(十四)抱かれる予感

 食事を終えた二人は、そのまま菊池の車に乗り込んで、まっすぐ百恵の家へ向かうはずだった。ところがこのまま家へ届けて別れるには淋しい菊池は、
 「ドライブでもしましょう」
 と、国道十八号線を北上したのであった。
 「このまま行っても何もありませんよ」
 百恵が言ったが、なるほど進むに従って民家の光は減っていくばかりで、ついに林に挟まれた侘びしい雰囲気のところにまで来ると、菊池は諦めて、
 「まだ時間は早いし、そうだ、これから私の宿で少しお酒でも飲みませんか?」
 と言った。百恵はふいに嫌な予感にとらわれた。
 「え……?これから?で、でも、私、お酒飲めませんし……」
 しかし、菊池の横顔に吸い込まれる意識の中で、「どうにでもなれ」と、半分投げやりな心境もあったことも否めなかった。
 そんな車の中で話したことは、専ら夢子の事だった。
 最近、「田舎に帰りてえ」と言わなくなったという話に、菊池は「おかしい、おかしい」と繰り返したが、百恵は小布施での出来事を伝えようとはしなかった。あれほど悩んだことなのに、ジャン=ジャックに伝えてからというもの、その兄である菊池に対しては、別に知らなくてもいいことだと思うようになっていたのである。
 その心境の変化も妙だった。仮に、先に菊池に伝えていたとして、果たしてジャン=ジャックには伝えなくていいという心境になっただろうか?
 百恵は首を傾げた。
 とすれば、自分にとって、この二人に対する心の違いは何なのか?
 愛子の子どもと、夢子の子ども───。
 母親の違いがそうした違いを生んでいるのであろうか?
 「何を考えているの?」
 菊池の言葉に百恵は小さく微笑んだ。
 「なんでもありません……」
 車はやがて高山村の宿に到着した。百恵は今晩菊池に抱かれる予感を抱きながら、
 「えっ?ほんとうに……ですか……?」
 「ここまで来て、それはないでしょう。少し飲んだら家まで届けますから」
 「でも、お酒飲んじゃったら……」
 「大丈夫ですよ」
 菊池は百恵の手を取ると、半分強引に部屋の中に連れ込んだのだった。

