目を覚ますと床の間に、早咲きの椿が生けてあった。
百恵は遠い意識の中でその紅色の花の姿をぼんやりと認めた。
三輪───。
ふと、祖母の事を思い出したのである。小学校二年生の時だったか───、すっかり衰弱した祖母の枕元に、それと同じ花が咲いていた。
「モモちゃん……、どうやら私の命もそう長くないようだ……」
祖母のしゃがれた声の中に、どこか力強い生命の力を感じた。
「おばあちゃん、どこに行ってしまうの?」
「どこか遠くの世界だよ……」
「もう、会えないの?」
祖母は何も言わずに微笑んだ。
「やだやだ!おばあちゃんと会えなくなるなんて、モモ、ぜったいやだからね!」
百恵は半泣きになりながら、やせ細った祖母の胸に顔をうずめた。すると祖母は、枕元のまだ小さな百恵の胸に手を当てて笑った。その皺だらけの瞼に大粒の涙を含ませながら。
「泣かないでモモちゃん。モモちゃんが泣くと、なんだかばあちゃんも悲しくなるの」
百恵は涙を拭いたが、込み上げる悲しみでグスン、グスンを繰り返した。
「死んでもばあちゃんは、モモちゃんのここに、ずっといるよ───。この胸のずっと奥───。だから、ばあちゃんとモモちゃんは、ずうっと一緒だよ……」
祖母は百恵の胸に当てた手で、優しく何度もその小さな胸を叩いた。
「ほんと……?」
そして笑ったままの表情で、静かに何度も頷いていた。
ところがそれから数日後、彼女は静かに息を引き取ったのだった───。
まるで眠っているかのような表情は、とても“死”を感じさせるものでなく、父と母に、
「おばあちゃんは死んで、遠くの世界へ逝ってしまったのだよ」
と聞かされても、百恵にはとうてい信じられなかった。しかし「おばあちゃん」と何十回、いや何百回呼んでも、いつもなら「なんだい、モモちゃん」と返事を返してくれる祖母でなくなっていたとき、百恵は初めてその“死”を受け入れるしかなかった。そして、涙が枯れるまで泣いた。
「おばあちゃんのうそつき!ずっとモモと一緒だって言ったくせに!」
───あれから二十年。大人になって、ようやく祖母の言ったその意味が分かった気がする。確かに祖母は自分の胸の中に住んでいる。冬、椿の花を見るたびに、祖母を思い出すのはその証拠だろう。
百恵の脳裏にそんな出来事が去来すると、目覚めの意識が、次第に現実の時間を受け入れた。そして祖母は今、床の間の椿になって、じっと自分を見つめているように思えた。
ここは、どこ───?
やがて百恵は混乱する意識の中で、床の間のすぐ隣りで、一人でビールを飲み続ける菊池の姿をとらえた。
浩幸さん───。
まだ夢の中で百恵はそう思った。
そうしてむっくり上半身を起こすと、周囲の部屋の状況から、先程まで菊池と一緒に飲んでいたことを思い出すことができた。時計を見れば夜中の十二時を回っている。
「やっと目を覚ましましたね……」
布団の上に身を起こした彼女に気付いた菊池が言った。酔いのためだろう、まだ頭がクラクラしている。
「本当にお酒が駄目だったんですね。すいませんでした。無理に飲ませてしまって……」
菊池はビールを片手に、テレビを見ながらの姿勢でそう言った。
「おばあちゃんの事を思い出していました───」
乱れた髪の毛を整えながら百恵が言った。
「おばあちゃん……?」
「ほら……」
百恵は床の間の紅椿を指さした。
「早咲きの椿か……。男は鈍感ですね。ここに椿が生けてあることなんか、今までまったく気付きませんでしたよ。こういう細やかな女性の感性こそが、今の時代に求められているのかも知れませんね」
菊池は別段興味を示すわけでもなく、自分の仕事に関連した角度でそう言うと、そのままビールを一口飲んだ。
「椿は私のおばあちゃんの化身なのかも知れません。だって、私が介護士になったのも、実は椿の花を見たのがきっかけだったんです」
