(十二)真実の壁

 知り得た真実を浩幸に伝えようかやめようか、また、菊池に伝えようかやめようか、百恵はずっと考え込んでいた。やがて知らぬ間に季節は流れ、いつしか蝉時雨もコオロギの声に変わっていた。その間、何度か菊池にも会い、仕事でジャン=ジャックにも会ってきたが、いずれも喉まで出かかったものの、どうしても言えなかった。
 果たしてそれを伝えたところで何になるだろう───。完全に忘れ去られている過去を蒸し返したところで、悩むのは浩幸であり、菊池ではないか。それなら小松家の習いに従い、そのまま抛っておくのが二人にとって幸せな事ではなかろうか。
 ───ジャン=ジャックから内線で百恵に電話がかかってきたのは、そんな悩みの狭間で、スタッフルームから見える透き通った秋の空をぼんやり眺めていた時だった。
 「百恵さん、おめでとう。ずいぶん時間がかかってしまいましたが、今日の会議で、特養棟屋上に設置する遊園地の企画案が通りました。これで来年度予算に組み込まれます」
 「ほんとうですか!」
 百恵は悩みの事など忘れて思わず叫んだ。
 「ただ一箇所懸案事項がありまして、その相談をするために電話をしました。これからこちらに来れませんか?」
 百恵はジャン=ジャックに会うことに躊躇したが、二人で知恵をしぼりながら育ててきた企画だけに、断るわけにもいかなかった。そうして久しぶりに山口医院の院長室へと足を運んだのである。
 ジャン=ジャックはいつものように、机に向かって仕事をしていた。そして中に入ってきた百恵の姿を見ると、嬉しそうに接客用のソファに案内した。
 「コーヒーでいいですか?」
 「いいえ、おかまいなく……」
 ジャン=ジャックは何も言わずにコーヒーを百恵の前に置いた。そして、
 「実は───」
 と、企画書を指し示しながらその懸案を語りだした。こうして二人の最後の打ち合わせは三十分ほど続けられたのであった。そして懸案の結末をみると、ジャン=ジャックが笑いながら言った。
 「この企画を、百恵さんが最初に僕に話してくれた日の事を覚えてますか?」
 百恵はなぜそんな質問をするのだろうと、警戒の表情でジャン=ジャックをみつめた。
 「寒い日だった。僕は百恵さんに『見て欲しい所がある』と言われ、雪の降る特別養護棟の屋上に連れていかれたんだ。本当は術後の体であんな寒いところに長時間出るのは危険だったのだけど、僕は山口浩幸であることを隠すために、実は必死になって寒さに耐えていたんだよ……」
 百恵は始めて聞く話に警戒心を解きながら、
 「ごめんなさい。ぜんぜん知らなかったから……」
 と言った。
 「いや、責めてるわけじゃない。当然のことです───」
 ジャン=ジャックは自分のコーヒーを一口飲んだ。
 「『遊園地を作りたい!』って、あの時の輝く君の瞳が羨ましかった。実は特養棟の現実に、僕も君と同じところで頭を悩ませていたんだ。それをあの一言で、君は僕の心の靄をいっぺんに吹き飛ばしてくれた。遊園地の構想の中に、悩みの解決策があるかもしれないって……」
 「河上吾郎先生も言ってました。今の理想と現実のギャップは、浩幸さんでも悩むだろうって。それがあなたの成すべき仕事だったって。そして私たちの最大の宿題だって」
 「河上さんに会ったの?───」
 ジャン=ジャックは驚いて百恵を見つめた。百恵はつい口を滑らせて河上の事を言ってしまったことに、早くも後悔していた。
 「大丈夫。浩幸さんは死んだと思ってる。死人に口なしだって……」
 ジャン=ジャックは俄に笑い出した。
 「確かに僕は死人に違いない───」
 ジャン=ジャックの愉快な笑い声に、やがて百恵もほっと微笑んだ。
 「いや、ごめん。笑ってる場合じゃない。僕は百恵さんにお礼が言いたかったんだ。今後の特養棟の進むべき道に、確かな羅針盤を作ってくれたこと。ありがとう。心から感謝するよ」
 「そんな……、私はただ……」
 百恵は素直に喜んだ。そうして企画書をひとまとめにしたジャン=ジャックは、修正項目の記載されたページを、FAXでコスモス園に送信した。
 「来年の秋には完成するでしょう。遊園地に遊びに来る子どもたちの声が聞こえてくるようだ」
 ジャン=ジャックは目を細めた。
 「ところで……、河上さんのところへは何をしに行ったの?」
 「まずい……」と、百恵は口をつぐんだ。更に彼は意地悪そうに笑って言葉を継いだ。
 「おおよそ見当はつきますが……。あの菊池夢子さんの息子と、僕との関係を調べにでしょ?どうです、違いますか?───で、何か分かりましたか?」
 「い、いえ……、なにも……」
 焦った様子の百恵の言葉に、ジャン=ジャックは再び微笑んだ。
 「やっぱり百恵さんは嘘をつくのが下手だ。何かわかったんですね?」
 こうなるとジャン=ジャックの思うつぼだった。彼の巧みな話術に、どんどんぼろが出始めてしまう自分が情けなく思う百恵である。
