(十一)懺悔〜結婚前夜

 「わたしには、何千回懺悔したって償えない、愛子姉ちゃんには絶対許してもらえない大きな罪がある。そいつを背負って今まで闇の中を生きてきた。でも、これを話せば、わたしはもう、楽になれる……」
 夢子の目の涙が、顔の深いシワに沿ってこぼれ落ちた。

 病の龍二は、いくつもの病院を経て、やがて再び自宅療養をするようになった。家族にもう成す術はなかった。
 そんな時、三十代半ばの人の良さそうな医者が、家に出入りするようになったのである。当時さえない山口医院を経営する山口正夫その人であった。夢子が正夫を最初に見かけたのは、往診を終え、まさに玄関を出ようとしたその時だった。龍二の言いつけ通り、洋裁学校に通いはじめていた彼女が、その日の学習を終えて家に帰って来たときにばったり出合ったのである。いねに「医者の山口先生よ」と紹介されてすかさず「こんにちは」と言ったが、その時の正夫の笑みを見たとき、家出していた六ヶ月間、同棲していた男の顔を思い出したのであった。別に顔が似ていたわけではないが、その目の細め方が、同棲の男が夢子に愛の言葉を囁いた時の微笑と重なったのだ。結局その男には捨てられ家に舞い戻ったわけだが、夢子の中ではけっして消えることのない男であった。その時から、夢子にとって正夫は、自分を捨てた男の代わりとして、心で大きな存在へと成長していくのである。
 正夫の往診はほぼ毎日のように続いていた。
 通常、その脇にはいねが座って正夫の言う診断の話を聞いていたが、いねがいない時にはその替わりを愛子が務めていた。加えて龍二は夢子を認めていなかったから、彼女にその役割が回って来ることは皆無であった。
 夢子は正夫に対して抱いていた恋愛感情を誰にも相談することができず、その気持ちを押さえ付けながら、いつも遠くで彼の姿を見つめていたのであった。
 「きっと結婚しているに違いないわ……。わたしみたいな子ども、相手にしてくれるわけない……」
 そう思いながら、龍二が快復してからも、話す機会など一度もなかったのである。
 ある日、思いあまって正夫のことを、愛子に尋ねてみたことがある。
 「お姉ちゃん、山口先生ってどんな人?」
 愛子はそんな質問をする夢子に首を傾げながら、
 「とっても優しい人よ」
 と答えた。
 「結婚してるの?」
 「さあ……。どうして?」
 愛子の方は、毎日の生活が忙しく、夢子の恋愛感情に気付く余裕もなかった。そして正夫自身も、単なる患者の家庭という以外は、年の離れた娘に少しの関心も示さなかったし、そんなことよりどうすれば龍二の病気が治るかだけで頭がいっぱいだった。薬の服用について、食事について、生活習慣について、龍二に関する細かい看病の指示の話はするも、互いの私生活については愛子も正夫もまるで無頓着であったのだ。だから最初に顔を合わせただけの夢子の存在なども、歯牙にもかけないというより、すっかり忘れていたに相違なかった。
 「どうして?」と言われて夢子は答えに窮した。やがて、
 「なんでもない……」
 と、部屋を出ていくのであった。
 龍二の病気が治り、愛子と正夫を結婚させようという話が出たときは、さすがに夢子は驚いたし悲しんだ。まさに瓢箪から駒の話の展開だった。
 「なんでお姉ちゃんばかり───」
 この思いはやがて嫉妬に狂う夜叉となり、正夫と愛子の結婚前夜にとんでもない行動となって顕れるのである。
 果たして見合いの日取りが決まって、美しい着物を纏う愛子の姿を見たとき、夢子は愛子を恨んだ。双子の姉弟の血は、その感情をそのまま愛子に伝えたのだった。
 「やっぱり夢子、山口先生の事が好きだったのかなあ……」
 愛子は心の中でそんな事を思いながら、それでも龍二が決めた縁談を考え直す訳にもいかなかった。それどころか見合いが済んで、何度か正夫と会っているうちに、その人柄と優しさにどんどん吸い込まれていく自分をみつけたのである。
 「僕は愛子さんの事を愛しているよ。でも僕は、本当に貧乏なやぶ医者だ。結婚したらきっと愛子さんはたいへんな苦労をすると思う。それでも僕の妻になってくれるというのかい?もし、お父さんが言うから僕と結婚しようとするのなら、それは返って僕にとっても苦しみの種になる。結婚する前に、そのことだけははっきりさせておかないといけないんだ。正直に言ってほしい。本当にこんな僕でいいのかい?」
 数ヶ月後に結婚を控えたある日、どこだったかある喫茶室でソーダ水を飲みながら正夫が冷や汗を垂らしながらそう言った。愛子は既に誠実な正夫をすっかり愛しきっていた。いまさら父親がすすめた話であったことなど関係なかった。
 「ふつつかな女ですが、末長くよろしくお願いします」
 正夫は満面に笑みを浮かべてソーダ水を飲み干した。
 貧乏暇なしとはよく言ったもので、正夫は毎日往診、往診で、愛子とゆっくり会っている時間もとれなかった。そんな調子で瞬く間に月日は経過し、結婚式の打ち合わせもろくにできないまま、やがて結婚前夜を迎えたのであった。

