百恵が少し遅れてジャン=ジャックの病室に足を運んだ時、個室の窓際に置かれたベッドに横たわる彼の脇に、看護者用の椅子に座る咲子がいた。咲子は人工呼吸器や点滴の管を痛々しく身体につけるジャン=ジャックをいたわりながら、彼の額ににじみ出る汗を拭く。百恵はその光景を病室の扉の隙間からじっと覗いていた。
それはまるで恋人でなくば兄を看病する妹のようで、とても第三者が入り込める空気でない。増して浩幸に対する後ろめたさと、咲子に知られた弱みに翻弄する百恵には、例え天下一の傍若無人な人間の心を借りたとしてもできることではなかった。
やがて咲子は徹夜の疲れからか、ベッドに頭を置いて眠ってしまった。百恵は中に入る機会を得ず、小さなため息を落とすと、そのまま浩幸の自宅へと向かったのだった。側に付き添う事もできず、今の自分に出来ることは、彼の家の中を掃除し、彼が再び家に戻って来たときのために、少しでも心地よい環境を作っておくことだと考えた。そして、彼の入院中は身寄りのない大樹の生活を守ることだと考えた。
今にも泣き出しそうな顔のまま、掃除機のスイッチを入れれば、フローリングの床の上に、ポタリ、ポタリと瞳から小さな水滴が落ちた。脱ぎ散らかした洋服を洗濯機に運んだり、無造作に転がる書籍や雑誌や新聞を本棚に揃えたりマガジンラックに入れたり、慟哭の声をおさえながら、やがて部屋の隅々まで綺麗に掃除機をかけ終えれば、洗濯機のスイッチを入れて、続いてシステムキッチンに山のように置かれた食器類を洗い出した。次いでゴミの仕分けに、お風呂の掃除、洗濯物を干し終えてからは玄関を掃いて靴を磨いた。それから窓や照明類を拭き、小物や家具類に積もった埃を血眼になって見つけだしては拭き取り、こぼれ出る涙も拭きながら、ついには鍋やコップやフライパンまでピカピカに磨きだした。
それから寝不足もあってか急に眠気を覚えると、そのままリビングのソファの上で間もなく寝息を立て始めたのである。
熟睡だった。
目覚めたのは「お姉ちゃん」と言う大樹の声で、気付けば時計は夜の七時近くになっていた。
「いけない。すっかり寝ちゃった……。今からご飯作るね」
百恵は大樹の頭を撫でると、そのままキッチンで夕食の準備を始めた。
「宿題は?」
「まだ」
「パパの所へは行ったの?」
大樹は悲しい顔で小さく頷いた。
「ねえ、あの看護婦のお姉ちゃん、だあれ?ずっとパパのそばを離れないんだ。パパはまだ眠ってたけど───。だいじょうぶかなあ……、パパ……」
大樹は大きな欠伸をした。昨日の晩は、心配でほとんど寝ていないのである。
「大丈夫よ!さあ、ご飯食べたら宿題やって───、お姉ちゃんが見てあげるから。それから今日は早めに寝ましょ。お風呂入らなくていいから」
こうして大樹は百恵の作った夕食を美味しそうに食べ終えると、宿題を済ませて、八時頃には寝床に入ってしまった。百恵はその隣に一緒に横になり、大樹の胸を優しく叩いていたが、間もなく寝息を立て始めた彼の顔をじっと見つめると小さなため息を落とした。
ふと、自分がこの家に住んでいるときに使っていた小さな鏡台が目に入った。浩幸の帰りを待ちわびて、その鏡に自分の顔を映して幾たびとなく涙をこぼした場所である。離婚してこの家を出るとき、処分してしまおうとも考えたが、浩幸の家の中に自分の所有物がまったくなくなってしまう悲しみに耐えかねて、未練がましく残した物に違いない。その小さな引き出しに、以前は片時も離さず左手の薬指にしていたビーズの指輪を潜ませたまま……。
「浩幸さん、捨てずにいてくれたんだ……」
百恵はゆっくり立ち上がると、大樹をまたいでその鏡台の前に再び座った。そして指輪をしまい込んだ小さな引き出しをゆっくり開いた───。
