を射らんと欲さばますその馬を射よ”とはよく言ったものね!どうしてジャン=ジャック先生はこんな子を引き取ったのかしら」
と、終始気を荒立てた様子で、早く帰れとばかりに部屋の掃除などを始めるのである。それにしてもジャン=ジャックを『パパ』と呼ぶ大樹には咲子も首を傾げた。だが、よく“パパ”と呼ばせるところまで手なずけたものだと、別段疑うこともしなかった。
医院ばかりにも居られないから、百恵はたまに時間を見計らって浩幸の家に入って夕食の準備をしたり、実家に帰って母の様子を見たり、あるいは食材の買い物に出たりしていたが、夜から朝にかけては大樹と寝泊まりを共にした。それが彼女にとっては唯一の気休めの時間となった。そんな生活を、仕事を休んで一週間続けているのだ───。
その日も学校帰りの大樹が来て、休憩所に佇む百恵の姿を見つけて手を振った。
「ねえ、どうしてお姉ちゃんは毎日こんな所にいるの?中に入って、パパの看病しっかりしていてよ」
百恵は静かに笑うだけで言葉が見つからない。そうして大樹は走って病室に駆け込むと、変わらぬジャン=ジャックの姿をじっと見つめた後は、いつものように椅子に腰掛け、
「何してるの?お姉ちゃん」
と、百恵を近くに呼び寄せるのだった。
そんな光景を迷惑そうに、咲子は機嫌悪そうに立ち上がり、そそくさと病室を出て行く。その姿を見届けてから、やがて大樹が言った。
「ねえ、お姉ちゃん。パパ、いったいいつになったら目を覚ますんだろう……」
「大丈夫、もうじきよ……」
「毎日そればっかじゃないか。ぼく、もう、我慢できないよ……」
大樹はジャン=ジャックをじっと見つめながら、ため息まじりに言う。
「ねえ、お姉ちゃん……」
「なあに……?」
「パパが元気になったら、三人でおうちで暮らそう?」
今回の事もあり、大樹は父との二人の生活に、大きな不安を抱いている様子である。百恵は大樹を見つめて悲しそうに微笑んだ。
「大樹君はその方がいい……?」
「だってパパったら頼りないんだ。玉子焼きは焦がしちゃうし、焼きそばはフライパンにこびりつけて食べるところないし、冷蔵庫の野菜なんかいつも忘れて腐らせちゃうしさ。洗濯はぼくがやるからいいけど、この間なんかお風呂空焚きして火事になりそうになったんだ」
百恵は思わず大樹を抱きしめた。
「パパがいいと言ったらね……」
「いいって言うわけないよ!パパ、百恵姉ちゃんのことが好きなくせに、一度言い出したらきかないんだ。ぼくの気持ちも知らないで……」
「パパにもきっと、大樹君には言えない事情があるのよ……」
「でもさあ……」
そこに咲子が荒々しい態度で戻ってきた。二人で何を話していたのか気になっている様子で、自分の知らないジャン=ジャックについて語る二人が、憎らしくて仕方がないのだ。そして、冷たい声で、
「点滴とシーツの交換をしますので、席をはずしてください」
と、わざとジャン=ジャックを抱くような仕草を示した。百恵と大樹は会話をやめて、仕方なく立ち上がった。
と、その時である───。
ジャン=ジャックの眉間が僅かに動いたのだ。
咲子は俄に喜んで、「ジャン=ジャック先生!ジャン=ジャック先生!」と、彼の耳元で何度も繰り返した。百恵と大樹ははたと立ち止まり、あわてて彼の周りを取り巻いた。
「パパ!パパ!」
咲子に合わせて大樹も叫んだが、再びジャン=ジャックは石のような表情に戻って、相変わらず何の反応も示さなかった。
気のせい───?
