(十三)忘れたい過去

 それから十月に入って間もなく、今度は菊池が「会いたい」と電話をくれた。なんでも、
 「明日から三日間の休暇がとれたので、高山村に点在する温泉巡りを計画した」
 と言う。加えて百恵に「聞きたい事がある」とかで、有頂天になった百恵はさっそく休暇を取ろうと試みたが、急な話でもあり、スタッフの勤務体制を組み直すことは難しかった。仕方なく「夜しか時間がとれませんが」と伝えたが、
 「ちょっと残念ですけど、コスモス園の方へも顔を出しますから」
 菊池は終始はずんだ声だった。
 その翌日、コスモス園に訪れた菊池は、日勤者の就業時間が終わるまで夢子に付き添っていたが、それから百恵を連れ出して、食事に出かけたのであった。
 「今晩はどこに泊まるのですか?」
 助手席の百恵は、菊池の横顔を見つめて言った。
 「高山温泉の宿に、今日と明日、予約を入れてあります。明日は一人で少し寂しいですけど、下から順に温泉巡りを楽しもうと思ってます。母も連れて行きたいが、温泉はちょっと厳しいでしょう」
 信州高山温泉郷は、北信濃須坂市の北東に位置する高山村、三方を山に囲まれた秋は紅葉の名所松川渓谷に沿って点在する六つの温泉の総称である。蕨温泉、山田温泉、松川渓谷温泉、五色温泉、七味温泉、奥山田温泉、それぞれに泉源を持つ湯は、もともとは元禄四年(一六九一)頃に建ち始めた小屋がもとになり、その後、江戸時代の中期に引き湯したりして、山に入って働く人達の疲れを癒す場として二百年もの歴史を持つ。一つひとつについて述べればきりがないのでやめるが、その湯の含有成分は硫黄、ナトリウム、カルシウム、塩化物などで、浴すれば体が温まり、神経痛、胃腸病、リウマチなどに高い効能があるとされる。証拠にそこを源流として流れ出る松川は、4phもの酸性度を持つ鉱毒水で、河川敷の石を赤く染め、がりょう山の脇を流れる百々川と同様、魚も住まない地元では“死の川”と称される二つの川のひとつなのだ。
 「いいなあ……。私も行きたいなあ」
 百恵が残念そうに言えば、
 「中には混浴の露天風呂もあるそうですよ。私も百恵さんと入りたかった」
 と高笑い。百恵は閉口して「エッチなんだ!」と彼の肩を叩いた。
 「ところで聞きたい事って?」
 信号機で止まったところで百恵が言った。
 「食べながらでもお話しします。さほど重要な話しでもありませんから……」
 菊池は嬉しそうに答えると、青に変わった信号の合図でアクセルを踏んだ。
 そうして入ったファミレスで、菊池は四人掛けのテーブルに百恵をエスコートしてから座ると、手にした黒いアタッシュケースの中から、無造作に幾つかの雑誌を取り出したのだった。百恵にとって忘れるはずもない、昨年の冬、浩幸とのスキャンダル騒ぎで取り沙汰されたものである。
 「入手するのにずいぶん苦労してしまいましたよ」
 菊池は笑いながら、百恵と浩幸が抱き合っているページを広げ、彼女の前に差し出した。百恵はしばらく言葉も見つからなかったが、やがて全てを諦めたふうに、
 「私のこと、嫌いになっちゃったかな……」
 と俯いた。
 「とんでもありません。───馬場さんの別れたご主人のこと、どうしても気になってしまって、悪いと思いながら調べさせてもらったんです。山口脳神経外科医院院長山口浩幸───。この人だったんですね、馬場さんのご主人って……」
 百恵は観念して頷いた。
 そこへ若いウェイトレスが注文を聞きにきた。百恵は何も言わなかったので、菊池は適当に二人分を注文した。
 「別れたというより死別したんだ……。そのご心痛、察します」
 「別に隠していた訳じゃないのよ……」
 菊池は静かに微笑んだ。
 「そんなことはどうでもいいんです。馬場さんの事が好きになればなるほど、私はただ本当のことが知りたかっただけなんだ。……ごめん、勝手に調べて……」
 百恵は小さく首を振った。
 「でも、よかった!」
 菊池は大きく背伸びをしながら言った。
 「山口浩幸という人と僕が似ていて……。さもなければ、馬場さんは僕に見向きもしなかっただろうね。おかしいと思ったんだ、馬場さんの私に向ける視線。四十も半ばの僕に寄ってくる女性なんて、所詮、お金目当ての下心を持っているものですが、馬場さんは違っていた……。そして私は、そんな馬場さんが好きになってしまったんだ」
 やがて二人の前にサラダとハンバーグが置かれた。
 「いただきましょ」
 菊池はそう言うと、再び高山温泉郷のことなどを話しながら、美味しそうに食べ始めた。百恵は口数も少なく半分上の空で聞いていたが、やがてフォークとナイフをハの字に置いた菊池はこう言った。
 「いいんですよ、馬場さん。私を山口院長だと思って。そうすることで馬場さんの心が慰められるなら、私は一生山口浩幸さんを演じてもいい」
 百恵は思わず涙をこぼした。菊池の優しさも嬉しかったが、それより浩幸の事を思い出し、一瞬のうちに心をかき乱したのである。
 「ごめんなさい……」
 百恵は慌てて化粧室へ駆け込んだ。
 そして鏡に映る自分の顔を見つめながら、出しっぱなしの水で勢いよく顔を洗った。