 十数畳ほどの和式の部屋だった。
 障子で仕切られた窓辺の縁側には椅子とテーブルが置かれていた。
 菊池は「ちょっと強引でしたかね……。すいません」と言いながら、中央の机に置かれたお茶を入れテレビをつけた。
 「淋しいんですよ……」
 菊池は苦笑しながら本音を言うと、お茶をすすった。
 「毎日仕事を終えて家に帰るでしょ。でも家には私を待つ人なんか誰もいない……。以前は母さんがいて晩飯を作って待っていてくれましたが、今はコンビニで弁当を買って一人でテレビを見るんです。四十半ばの男のそんな光景───、笑っちゃうでしょ?」
 百恵は「そんなことありません」と言いながら、菊池の正面に座った。
 「そんな事を言ってくれるのは馬場さんだけですよ───。でも今日は君がいる」
 菊池は嬉しそうに立ち上がって背伸びをした。
 「そうだ、せっかく来たのですから温泉につかってから飲みませんか?それともこの温泉にはよく来るのですか?」
 「いいえ。近くにあるというだけで、ほとんど来ません」
 「出不精なんだ……。こんなにいい所が沢山あるのに……。羨ましいですよ」
 そう言うと、菊池は鞄からタオルを取りだした。
 「ひとっ風呂浴びてきませんか?大丈夫、ここは混浴じゃありません」
 気さくな笑顔に乗せられて、彼の言うことももっともだと思い、百恵もこの機会にと立ち上がった。
 「その前に、お母さんが心配するといけないから電話しとかなきゃ」
 百恵はそう言うと菊池を先に送り出し、母の恵に、
 「今晩は夜勤スタッフが一人欠けてしまったので少し遅くなる」
 と、嘘の電話をかけた。すると恵は百恵の身体を気づかって、
 『あまり無理しないでね……』
 と、いたく心配している口調で言った。百恵は“いけない娘”を自覚しながら、やがて携帯電話を切ったのだった。
 こうして久しぶりの温泉に向かった───。
 思えば高山の温泉に入るのは数年振りの事だった。前回入ったのは早番の仕事帰り、
 「たまにはゆっくり温泉にでも浸かろう」
 と光輝に誘われ一緒に来た以前は、もう二十年以上も昔、祖母と一緒の時だった。その時は硫黄の匂いに、温泉とはこんなものかと思った程度であったが、けっして温泉が嫌いというわけではない。本音を言えば、一週間でも二週間でも休暇をとって、全国の温泉巡りでもしたい口なのだ。
 百恵はそんなことを考えながら、湯船に浸かる老婆達の姿を眺めながら身体を洗った。たまに若い女性がいたかと思えば数人のグループで、一人の百恵は場違いの恥ずかしさで湯に浸かった。すると、
 「お姉さんはどこから来たのかい?」
 近くの見知らぬ老婆が湯煙の中で話しかけた。
 「地元です」
 「地元かい。こんないい温泉が近くにあって羨ましいね。わしは名古屋じゃ。以前はひどい神経痛だったんだが、この温泉を見つけてから近くの親戚の家に居候して湯治をしはじめたんだ。するとな、今じゃ神経痛もすっかり治ってしまったよ」
 老婆はしわがれた声で笑った。
 「本当ですか?温泉ってそんなに効くんですね」
 「おやおや、地元のくせに何も知らないんだね……」
 そんな小さな出会いから百恵はすっかり長湯してしまった。
 こうして温泉から出て部屋に戻れば、先にあがっていた菊池は、近くの売店でアルコールやらジュースやらつまみやらを買い込んで、テレビを見ながらくつろいだ様子で静かにビールを飲んでいた。
 「ずいぶんと長かったですね。先に始めちゃいましたよ」
 そう言うと、百恵のコップにビールを注いだ。
 「いえ、本当に私、飲めないんです……」
 「いいじゃないですか、一杯くらい」
 「ダメダメ、私、本当にお酒、ダメなんです」と頻りに断る百恵に、「そうですか……」と、やがて菊池は淋しそうにビールを置いた。
 「でも、本当にいい湯でした。明日は高山温泉を制覇しますよ」
 「がんばってくださいね!」
 百恵の言葉に、菊池は無邪気に「おーっ」と言いながらビールを飲み干した。
 「しかし、たまにゆっくり休暇というのも優雅なものですね。おまけに目の前には馬場さんのような美しい女性もいる。明日も仕事が終わったら付き合っていただけませんか?」
 百恵は小さな声で「はい」と返事をした。
 「それじゃ、明日また仕事が終わった頃、迎えにいきます」
 菊池は嬉しそうに、それから暫くの間は仕事の難しい話をしたり、東京の治安の話などしていたが、そのうち一人で飲んでいるもどかしさに嫌気がさしたのか、やがて百恵に強くビールを勧めた。百恵はかなり拒んだが、どうにもビールを勧める菊池の強引さに断れず、
 「じゃあ、ほんとにひと口だけよ」
 と約して飲んだのがいけなかった───。みるみる酔いがまわり、ついには思考能力まで薄れ、そうなると目の前の菊池は浩幸と化し、百恵は虚ろな目でその顔を見つめるのだった。
 菊池はそんなこともつゆ知らず、やがて「馬場さんのような女性が嫁さんになってくれたら」とか、「東京は嫌いですか?」とか、「もしそうなったら母さんを自宅で介護してくれますか」とか、盛んに百恵を口説きはじめたが、当の百恵はそんな言葉も上の空で、
 「いけない。飲み過ぎた……」
 と、間もなく机に頭を置いてしまった。
 「ちょ、ちょっと、飲み過ぎたって……、一口だけじゃない……」
 「───だから飲めないって言ったじゃない……」
 日頃の疲れもたまっていたのだろう、百恵は呂律の回らない口調でそう言うと、小さな欠伸をしたかと思うと、
 「ごめんなさい……」
 と言ったまま、小さな寝息を立て始めてしまった。
 呆れた菊池は、暫く手酌で飲み続けていたものの、堅い机に頭を置いて眠る百恵が可哀想になって、やがて机をずらして布団を敷いて、そこに彼女を寝かせたのだった。
 「まったく、お酒が弱すぎ……、この女性は……」
 その柔らかい身体に込み上げる情欲を押さえ付けながら菊池は苦笑した。そうしてまだ十時にもならない時計を見つめて、百恵に占領された部屋の片隅に机を移動して、つまらないテレビを眺めながら、いつまでもビールを飲んでいた。

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