 昭和三十九年八月二十七日の午後七時頃だったか───。
 この年は十月に東京オリンピックを控え、首都高が開通したり、東海道新幹線が開通したり、モノレールの運行が始まったりで、まさに高度経済成長の日本を象徴するような年でもあった。ラジオからは坂本九の『明日があるさ』や『幸せなら手をたたこう』などの明るいメロディーが流れ、誰もが少し浮かれ気分で生活を送っていた。明日結婚を控えた愛子は尚更だった。その喜びの心は話をしなくても伝わってくる。夢子はその様子がしゃくに障ってラジオのスイッチを入れれば、すっかり流行りのその曲が流れていた。

 ♪いつもの駅でいつも逢う セーラー服のお下げ髪
  もうくる頃 もうくる頃 今日も待ちぼうけ
  明日がある 明日がある 明日があるさ

  ぬれてるあの娘コウモリへ さそってあげよと待っている
  声かけよう 声かけよう だまって見てる僕
  明日がある 明日がある 明日があるさ

  今日こそはと待ちうけて うしろ姿をつけて行く
  あの角まで あの角まで 今日はもうヤメタ
  明日がある 明日がある 明日があるさ
     (『明日があるさ』作詞・青島幸男/作曲・中村八大)

 その音楽に合わせ、愛子が口ずさみ始めたので、尚更面白くない夢子はラジオを切った。
 「いけない!正夫さんに届ける物があったんだ!」
 愛子は急に思い出したように立ち上がると、正夫へ電話をかけに部屋を出た。そして間もなく戻って来たかと思うと、『明日があるさ』を口ずさみながら、俄に化粧をはじめた。
 「お姉ちゃん、どうしたの?」
 「明日の結婚式に使うハンカチ。正夫さんにアイロンがけ頼まれていたの」
 「もうこんな時間だよ。これから行くの?」
 「なんだか不安だしね。最後の打ち合わせ」
 そのはずむ声に、夢子の嫉妬の炎がめらめらと燃えあがった。もとを正せば、最初に正夫を好きになったのは自分ではないか。それを横取りして、明日は自分の目の前で幸せの姿を見せつけるのだ。
 許せない───。
 愛子なんかに正夫を取られてたまるものか!
 そう思った途端、夢子は密かに立ち上がると、台所の冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しコップに注ぎ、中に大量の睡眠薬を溶かし込んだのだった。もとより愛子がオレンジジュースを好んでいたのを知っての事である。
 「お姉ちゃん、落ち着かないのは分かるけど、慌てすぎ。頬紅が変よ。これ飲んで、少し落ち着いて───」
 「夢子、ありがとう!気が利くわね」
 愛子は化粧を途中でやめると、夢子からオレンジジュースのコップを受け取り、疑いもせず一気に二口ほど飲んだ。
 「あれ?なんか味、おかしくない?」
