その日、目を真っ赤に腫らした百恵は家に帰ることもなく、そのままコスモス園まで走って、夜勤のスタッフ達の視線を気にしながら特養棟の休憩ルームに入り込むと、そのままシャワー室へと飛び込んだ。そして身体にこびりついた男の汗を、まるで昔は畑の中に普通にあった肥溜めに落ちた身体を洗うように、必要以上のボディーシャンプーを泡立て何時までもお湯を流し続けたのだった。しかし心に塗られた泥は、いっこうに流れ落ちる気配がない。結局あきらめて湯を止めるしかなかったが、暫くはシャワー室の壁に身体をもたれかけたまま、何も考えずに呼吸だけを繰り返していた。
やがて、休憩時間のスタッフの声が聞こえてきたことに我を取り戻した百恵は、ようやく水が滴った身体をタオルで拭きはじめた。
スタッフ達は、突然シャワー室から姿を現した百恵に驚きながら、
「おつかれさま」
と言った。百恵は無理した作り笑顔で答えると、何も言わずに暗いスタッフルームに移動して、自分のデスクに頭を抱えて座り込んだ。
「咲子さんの言うとおりだ───」
咲子の言葉は強烈なミサイルだった。ミサイルの直撃を受けた心はもはや何も残らぬ焼け野原となり、何かを思い浮かべることもできない。ただ、その言葉だけが悪夢のように反響し、いつまでも消えることはなかった。
そうして茫漠とした心に、最初にひょいと思い浮かんだ事は、
「浩幸さん死なないで───」
だった。そしてこの二つの思いは心の領土の陣地を争いあう激しい戦争のように心を苦しめたが、そのうち頭を抱えたままの姿勢で、いつしか大きな睡魔に襲われたのだった。
目を覚ましたのは、日勤の尾佐田が「おはようございます」と言って入ってきた時だった。
「どうしたの?ずいぶんと早いご出勤ね……」
百恵はその声に驚いたふうに彼女を見つめた。
「もしかして、徹夜───?あきれた人ね……」
尾佐田は百恵の腫れた目を見て言った。しかし、その腫れ方がおかしいことに気付き、
「泣いてたの……?」
百恵は何も答えなかった。尾佐田はタイムカードを押して自分のデスクにつくと、
「あなたが“山口”から“馬場”に苗字を変えた時も、確かそんな顔をしていたわ。まったく泣いたり笑ったり、忙しい人ね……」
と言った。彼女にしては珍しい冗談に、百恵はかすかに唇を三日月に変えた。
「何があったか知らないけど、今日はお休みしたら?有休休暇だってまるまる残っているのでしょ?このまま抛っておいたら、あなたは休みも取らず、死ぬまで働き続けていそうでこわいから───。この際、有休、まとめて取っちゃったら?仕事の方は私一人でもなんとかするから」
「でも……」
「総務課の方にはうまく話しておくわ。一週間でも二週間でも好きなだけ休んだらいい」
尾佐田の百恵に対する態度の変化は何であったか───。百恵が配属された当初はまるで仕事にも無気力で、その氷のような冷たさに近づくこともはばかれたが、ここ数ヶ月間の彼女は、周囲の人間も気付かないところで静かな異変を起こしていたことは間違いない。それは百恵に対する畏敬でもあり、実は彼女も最愛の夫を亡くしていたのだった。
彼女の夫は以前彼女が勤務していた病院の患者の一人で、癌の告知を受けた入院当初は、凛々しい精悍な顔付きの青年だった。そして、そんな病院で芽生えた儚い愛。余命数ヶ月と宣告されたとき、二人はあえて結婚した。その愛が奇蹟を起こし、夫は必ず元気になると信じていたのだ。しかし、“愛”が奇蹟を起こすことはなかった。夫は痛みの苦しみの中で死んでいったのだ。絶望の淵に立ち、彼女はやがてその病院を辞した。
その時に見た、鏡に映った泣きはらした自分の目と、百恵が姓を変えた時の目が同じであった。尾佐田はあの時、現実に対して背を向ける生き方を選んだのだ。
果たして百恵はどうするだろうか───。
彼女はその結末を見とどけてやろうという冷たい心で、ずっと百恵を観察していたのだ。ところがその時の百恵は逃げるどころかますます明るくなって、百恵にとってはそれが現実逃避の道であったとしても、尾佐田にはそうは映らなかった。
「この人なあに……?」
百恵の強さを認めたのはその時だった。
「かなわない……」
やがて百恵に対して畏敬の念が生まれたのである───。
