およそ信じられない出来事だった。
痴呆で全てを忘却したはずの夢子が、まだ幼かった時の記憶を、まるでVTRに録画してあるかのように克明に語りだしたのである。人間とは想像を絶する可能性を秘めた生き物であることを知らねばなるまい。
昭和二十四年───。
夢子六歳、小学校一年生の夏休み。その時あやは四歳だった。
戦時中、東京を焼け出された者達は、遠い親戚を頼って田舎へ疎開していた。あやの一家もその一つだった。当時の都住村(現小布施町)の小松家に越していたあやの母親は、終戦の年にあやを産み、その後まもなく東京へ帰って行った。終戦間もない日本の、誰もが貧しかった時代である。
それから四年が経過して、なんとか東京での生活をたて直したあやの一家は、その年の夏、戦時中のお礼にと、大きな手土産を持って小松家に挨拶に訪れたのであった。その時のあやは覚えたての言葉をもてあそぶ無邪気な四歳。二つ年上の小松家の二人の娘と友達になるのに造作もなかった。
小松家の二人の娘は双子であった。姉が愛子、妹が夢子である。
父の龍二は厳格で、いわゆる当時の日本の父親を象徴するような堅物人間、地域の名主であったことは前述した。一方母のいねは良妻賢母を絵に描いたような人柄で、祖父母の代から小松家といえば軍国日本の模範の家庭と称されたほどのお堅い家風を持つ家柄だった。
そしてそこに生まれた愛子と夢子の一卵性双生児。背格好も同じなら性格も同じ。目、鼻、口の形も同じければその位置に寸分の違いもなかった。だから近隣の人はもちろん、親さえ間違うほどであったが、僅かに違った点があるとすれば趣味趣向で、姉の愛子はどちらかというと家の中で人形などを使ってままごとをするのが好きで、妹の夢子の方はどちらかというと男の子と一緒になって外で身体を動かして遊ぶのが好きだった。
父の龍二は根っからの古い考えの持ち主で、昔ながらの、“男は男らしく、女は女らしく”という方針だったから、そんな二人の様子を見て、愛子に対しては何も言わなかったが、夢子の男勝りな部分に対してはあまり好意的には思っていなかった。そのような家庭にあやはある日やってきて、一週間ほど滞在していったのである。
すぐに仲良くなった三人は、最初の一日二日は家の中でままごとや双六などをして遊んでいたが、次第に飽いてきた夢子は三日目になって、
「お外で遊ぼう!」
と言い出した。そのとき龍二は用事で家にはいなかったし、母のいねとあやの母とは、台所で雑談をしながら食事の準備などをしていたので、子どもたちの遊びの様子を見る者などなかったのだ。
「だめよ!おうちの中で遊びましょ。お父さんに知られたらきっと怒られるわ」
愛子が言った。
「それならお姉ちゃんだけおうちの中にいればいい!」
夢子が言うと、あやもお外に出たくて、「行こう、行こう」とはしゃぎだす。そうして夢子はあやの手を引き、愛子を置いて外に出てしまったのだった。
性格の違いはその頃から明らかになりはじめていた。愛子には龍二の言いつけを破ることはできず、夢子は自分の思うがまま、自由奔放な行動が目立つようになっていたのだ。
愛子は縁側のガラス越しから、二人の楽しそうな姿を横目で見ながら、一人で人形ごっこをするしかなかった。
「つぎは何をやろうか?」
外でさんざん鬼ごっこやめんこなどで遊んでいた夢子があやに言った。
「そうだ!ベーゴマやらない?」
夢子はそう言うと、どこに隠し持っていたのか三つのベーゴマと紐を持ってくると、あやにその使い方とまわし方を教えはじめた。そしてしばらくは、きゃっきゃと言いながら楽しそうな声が響いていたが、一人淋しく家の中にいた愛子がひとつ小さなため息を落としたとき、
ガチャーン!!