 「そんなことないわ。今、冷蔵庫から持って来たんだから」
 「そう?」
 首を傾げた愛子だったが、再び化粧を始めたかと思うと、ものの十分もしないうちに死んだように眠ってしまったのである。
 それを見計らった夢子はほくそ笑み、愛子の洋服とスカートをはぎ取ったかと思うと、自分が来ていた物を脱ぎ捨て着替え、愛子の腕と足を紐で縛り付け、喋ることができないように口にもタオルを巻き付けて、そのまま押し入れに投げ込んだのであった。そして正夫に届けようとしていた白いハンカチをつかむと、勢いよく家を飛び出したのである。
 果たして正夫の住む山口医院へ着けば、正夫はおもてに出て、愛子の来るのを待っていた。
 「わざわざ悪かったね。夕飯は?」
 「もう済ませてきました」
 「そう。いよいよ明日だね。なんだか僕も落ち着かなくて……。ちょっと寄っていかない?打ち合わせもあるし」
 夢子は正夫にハンカチを手渡すと、そのまま彼の後について家の中に入り込んだ。正夫はまさか夢子が愛子に成り代わったとは気付くはずもなく、そのまま部屋の方へと案内したのだった。
 新婚生活に備えて、部屋はすっかりリフォームされていた。テレビはもちろん、キッチンには冷蔵庫もあるし、洗面所には洗濯機、その他、食器棚や小さなソファーまである。夢子は真新しいそれらに触れながら、
 「みんな新品じゃない!高かったんじゃないの?」
 と言った。
 「すべて吾郎君からの借金さ。これから苦労をかけると思うが、よろしく頼みます」
 夢子は静かに微笑んで見せた。
 「それより愛子さん、カフェでも飲むかい?患者さんからお祝いでいただいたんだ」
 「いただきます」
 そうして正夫はお湯を沸かすと、コーヒーの香りを漂わせながら二人分のコーヒーをたてて、テーブルを挟んだ向かいに座るとその一つを夢子の前に置いた。夢子は正夫の顔をじっとみつめていた。
 「さて、明日の事だけど───」
 「正夫さんにすべておまかせします」
 正夫は密かにドキリとした。愛子がはじめて自分の事を「正夫さん」と呼んだからだ。それに先程から自分を射るように見つめる妖艶な表情に、目のやり場にすら困っていたのだ。
 「どうしたんだい?愛子さん。今日はなんだかいつもと様子が違うようだ……」
 「だって、今日は独身最後の日でしょ。結婚前の正夫さんの顔をしっかり覚えておきたいの……」
 夢子はそう言うと、正夫の脇にすり寄った。そして彼の胸に顔をうずめたのだった。正夫の心臓はみるみる高鳴った。
 「い、いけないよ、愛子さん……」
 夢子はそのまま正夫を後に押し倒すと、じっと正夫の顔を見つめた後、静かに接吻した。正夫は途端に理性を失って、愛子と信じる女の躰を激しく抱き返したのであった。