百恵は「休んだら?」と言う尾佐田の気遣いの言葉を受けた時、彼女の目の中に自分と同じ苦しみを経てきたのでは?という何かを感じた。それは、一人の異性を愛し続けるという、その経験をした者にしか判からない同種の光だった。
「尾佐田さん……」
百恵は尾佐田を見つめて言った。
尾佐田は静かに頷いた。
百恵は慌てて立ち上がると、そのまま山口医院へと走り出した。
ジャン=ジャックの手術はまだ終わっていなかった。その前の廊下の長椅子には相変わらず咲子が座り、その脇には大樹が寝息を立てていた。
「なあに?あなた、懲りずにまた来たの?」
百恵は何も言わずに大樹を静かに起こした。
「大樹君、朝よ、学校へ行く時間───」
大樹はやがて小さな欠伸をして起き上がると、以前一緒に生活していた時と同じ口調で「おはよ」と言った。そして周囲を見渡すとやがて、「パパは?」と言った。
百恵は優しく微笑むと、
「今日お姉ちゃん、お休みが取れたから、パパの事は心配しないで学校へ行きなさい」
と言った。大樹はすっかり安心した様子で「わかった」と答えた。
そうして二人は浩幸の自宅に向かい、間もなく学校へ行く準備を済ませた大樹は、百恵の作った軽い朝食を済ませると、眠そうな目をこすりながら登校していった。それを見送った百恵は、男やもめの散らかった室内を見回すと、
「まったく、もう!」
と思った。しかしそれより浩幸の事が心配だったので、ジャン=ジャック用の下着などの着替えや日常品を一通り揃えると、再び山口医院へ向かい、手術室の前の廊下にやってきた。咲子は呆れたように何も言わなかった。
咲子は長椅子に座り、百恵は廊下の壁に寄りかかったまま、二人は何も喋らない。やがて夜勤明けの一人の若い女性看護士が咲子のところに来ると、
「咲子、帰らないの?」
と言った。
「ジャン=ジャック先生が心配だから、このまま残るわ。しばらく家には帰らないかも知れない」
そう答えた咲子はその看護士と手を振って別れ、そのまま居座る意志を百恵に伝えた。
随分と長い時間、咲子と百恵は話さなかった。やがて下を向いたまま小さな欠伸をした咲子が言った。
「ねえ───」
百恵は何も答えない。
「あなた、本当にジャン=ジャック先生とどういう関係なの?さっきまでここにいた前院長の子ども、彼のこと“パパ”って言ってた。どういうこと?それにあなた、今持っている物、彼の着替えね?あの子に付いてって彼の家に上がり込んだってわけね?呆れて物も言えないわ……」
百恵は咲子を見つめた。しかし何も言わなかった。
「まあ、どうせあなたにとってジャン=ジャック先生は、数いる淫遊相手の一人なんだろうけど、先生には私がいるから、あなたはもう帰ってくれないかなあ。必要ないから───。心配しないで、彼には言っといてあげる。ジャン=ジャック先生が倒れた時、あなたはどこかの男とエッチしてたってこと……」
「やめて!」
「どうして?だってほんとの事じゃない」
咲子の言葉はどこまでも百恵をいたぶった。
「お願い……。それだけは言わないで……」
「呆れた───」
その時、手術中の赤いランプが消えた。二人は固唾を呑んで、医師が出てくるのを待った。やがて中から西園と伝田が姿を現した。
「どうなんですか?先生!」
先に言ったのは咲子だった。西園は伝田に言う事を促した。
「なんとか成功です。しかし、意識が戻るまでは予断を許しません。相模君も看護士なら、最善を尽くして院長の命を救いましょう。今はこれしか言えません」
「私に院長付きの看護を言いつけて下さい」
咲子が言った。伝田は西園を見つめた後、
「いいでしょう」
と言い残し、伝田はそのまま引き上げて行った。西園は百恵を見つけると、
「大樹君は?」
と聞いた。
「学校へ行かせました」
西園は静かに頷くと、そのまま伝田の後を追いかけた。
続いて救急ベッドに乗せられたジャン=ジャックが、数人の看護士に押されて出てきた。咲子は百恵の手にしたジャン=ジャックの着替え一式を奪うと、そのまま百恵を突き飛ばし、「ジャン=ジャック先生」と言いながら、そのまま病室の方へ付き添って行ってしまった。
咲子に突き飛ばされた百恵は、廊下に尻餅をついたまま、手術を終えたジャン=ジャックの姿を見送った。