咲子はそう思い、やがて大樹と百恵も諦めて、再び一緒に病室を出ようと歩き出した。
しかしその時、再びジャン=ジャックの眉間が動いて、かすれる小さな声を漏らし始めたのだった。
「ジャン=ジャック先生!ジャン=ジャック先生!ジャン=ジャック先生!……」
再び咲子が彼の耳元で繰り返したのに驚いて、百恵と大樹は振り向いた。
「先生、なんですか───?ジャン=ジャック先生!」
咲子はその言葉を何度も繰り返したが目覚める様子はまるでなく、深い昏睡状態の中で、必死に何かを伝えようと口だけを動かすのである。
「何か言おうとしている……」
咲子はそう言うと、慌ててナースコールを押して西園を呼んだ。百恵と大樹は気が気でない。大樹は「パパ!」と言いながら、ベッドの柵にしがみつくように彼の顔を凝視した。百恵は咲子の勢いに遮られて近づくこともできずに、その場に立ち尽くしたまま、その様子を見守ることしかできなかった。しかし胸の鼓動の激しさは、咲子の比ではなかったに相違ない。なぜならがりょう山の頂上で、浩幸と初めてキスをしたときの感触と同等のものであることを感じていたからだ。
咲子は、百恵の祈るような表情を睨んで微笑んだ。今まで死んだように動きもしなかったジャン=ジャックが、僅かでも口を動かそうとしたのは、自分が抱きかかえた時ではないか。自分の看護の献身さが彼に通じて、きっと彼は意識を取り戻そうとしているに違いない。その目には百恵に勝ち誇った光があった。
「もう本当にあなたはいらないから、二度とここへは顔を出さないで」
咲子がそう言ったその時である。ジャン=ジャックの口からかすれる声となって言葉が出たのは……。
「も・も・え・さ・ん…………」
咲子は自分の耳を疑いながらジャン=ジャックを見つめた。
「ももえさん……。…………。ももえさん……」
かすれる小さな声で、しかも人工呼吸器を口に当てたその中だったので非情に聞き取りずらくはあったが、明らかにそう言っている。咲子は愕然とその場に立ち尽くした。
そしてジャン=ジャックは戻らぬ意識の中で、頻りに「百恵さん……」を繰り返すのだった。
「なぜ……?」
咲子は呆然としながら小さな声でつぶやいた。
「なぜ、あなたなの……?」
やがて駆け付けた西園が、「院長!」と言いながら、かすかな声で「百恵さん」を繰り返すジャン=ジャックの診断を開始した。咲子はそんなことは知らぬ態度で、その場に立ち尽くしたまま、
「なぜ、私じゃないの……?私、家にも帰らないで、ずっと彼の看護を続けていたのよ……。あなたなんか彼が倒れた時、どこかの男に抱かれていたじゃない……」
咲子は放心状態の目つきで百恵の正面に立ったかと思うと、
「なぜあなたなのよ!!」
と、力任せに百恵の頬を殴りつけたのだった。
ピシッ!という大きな音が病室に響いた。その異常に気付いた西園は、慌てて咲子を止めに入った。驚いた大樹は首をすぼめて、ベッドの陰にすかさず隠れた。
「相模君!こんな時に喧嘩なんかしてる場合じゃないぞ!」
西園の更に大きな声に、咲子の居場所は一瞬のうちに消え去った。そのまま病室を飛び出して、その後、ジャン=ジャックのところには二度と姿を見せる事はなかったのである。
西園は暫く百恵を見つめた後、何も言わずに再びジャン=ジャックの診断を始めた。
百恵は赤く腫れた左頬をおさえて唇をかみしめた。しかしその心には咲子に対する恨みなどまったくなく、反対に、菊池との行為に対する自責の念が「殴られて当然」と思わせていた。この程度で消える罪ではない。百恵の心は晴れなかった。
やがて診断を終えた西園が言った。
「駄目です。意識はまだ戻りません。このままもう暫く様子を見るしかありませんね……。馬場さん、すみませんが相模君の代わりに院長の看病をお願いします。やはり院長には貴方しかいないようだ」
そうして西園は病室を出ていった。
「ももえさん…………」
ジャン=ジャックはいつまでもその名前を呼び続けた。
「はい!───私はここよ!ここにずっといるから、早く意識を取り戻して!」
「ももえさん…………。ももえさん…………」
昏睡状態の中で、いつまでもその名前を呼び続ける彼の姿を通して、百恵は浩幸がいかに自分を愛していたかを今更のように知った。しかしそれを知れば知るほど、自分の犯した過ちに、とてつもない大きな罪悪感を覚えずにはいられなかった。
ともあれ百恵の献身的な看病はそこから始まった。以来、大樹の生活の場所も山口医院の宿直室に移し、百恵はジャン=ジャックの左手の薬指にビーズの指輪をはめて、その側から離れようとはしなかった。そして遂に、それより二日後、ジャン=ジャックの意識が回復したのである。
百恵は彼の衣服を剥いで清拭をしていた。何日もの間、「百恵さん」としか言わなかった彼が、その時突然、
「ここは……?」
と言ったのだ。百恵は慌ててその手を握りしめ、
「浩幸さん!」
と、その両目を見つめた。
「百恵さん……」
ジャン=ジャックは衰弱した表情で百恵を確認すると、力なく微笑んだ。
「目を覚ましたのね……。よかった……!待ってて、今、西園先生を呼ぶから……」
ナースコールを押そうとした百恵の手を、ジャン=ジャックは弱り切った力で握り返した。
「ずっとここにいてくれたの……?」
百恵は涙を流しながら頷いた。
「突然、拒絶反応が起こったんだ……。その後は、何も覚えていない……」
百恵はあの日、菊池と一緒だった事を思い出した。ジャン=ジャックが倒れた推定時間も、遠い意識の中で見つめていた、あの三つの椿の花が落ちた時間と一致することを知っていた。
「私がいけないの!」
百恵はジャン=ジャックの胸に顔をうずめて泣き出した。しかし、本当の事は、どうしても言う事はできなかった。
「どうして泣くの?こうして生き返ったところを見ると、僕にはまだ使命があるようだ。ジャン=ジャック・デュマさんが僕を受け入れてくれたんだ……」
ジャン=ジャックは百恵を見つめて再び笑った。
「ごめん……。本当にごめんね……。僕はずっと百恵さんを悲しませてしまった。でもこれで免疫抑制剤も必要なくなったかも知れない。それは言い過ぎかも知れないが、拒絶反応を引き起こす可能性も極端に減ったと思う……。百恵さん……。もし、そうだとしたら、僕と一緒に生活してほしい……」
百恵にとっては夢のような言葉であった。しかし、返事はできなかった。百恵は何も言わずにナースコールで西園を呼んだ。
ジャン=ジャックは悲しそうな目をした。