 「ほ、本当に何も思い出せなかったんです」
 「思い出せなかった……?僕は『何か分かったんですか』と聞いた。『思い出せなかった』って、何を?」
 「だから、愛子さん…………」
 百恵は慌てて口をおさえた。
 「僕の母が何です?河上さんに、僕の母について何か聞いたのですね?」
 執拗に聞き出そうとするジャン=ジャックの巧みすぎる言葉が、百恵には憎らしかった。しかしジャン=ジャックにしてみれば、あれほど昔の自分に似ている男の存在に、関心を持たないほうがおかしい。あれ以来気になって気になって、一時も脳裏から離れないのである。しかも、百恵が彼に思いを寄せ始めたと知れば尚更の事だった。
 「ひょっとして、僕の母と菊池夢子さんとは何か関係があったとか……」
 百恵の視線が宙を泳いだ。
 「百恵さん、何か分かったのですね?いったい何を知ったのですか。僕は知ってはいけない秘密なのですか?」
 ジャン=ジャックの攻めは、隠し通そうとする百恵の誠実な心に、ズケズケと土足で上がり込むような野蛮さがあった。それが秘密を聞き出そうとするジャン=ジャックの手口ではあったが、百恵は思わず口走った。
 「そうよ!知ってはいけないのよ!」
 ジャン=ジャックは呆れ顔で、ふて腐れたような言葉で百恵をつっぱねた。
 「なんだ……。親族の関係を、第三者が知り得て、当事者の僕が知り得ないなんて、ずいぶんと安っぽい秘密なんだ」
 百恵は“第三者”という言葉についかっとなった。加えてジャン=ジャックの冷たい言い回しにすっかり乗せられた。「なんでわかってくれないの!」という思いは、彼への愛情を裏返したところの憎悪へと姿を変えていた。
 「そんなに知りたければ教えてやるわ!」
 百恵はすっかり理性を忘れていた。感情に任せて、伝えようかやめようか、あれほど悩み抜いた真実を、まるでおはじきでもはじくような軽々しさで、次の言葉を口から滑らせたのだ。
 「あなたのお母さんと夢子さんは双子の姉妹。そしてあなたと菊池さんとは異腹の兄弟!」
 瞬間、ジャン=ジャックの両目に放心の気配を認めたとき、百恵ははっと言葉を止めた。
 しまった───
 言い終えたままの口の形を残し、両目を見開いた彼女はしばらくはその表情を変えることができなかった。伝えてはならない真実に、とてつもない大きな罪悪感を覚えずにはいられなかった。
 秒針がどれほど移動したのだろう。やがて浩幸は、
 「そんなはずは……、ありません……」
 と、苦笑いを浮かべた。百恵は頭をうなだれて、とてもジャン=ジャックの顔を正視できない。
 浩幸も敏感だから、殊百恵に対しては、嘘を言っているのか本当を言っているのか、判断するのに誤ることはなかった。やがて真実を受け入れた彼は、
 「ほんとうなんですね……」
 と、大きなショックを隠せない様子であった。
 「話していただけませんか?その話をつきとめた経緯を……」
 先程の、百恵を挑発するような話し方とは打って変わって、ジャン=ジャックはいつもの口調に戻って静かに百恵を見つめた。観念した百恵は、やがてゆっくりその経緯を話し始めたのである。河上の家へ行ったところから、小布施の小松旧家で夢子が全てを思い出したところまで……。
 「ちょっと待ってください。あのアルツハイマーの菊池夢子さんが、昔の事を思い出して、話をしたというのですか?」
 「はい───」
 「信じられません……。アルツハイマーはその進行を遅らせることはできても、現代の医学では改善させることは不可能です。そんなことはありえません」
 「私の他に証人もいます。現在小松旧家に住んでいる岩崎あやさんという方です」
 ジャン=ジャックは眉間にシワをよせた。そして再び黙り込んで、最後までその話を聞いたのだった。
 暫くは二人とも無言の時間を過ごした。
 やがて、ジャン=ジャックが神妙な顔付きで言った。
 「もし、その話が本当だとしたら、僕はいままで兄がいることを知らずに生きてきた事になる。いったい何の巡り合わせなのか。いっそのこと彼を殺して、あの身体をいただきたいくらいだ……」
 百恵はジャン=ジャックが怖くなった。
 「冗談ですよ。小心者の僕には、きっとそんな恐ろしいことはできません」
 百恵は安堵して微笑んだ。
 「彼のこと、好きになったのでしょ?」
 百恵は何も言わなかった。
 「僕は百恵さんを苦しめた。でも僕と一緒にいれば、もっと苦しめてしまうと思った。もし、僕の兄かも知れない菊池さんの息子さんと幸せになれるのなら、僕は心から祝福します。でも、兄と一緒になって貴方が苦しんだとしたら、僕は本当に彼を殺すかもしれません……。僕はもう、貴方の涙は見たくない」
 「浩幸さん……」
 「どうか、幸せになって下さい……」
 百恵は言葉を失って、小さく笑っただけだった。

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