菊池は、椿の話題から離れないその話しを興味深そうに、やがてテレビを消すと、身体を百恵の方に向けた。
「面白そうな話ですね……。良かったら聞かせていただけませんか?」
菊池が聞いていようがいまいが百恵には関係なかった。ただ、椿の花を通して、自分の人生を振り返り、その意味を確認しようとしていただけだった。そこにたまたま菊池がいたのだ。百恵は独り言を言うように静かに語り始めた。
私は大学を卒業して一年間とちょっと、就職浪人をしてたんです。
これといって就きたい職もなく、
『これから先、どうしようかなあ……』
なんて漠然と考えていたの。
家で毎日だらだらしていても仕方がないから、そのうちコンビニでアルバイトを始めた。
ほら、コスモス園の近くにある、あそこ───。
ある冬の寒い朝だったなあ。
早番でぼんやり外を眺めていたら、庭に一輪の紅色の寒椿が咲いていた。ちょうどこの床の間の椿と同じ色───。
そのとき、ふと、おばあちゃんの事を思い出したの……。
おばあちゃんは私が小学校二年生の時に死んじゃったけど、家で寝ているときは、いつも枕元に椿の花を飾ってた。椿はおばあちゃんが大好きな花だった───。
私はまだ身体が小さくて、おばあちゃんをトイレに連れていくことも、ましてやお風呂に入れてあげることもできなかった。とっても悔しかった……。大好きなおばあちゃんの役に立てないの。
そのとき思ったっけ───。
大きくなったら、私がおばあちゃんの世話を全部しようって……。
そして将来は、おばあちゃんのような、お年寄りの面倒をみる仕事に就きたいって……。
でも、人間なんて薄情なものね。それから中学校、高等学校、大学と、過ぎゆく時間の中でそんなこと、すっかり忘れてしまったの。
コンビニの庭に咲く、その花を見つけるまで───。
私はほんとに忘れてた───。
そこまで話すと、百恵は机の上の飲みかけのウーロン茶を飲んだ。いつしか酔いの苦しみは、ほろ酔いの心地よさに変わっていった。
「でも、君は介護士になった───」
百恵の話を受けて菊池が言った。
「そう。大学の友達にコスモス園を紹介してもらったの───」
最初は高齢者介護の現実を目の当たりにして、そりゃびっくりしたわ。
毎日毎日同じ話をする人や、中には電信柱の前に立って『総理大臣ばんざーい!』なんて叫ぶ人もいたり、人の死に際も何度となく見てきた。
でも、痴呆のおじいちゃんやおばあちゃんを相手にしていると、なんだか抛っておけなくって……。
それから私は猛勉強───。
四年かけて、やっと介護福祉士の免許を取った。
楽しかったなあ……、あの頃……。
苦しかったけど、楽しかった……。
───介護施設の高齢者なんて、みんなよぼよぼで、生きる気力もないような老人の集まりっていう印象があるでしょ?
でも、ぜんぜん違うの!
一人ひとりのおじいちゃんやおばあちゃんには、一人ひとりそれぞれの人生があって、そして、それぞれの哲学や考えを持ちながら、必死になって自分の人生を生き抜いてきたの!介護をして、面倒を見てあげるなんておこがましい。
私はそれを知ったとき、もう感動!
以来私は、施設の高齢者の方達を、尊敬するようになった。
百恵は遠くを見つめるように天井を仰いだ。そして、その楽しかった思い出の中に、いつも存在していた一人の男の姿を思い浮かべると、菊池に視線を移して、心の中でそっと思った。
そしてね───、そこにはいつも、浩幸さんがいた───。
百恵の視線は菊池の顔を射るようだった。そうしてまじまじと見る彼の顔は、やはり浩幸のそれと寸分の違いもない。しかし、その思いをすぐにうち消すと、再び話を続けた。
私は思ったの───。
この仕事は、私のおばあちゃんが私にくれた、使命なのかも知れないって……。
バカでしょ……?
日本が抱えるこんな大きな課題を前にして、
『私がなんとかしよう!』
なんて考えたこともあるのよ!
