(十六)突然の知らせ

 全裸の身体に毛布だけをかぶせて、百恵は照明の周りを飛ぶ小さな虫を相変わらずぼんやり眺めていた。
 菊池は暫くその横で、頭の後ろに組んだ両手を当てて仰向けに寝ていたが、やがてのっそり起き出して、下着と浴衣をまとったかと思うと、ビールの空き缶が無造作に散らかる机に戻り、静かに煙草を吸い始めた。
 ───二人は無言のままだった。
 百恵は、浩幸とは銘柄の違う煙草の匂いに包まれて、やがて菊池に背を向けた。
 そこにかすかな携帯電話の音が鳴った。出どこは百恵の鞄の中で、気になった菊池が、
 「携帯が鳴っていますよ」
 と言った。
 百恵は電話に出る気も起こらず、そのまま暫く抛っていたが、一度切れた着信ベルは、十秒もしないうちに再び鳴り始めた。
 「何か急用じゃないですか?」
 再び菊池が言った。
 仕方なく、重たい身体を起こして毛布を羽織り、ゆっくり立ち上がって鞄から携帯電話を取り出せば、百恵の股間から菊池の白い液体が流れ出た。着信番号を見た百恵の表情が俄に蒼白になった。
 結局そのまま回線ボタンを押せずに、絶望の様子で顔を伏したのだった。
 着信音はまた止まり、再び十秒もしないうちに鳴り出した。
 「どうしたの?出ないの?」
 菊池は不審そうに言った。
 出れるはずがなかった───。その番号は、浩幸の自宅のものだったからだ。
 「馬場さん、出た方がいいと思うよ。こんな時間に、しかも立て続けに鳴っているんだ。何かあったに違いないと思うが……」
 まるで人事の菊池の言葉に押されて、百恵は勇気を振り絞って回線ボタンを押した。
 「───、はい……」
 『馬場さんですか?』
 電話の声は子どもだった。
 『お姉ちゃん!?大変なんだ!パパが!パパが!』
 その声は大樹で、百恵の声を確認した途端、そう叫んだかと思うといきなりワン!と泣き出した。
 百恵の血の気が一瞬のうちに引いた。
 「大樹君?パパがどうしたの!?」
 『パパが死んじゃう!お姉ちゃん、助けて!』
 「ええっ!!どうしたの?なにがあったの?西園先生には連絡したの?」
 大樹の様子が尋常でないことに、百恵は咄嗟に浩幸に拒絶反応が起こったのではないかと思った。
 しかし大樹は泣き叫ぶばかりで会話にならなかった。
 「すぐ行くから、まってて!!」
 百恵はそう言って電話を切ると、すかさず今度は西園の携帯に電話をかけた。折りよく西園は宿直で山口医院内におり、百恵の話に驚愕して、直ちに浩幸の自宅に飛んだのだった。
 百恵は菊池の目線を気にもせず、急いで下着をつけて洋服を着た。
 「どうしたのですか?」
 菊池の言葉も聞こえない様子で、百恵はそのまま部屋を飛び出した。
 慌ててそれを追いかけた菊池がすぐに追いつき、「どうしたの」と百恵の腕を掴んだ。
 「放してよ!!急いでるの!!」
 寝静まった館内にその声が響いた。見れば、百恵はぼろぼろ涙を流していた。
 その勢いに押された菊池は、
 「こんな山奥で、こんな時間に外に出たって、タクシーも拾えない。私が送ります」
 と、車のキーを取ってくると、浴衣姿のまま百恵を浩幸の自宅まで届けたのであった。百恵はお礼も言わずに車を飛び出して、玄関の扉に手をかけたが、鍵がかかっていることに、そのまま山口医院へと走ったのだった。
 その慌てた様子の百恵の姿を見送って、菊池はそのまま宿へと引き返した。

 果たして、暗がりの手術室前の廊下にたどり着けば、赤く光った『手術中』の文字が目に飛び込んだ。そして、すっかり泣きつかれた様子の大樹が、百恵の姿を見つけて抱きついた。大樹も百恵も、泣きはらした目が真赤だった。
 「パパは───?」
 「いま、西園おじちゃんが手術している……」
 「だいじょうぶよ……、だいじょうぶよ……。きっとパパは大丈夫……」
 百恵は涙を堪えながら、力いっぱい大樹を抱きしめた───。
 同じく手術室の前で、中の様子を心配そうに長椅子に座っている看護姿の女性がいた。そしてその二人の会話を聞きながら不思議そうに立ち上がった。
 「パパ……?」
 相模咲子である。
 「……パパって、いったいどういうことよ?」
 彼女もまた、急に倒れたジャン=ジャックを心配して、その手術の成功を祈っていた一人であった。
 百恵はようやく咲子の存在に気付くと、大樹の手を握ったままゆっくり立ち上がって目礼した。
 「何しに来たの?あなたはジャン=ジャック先生とは関係ないでしょ?」
 咲子はつ、つ、つ……と百恵の前に立ちはだかった。そして暫くはきつい目つきで百恵を睨んでいたが、やがて鼻をくんくんやりだすと、まるで汚らわしいものでも見るような目つきで笑い出した。
 「臭っ……。な、なあに、あなた……?男の匂いプンプンさせて……」
 咲子は左手で鼻をつまむと、右手でその匂いを払うような仕草を見せた。
 百恵は「はっ……」となって唇をかみ締めた。
 「どこの男に抱かれていたか知らないけど、シャワーくらい浴びて来なさいよね。神聖な病院に不純だわ。しかも、ジャン=ジャック先生はいま、生死をかけて必死になって病魔と戦ってるの!不愉快だわ!どこかに消えて!」
 咲子にとってもジャン=ジャックの緊急手術は心を大きくかき乱していた。やりどころのない不安を、たまたまやってきた以前ジャン=ジャックに思いを寄せているという噂になった同性の百恵に素直にぶつけただけだが、百恵にとっては肺腑をえぐられる言葉だった。咲子は勢いに任せて、更に言葉を継いだ。
 「あなたなんか、ここに来る資格はないわ!」
 百恵は何も言えずに唇をかみ締めたまま大粒の涙を落とした。