すると、百恵の表情はみるみる崩れ出すと、終いにはぐちゃぐちゃになって呻吟の涙をこぼしたのである。
申し訳なさやら、愛しさやら、不遇やら、何か具体的な思いが浮かぶわけでもなく、ただただ切なく、苦しく、やるせなく、張り裂けるような胸の中で起こった感情の激流は、そのまま声すら出すことを忘れさせて、暗い寝室の中の百恵を果てしない孤独な空間へと落とし入れていた。
どうして気付いてやれなかったのか───。
いや、知っていたはずだった───。その上で別れたはずだった。
───理由にならない。
そんな事は理由にしてはいけないのだ。
全て自分がいけないのだ───。
一途な感情を押し込めて離婚届を書いたとき、自分は彼に背を向けた。
彼の愛を知りながら───、
彼の苦しみを知りながら───。
百恵は時の流れのない真っ暗な空間を、真っ逆様に無限地獄の果てまで落ちて行った。
───鏡台の開かれた引き出しの中で彼女が見たのは、深紅の糸によって堅く結ばれた、二つのビーズの指輪であった。
やがて彼女はそれをつまみ取ると、両手でぎゅっと強く握りしめ、暫く額に当てたままひたすら浩幸の事を念じた。
そうして赤い糸をほどけば、その長さは一メートル以上にもなった。
百恵は片方の自分の指輪を左手の薬指にはめ込んだ。
そして、浩幸の指輪を握りしめたまま、我を忘れて家を飛び出したのだった。
ジャン=ジャックの病室に咲子はいなかった。いや、もし仮にいたとしても、百恵は部屋に飛び込んだに相違ない。
「浩幸さん───!死なないで!」
百恵はジャン=ジャックの顔に頬ずりをしたかと思うと、そのまま左腕を布団から出して、その薬指に浩幸のビーズの指輪を差し込もうとした。
瞬転、
「なにをしているの!」
たった今、部屋に戻った咲子が叫んだ。
「またあなた……?面会時間はとうに過ぎているわ!お引き取り下さい」
咲子は看護士の権限をかざしてそう言うと、百恵の腕をつかんで力づくで部屋から押し出した。
「お願い!デュマ先生の指に、この指輪だけはめさせて!でないと、彼、死んじゃう!」
“死んじゃう”とは百恵の思い込みに違いなかった。しかし、二つの指輪をあれほど堅く結びつけた浩幸の自分に対する思いを知ったとき、その指輪が収まるところに収まっている必要性を無意識のうちに確信していたのだった。それが生死を彷徨う人間には、生きるための道標になることを直感していた。
咲子はビーズの指輪を見て俄に笑い出した。
「なあに?その貧弱な指輪……。それをしないと彼が死ぬですって?ついに頭まで狂かれてしまった?」
「デュマ先生は浩幸さんなの!」
百恵は激しい感情に任せてついに口走った。ところが咲子は更に大きな高笑いをすると、
「バカもここまで来ると話す言葉もないわ!」
「違うの!信じて!デュマ先生は私の夫。脳移植をして……」
百恵は言葉を止めた。それは誰にも明かしてはならない秘密ではないか。
「脳移植……?」
咲子の高笑いは止まらなかった。
「売れない三流作家の書いたSF小説じゃあるまいし!バカも休み休み言って!疲れて仕方ないから。私は彼の看護で忙しいの!またにしてもらえる?」
咲子は百恵を突き飛ばすと、病室の扉を勢いよく閉めた。それでも百恵は扉をドンドン叩いて聞かなかった。
「ここを何処だと思っているの!病院よ!これ以上騒ぎ立てたら警察呼ぶわよ!」
咲子の声にようやく百恵は扉を叩くのをやめた。すると再び扉が開いて、咲子は最後にこう言った。
「淫乱おんな!」
再び閉じられた扉の前で、百恵は言葉を失った。
しかしそれから三日経っても、四日経っても、ジャン=ジャックの意識は依然戻らなかった。かろうじて正常な波形を映し出す心電図モニタだけが、その生命維持の証拠を知らせてくれるだけだった。