と、大きな音がした。
見れば縁側のガラス戸が割れて、綺麗なガラスの破片がそこらじゅうに散らかっていた。夢子の回そうとしたベーゴマが手からすっぽぬけて、そのままガラス戸を直撃したのだった。
驚いた愛子は、割れたひびの向こう側の二人の様子をじっと見つめていた。母親達はその事件にまったく気づいていない。
「いけない!どうしよう……!」
蒼白になった夢子は周囲を四顧すると、あやの肩に手を置き、
「いい、だれにもないしょよ!」
と言うと、近くに転がっていた空き缶を見つけると、中に三つのベーゴマを閉じこめ、そのまま縁側の下の土の中に埋めてしまったのだった。
四歳のあやにとってガラスの割れる大きな音はよほど衝撃だったに違いない。大人になってから、その頃の記憶のほとんどは忘れていたが、その時の場面だけは何かの縁に触れて鮮明に思い出す可能性を残したのである。
「いい?ほんとに誰にも言わないって約束!わかった?」
「うん。あや、だれにもいわないよ」
「友情の証!言ったらもう、遊んであげないから、わかった?」
その強い口調に、あやは半泣きになりながら頷いた。
その一連のやり取りの中、愛子は破片で指を切りながらその片づけをしていた。そして夢子はその姿をじっと睨み付けた。
「な、なあに?」
強い視線に耐えかねて愛子が言えば、
「お父さんには絶対言わないでよね!」
と、夢子の瞳の中に夜叉の光があった。愛子は怖くなって何も言えなかった───。
そうして龍二が帰って来たとき、割れたガラス戸を見つけて大声で怒鳴ったのである。
「誰だ!ガラスを割ったやつは!」
夢子と愛子とあやは、暫く父の前で正座させられ、きつい説教を聞くのであった。と、
「わたしたちじゃないわ!どこかの男の子が投げた石が当たって割れたの」
と夢子が白を切る。愛子は夢子の横顔を見つめた。
「本当なのか?」
今度は龍二が愛子に問いただす。愛子は戸惑いながら、
「うん……」
と答えた。
「どこの男の子か?」
愛子はすっかり俯いたままになってしまった。
「石を投げて、すぐに走って逃げてしまったので、誰だかは分からなかった」
夢子の嘘はどこまでも続いた。そうして事の事情を納得した龍二は、
「次に来たときはしっかり顔を覚えておきなさい」
と言って、その日はそれでおさまったのである。
小松家ではこのような事が度々あった。一度だけならまだしも、二度三度と重なると、夢子の巧みな嘘のメッキもだんだん剥がれ落ちてくるものである。さすがに親だけに嘘を追求する事だけはしなかったが、夢子に対し「おかしい……」と不審を持つのも当然だった。
ある時は愛子と夢子に買い与えられた同じ布の人形が、愛子の物だけなくなってしまったことがあった。数日して、庭の畑の片隅にボロボロになって捨てられているのをいねが発見したが、その時も誰が何の動機で捨てたのか結局分からず終いだった。またある時は学校で、クラスが違っていた二人であるが、ある日夢子が「教科書を忘れた」と言って、愛子に借りに来たことがある。ところが、返された教科書にはひどい落書きがされていた。龍二が「どうしたのか?」と問えば、「クラスのいじめっ子にやられた」と夢子は平然と答える。学校の担任に問い合わせてみても、結局真犯人は出てこなかったということもあった。よくよく問いつめていくと、やがて夢子の言葉の中に小さな矛盾が出てくる。龍二もいねも、やがて夢子の仕業であることを薄々感じていく。実は龍二自身も気づいてなかったが、女の子の遊びを好む愛子に愛情を傾けて、“女の子のくせに”男の子と遊ぶ夢子には放任的に接していた態度が、やがて夢子の中で嫉妬へと成長していったものに違いない。
そして次第に、典型的な性格の違いを持ち始めた二人だったから、学力的にもやがて大きな差が出始め、そうなると龍二はますます愛子を可愛がり、夢子に対しては半分諦めた態度を示すようになっていったのであった。
「見た目はまるで同じなのに、この違いはいったい何なのか……?」
龍二といねの専らの悩みはそれだった。
やがて義務教育を終え、同じ高校に通うその卒業を控えた小松家では、その時期、進学についての話を始めていた。小学校の教諭を志望していた愛子は、大学への進学を希望したが、夢子の方は、将来についてさほど考えもしていなかった。その時言った龍二の言葉もいけなかった。
「それなら愛子は希望通り大学に行くがよい。しかし夢子には将来何になろうという希望がないのだから、洋裁学校にでも行って、暫く花嫁修業でもしていなさい」
「なんで、お姉ちゃんきり!」
そう叫ぶと、夢子はそのまま家を飛び出して、どこに身を置いたのか、それから半年ほど家には帰ってこなかった。龍二と夢子の心の溝が一層深まった小松家にとっての大きな事件である。
龍二が体調を崩し、病に倒れたのは、愛子が大学に行き始めて間もなくの事だった。しばらくは、休職をやむなくされた龍二をいねが必死に支えていたが、家の所有する田畑は広く、とても女ひとりの労働力では足りなかった。
「愛子を呼び戻せ」
苦しそうな咳をしながら龍二が言う。
「でも、せっかく大学に行ったのに……。愛子より夢子を……」
いねはそう言ったが、
「あんなやつは駄目だ!この小松家一大事の時に、どこぞに姿をくらませているような奴は信用ならん!愛子を呼べ!」
そうして愛子は最高学府修得への道を、断念せざるを得なかったのである。
その後愛子は家庭に入り、龍二の看病やら畑の手伝いやらをはじめたが、それから間もなく、夢子がのこのこと家に帰って来たのであった。
「なにしに来た!」
夢子の姿をみた龍二の最初の言葉がこうだった。この時も夢子の瞳に夜叉の光が宿った。
しかし、その疲れ果てた姿の中で、恋に破れ、行き場を失った妹の悲しみを愛子に伝えたのは、まったく同じ身体に流れる血の成せるテレパシーのようなものだった。夢子のせいで大学を断念したこと、龍二が重い病で苦しんでいること、いねがその間必死で家庭を支えていたこと、言いたい事は山ほどあったが、その姿を見たとき、愛子には何も言えなかった。
こうして四人の家族は、龍二を看ながら、再び同じ屋根の下で生活をはじめたのである。
ここまで話すと、
「わたしはほんとにいけない娘だったよ───。ほんにあやちゃんには悪いことをしたねえ……」
車椅子の夢子は遠くを見つめて呟いた。
すっかりお婆ちゃんになってしまったあやは、
「そうだ、そんなこともあったっけなあ……」
と、夢子を見つめて懐かしそうに微笑み続けていた。
「ずっと謝ろうと思いながら、今になってしまったよ……。ほんとにごめんなあ」
力なく座る夢子の目に、涙がたくさんたまっていた。