 そのとおりだ───

 百恵はそう思ってしまった。
 どんな理由をつけようと、浩幸でない男に、大切にしていた貞操を捧げてしまったのだ。正確に言えば、別に大切にしていたという意識はない。もっといえば、フリーセックスが台頭しているかのような時代の中で、少し前の百恵だったら、出会いと機会があれば「便乗してもいいかも」という考えにもなっていた。しかし、生涯をともにし、一緒の生活をしながら新しい生命を育む“家族”という環境を考えた時、夫以外との肉体関係は、必ずどこかで歪をもたらす因になってくるのではと考えるようになっていた。古い考えと言われてしまえばそれまでだが、“貞操”は一つの美徳であるとも思って疑わなかった。だから、愛し抜いた浩幸のことを思うとき、彼以外の男と関係を持つことなどありえなかったのだ。“愛”というものとは別に論じなければいけないのかも知れないが、少なくとも、夫婦愛を守る砦ではないかと考えていた。
 だから百恵にとって菊池との間で犯してしまった行為は、例え彼が浩幸の姿を借りていたとはいえ、“ちがう”と思った以上、浩幸への裏切りであり、それは同時に自分を裏切ったことでもあった。もっとも、僅か数時間にも満たない前の出来事について、しかも動揺しきった心では、それほど深く考えられるものではなかったが、少なくとも咲子の台詞は、百恵の中の正論と寸分も違わなかった。
 悔し涙だけが、ボロボロ、ボロボロとこぼれ落ちた。
 ついにそこに居たたまれなくなった百恵は、何も言わずに大樹の手を放すと、
 「どこ行くの?お姉ちゃん!」
 と言う声を置き去りにして、そのまま駆け足で逃げ出した。

 さて、ちょうどそのとき手術室では、ジャン=ジャックを横たえた手術台の周りを、数人の看護士と、西園と伝田の二人の医師が取り囲んでいた。
 しかし、執刀を試みようとする西園の手は震えていた。
 「西園先生……」
 にじみ出る額の汗を、伝田がぬぐいながら言った。
 突然、ジャン=ジャックを襲った拒絶反応をくい止めるには、直ちに切開して、患部に何かしらの処置を施さなければならなかった。ところが経験豊富な西園にして、脳移植の患者など診たこともない初めての経験だった。浩幸の脳移植手術の主治医であったアメリカのノーマン博士からは、術後の経緯による様々な細かい処置の仕方を聞いていたとはいえ、もし万一のことがあれば、ジャン=ジャックもろとも浩幸の命も消えてしまうのだ。その重責に耐えかねて、西園は長い間躊躇した。それは彼の年齢にもあったかも知れない。
 「西園先生、はやく。このままでは院長が……」
 「わかっている!」
 しかし伝田には、西園の腕の震えが気になって仕方がなかった。間違って神経細胞に傷をつけるような事があれば、術後の運動機能に障害をもたらすことは分かっていた。
 「西園先生、その震える手では無理です!僕が代わりましょうか?」
 伝田の言うことももっともだった。西園は彼の顔を見つめた。
 しかし、伝田は、浩幸が脳移植をしてジャン=ジャックになったことを知らない。その何も知らない人間が執刀することは、ますます危険を増大させる事でもあった。しかし西園の両手はますます震えた。
 正夫の忘れ形見である浩幸を死なせる訳にはいかない───。しかし今の自分が手術しては危険だ。世代交代の時か───。
 「分かったよ、伝田君。君に任せよう……。私の指示通り忠実にやってくれたまえ」
 「はい!」
 こうして若い伝田に、山口医院の未来が賭けられたのであった。
 そして、八時間にもおよぶジャン=ジャックの手術は、伝田の手によってなんとか成功を収めたのである。
 ───しかし、ジャン=ジャックの意識は依然戻らなかった。

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