 ちょうどその頃小松家では、急に姿の見えなくなった二人の娘に気付いて大騒ぎになっていた。
 「姉妹で生活するのも今日で最後だから、その思い出に二人でどこかに出かけたのだろう」
 とも考えたが、時計は夜の十時近くになっているし、門限八時の厳しい家庭で、愛子が親に何も言わずに出ていくことなど考えられなかった。
 家には親戚縁者が集まっているし、その場に当事者の愛子が顔を出さない事は、龍二にとっては許せない事に違いなかったが、逆に愛子の事だけに心配になった。
 「母さん、ちょっと外を探してくる」
 龍二はそう言うと外に出ていった。一方いねは家の中をくまなく探し、まさかと思って双子に使わせていた部屋の押し入れを開ければ、中に紐で縛られた下着姿の愛子を見つけたのだった。
 「愛子!」
 思わず叫んだいねは彼女を抱きかかえると、静かな寝息をたてていることに安堵した。そして手足の紐をほどくと、化粧台の上に置かれた飲みかけのオレンジジュースを見つけ、においを嗅いだり舌をつけたりして確認した。
 「睡眠薬……!?」
 龍二が病気になって以来、睡眠薬は小松家の常備薬となっていたから、家にあることに不思議はなかったが、夢子の姿が見えない事に、いねは大きな疑問を抱いた。
 そしてその頃、外に出た龍二は、家のある雁田と山口医院のある蛍ヶ丘の中間辺りに位置する松川の橋のたもとで、向かいから歩いてくる男女の姿を見つけたのだった。
 「愛子……。山口先生……」
 暗がりで愛子の服を着た夢子に、親の龍二でさえ気付かないでいた。
 「愛子!どこに行っていたのだ!ずいぶんと探しまわったのだぞ!」
 「すみません、お父さん。明日の打ち合わせとかで、僕がこんな時間まで引き留めてしまいました。どうか愛子さんを叱らないでやって下さい……」
 と言いながら、正夫の心は父親に対して大きな引け目を感じていた。たった今さっきまで、その娘を抱いていたのだから……。
 「いえ、先生には罪はございません。愛子の奴がいけないんです。さっ、帰るぞ!親戚の方達が首を長くして待っている!」
 龍二はそう言うと、正夫に深くお辞儀をして帰っていった。正夫はその父娘の姿が見えなくなるまで見送っていた。
 道中、二人は無言だった。夢子は心の中で、自分を愛子と信じる実の父親の事をせせら笑っていた。
 結局、自分と愛子姉さんの見分けもつけない父親か───。
 と。
 こうして家に辿り着いた龍二は、家の中にいたもう一人の愛子の姿を見て言葉を失った。そして自分の後について今まで一緒に歩いていた娘が夢子であった事を知るのである。みるみる顔を紅潮させ、怒髪が天を突く勢いの奇声が家の外まで響いた。
 「何をした!夢子!!お前は今まで山口先生と何をしていた!!」
 夢子は余所を向いて知らぬ素振りで、
 「いいじゃない、そんなこと───」
 と、ぶっきらぼうに答えたのである。
 刹那、龍二の力任せの平手打ちが飛んだ。夢子の体が吹っ飛んだ。
 「勘当だ!!即刻この家を出て行け!!二度と帰ってくるな!!」
 夢子は龍二をきつく睨み付けると、何も言わずに家を飛び出した。夢子の数奇な人生は、そこから始まったのである。行く宛もなく、やがて流れ着いたのが東京だった。その子宮の中に、正夫との関係で育ち始めた新しい生命を宿して───。
 その翌日、正夫と愛子は結婚したが、結婚前夜のこの出来事は、二度と再び開けてはならない棺箱に閉じこめて、小松家の永遠の秘密として葬り捨てたのであった。

 全てを語り終えた夢子は、安らかな表情をして静かな息を吐いた。
 「ごめんなさい父さん、母さん───。ごめんなさい、愛子姉さん───」
 そして懐かしそうに家の周辺の景色を見回した後、百恵の顔を見つめ静かに笑った。そうしてそのままの表情で、再び瞳の光を失ったのであった。
 「夢子さん?……夢子さん……?」
 もはや夢子は、再び何も言わない痴呆老人に戻っていた。
 以来夢子は、「田舎に帰りてえ」という言葉を二度と言うことはなかった。

 夢子さん、家族に謝りたかったんだ……。

 コスモス園に戻って、以前とは違うどことなく晴れやかな夢子の表情を見つめるとき、百恵はそう思った。そして明らかにされた真実を考えながら、夕日の沈む北信五岳をじっと見つめた。

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