 できることならこんな過去、蛇口の流れる水と一緒に流してしまいたい。
 いっそ浩幸さんとの思い出はなかったことにして、このまま菊池さんの胸に飛び込みたい。
 そしたらどれほど楽になるだろう───。
 鏡に映った私の顔……。これが私の顔なの?
 下手な化粧を塗り重ね、顔色を隠して目つきも変えて、取り立てて何でもない普通の顔に、いったいいくつの色を重ねて、いくつの顔を作り出せば気がすむの?
 浩幸さんは私の本当の顔を知っている。
 でも、菊池さんは私の本当の顔を知らない。
 それでもいいと言ってくれたのに、私の心から浩幸さんは消えないの……。
 甘えてしまえ、甘えてしまえ。
 いつかきっと、浩幸さんを忘れたところで菊池さんを愛せる日がくる。
 彼は、きっとその日を待っていてくれるに違いない───。

 百恵は鏡の前で、一度洗い流した化粧を塗り替えた。
 「ちょっときつい顔になっちゃったかな……?いいや……」
 そう思うと、百恵は再び菊池の正面に戻って、食べかけのハンバーグを二口ほど食べた。見れば菊池は既に食べ終えて、コーヒーを飲みながら百恵が食べ終えるのを待っている様子だった。
 「ああ、もうたくさん!」
 百恵はフォークとナイフを右側に揃えて置いた。
 「もう食べないの?」
 菊池は半分も食べていない百恵のハンバーグを見て言った。
 「それじゃ、コーヒーを飲んだら帰りましょうか?」
 百恵は菊池の顔をじっと見つめていた。
 「ああ、またその顔だ。きっと山口院長の事を思い出してる……」
 百恵は目線をそらして「ごめんなさい」と言った。そして俯きながら、
 「菊池さん……。甘えてもいいですか?」
 菊池は静かに笑った。
 「いいですよ。馬場さんのためなら何でもしますよ」
 百恵は再び菊池を見つめ返した。
 「浩幸さんなら……」
 百恵は大きく躊躇したが、やがて、
 「浩幸さんなら私の残したこのハンバーグ、全部食べてくれる……」
 と言った。
 菊池はきょとんとした顔でやがて笑い出したが、百恵が真顔であることに、
 「なんだ、そんなことですか。容易いご用」
 と、百恵の残したハンバーグを勢い良く食べ終えた。おまけに飲みかけの百恵のコーヒーを手にすると、いっぺんに飲み終えて口の周りを拭いた。
 「これでいいですか?」
 百恵はニコリと笑った───。

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