ほんと、身の程知らずの根っからのバカって私のこと……。
菊池は愉快に笑った。
「そうでしょうか?なんだか私には、馬場さんがまぶしく見える……」
「お世辞ばっか……」
でも最近ね、あの特養棟に配属されてから、なんか分からなくなっちゃったんだ……。
なにって……、
夢子さんはまだいいのだけど、入所の老人達は何を話しても答えてくれない、動いてもくれない───。突然話をしだしたかと思えば、急に怒鳴ったり、怒られたり……、質が悪くなれば、暴れ出して取っ組み合いの喧嘩みたいになったり……。
抑制帯でベッドにくくられている人もいるの。身体を動かす自由もなくて、ほんとにかわいそう……。でも仕方がないの。暴れ出したらもう大変。真夜中だろうが何だろうがギャーギャー騒ぎ立てるから。お外にまで響く声で───。
それだけじゃない、更に山口医院で収容しきれない脳死状態の方までいるのよ……。
特養棟は生きる屍を隔離する牢屋───、
私はその“死せる病棟”の管理人……。
百恵は再びウーロン茶を飲んで机の上に置いた。なんだかそうして語っている間にも、もう一方で、そんな自分を冷静に見つめているもう一人の自分がいる事に気付いていた。いつしか仕事の苦しみから逃れるために、彼女自身が編み出した一つの逃避の方法だった。以前はそんなに要領よくできる自分ではなかった。何でも体当たりで、何でも真っ向から取り組むことができたのに。そしてそんな自分が好きだったのに───。でも、今の自分は好きになれないと思うようになった。そしてそんな自分が当たり前になってしまっていた。
何だろうって……。
私の使命って何なのだろうって……。
最近ぜんぜん分からなくなっちゃったの……。
床の間の椿をじっと見つめた百恵は、大きなため息をひとつ落とした。
「この紅色の寒椿───、きっと私を見つめてガンバレって言ってるの……」
と、その時である。
ビールを飲みながら静かに話を聞いていたかと思った菊池が、気付けば彼女のすぐ脇に寄ってきていた。
「はっ!」
としたのもつかの間、菊池はいきなり百恵にキスをしたのだった。
瞬間、放心状態に陥った百恵であったが、俄に我を取り戻すと、唇に吸い付く菊池の顔を力任せに遠ざけた。しかしその菊池の双眸も真剣だった。
「や、やめて……」
驚きの表情を隠せないまま、百恵はやっとの思いで口にした。
「百恵さん……。もっと肩の力を抜こうよ。いいんですよ……。僕は山口浩幸だ……」
百恵は両目を見開いた。
菊池に言われてそう見れば、紛れもない彼の顔は山口浩幸に相違ない。ほろ酔いの意識は、いつしか時間の錯誤を導きながら、突然姿を現した浩幸に、思わず百恵は懐かしさに満ちた表情をつくった。
───菊池は再びキスをした。
百恵はもう抵抗しなかった。
そうして長い接吻を終えると、浩幸の両手は、そのままゆっくり百恵の洋服を脱がせにかかった。百恵は恥ずかしそうに両胸を隠したが、攻め寄る彼の片手は、そのまま二つの美しい乳房を静かに撫で始めたのだった。
「浩幸さん───!」
目の前の男が浩幸であることを疑いもせず、百恵は全てを忘れてその男の躰に腕をからませた。もう、何が何だか分からなかった───。
百恵は初めての経験に、浩幸の目の中の光が真実なのか嘘なのか、必死に確認しようとしたけれど、あえぐ躰ではそんな余裕も見つからなかった。ただ、女性の躰の扱いに手慣れた様子の浩幸は、全裸の百恵のそこらじゅうを優しく愛撫して、その動きを止めようとはしなかった。
痛い!───
百恵の局部に得体の知れない物体が入り込んだとき、既に意識は遠い所に行っていた。ただ、揺れる二つの躰の向こうで、床の間の早咲きの椿が静かに見つめていた。
百恵は浩幸に抱かれる幸せの快感の中で、必死にその痛さに耐えていたが、やがて揺れる視界の向こう側に、三輪の早咲きの紅色の椿が、ぼんやりと霞んでいるのを見つけた。そして彼女の脳裏のほんの一部に、死んだ祖母の面影が浮かんでいた。
その刹那の事である───。
三つの中の一つの椿の花が、突然、ボタッと落ちたのだった。
それはまるで、昔の武士が切腹をして、その介錯で振り下ろされた太刀が首を落とした時のように不気味で、しかも花が血を思わせる紅色だったから、その衝動は、遠くにあった百恵の意識を呼び戻すのに充分だった。百恵は、
「あっ……」
と、思った。
それから間もなく、残った二つのうちのもう一つが、同じようにボタッと落ちる光景を見たとき、激しく揺れる部屋の景色とは無縁のところで、
「おばあちゃん……」
と、思った───。
更にあろう事か、残り一つも前に落ちた二つの花の首の命を追うように、最後の灯火を散らしたのであった───。
百恵は驚いた。こんな僅かな時間の間に、それまできれいに咲き誇っていた紅色の椿が、またたく間にその三つともほぼ同時に落ちたのだ。そして目の前の男の顔に目を移せば、浩幸に似た顔の男が、いままさに果てようとしていた。
「ちがう……!!」
百恵は咄嗟に思った。
「この男性じゃない……」
しかしそれは、菊池の行為がすべて終わった後だった───。
百恵は犯してしまった過ちを、もはや後悔すらできずに、部屋の照明の周りを飛び交う小さな虫を、茫然と眺めるだけだった。