(九)小布施にて

 山口医院には現在三人の医師がいる。ジャン=ジャックと西園と伝田強志の三人だが、伝田については話の進展上深くは触れてこなかった。
 三十前後のまだ若い医師だが、医大を卒業してすぐに同医院に就職してきた逸材である。浩幸が不慮の事件に再起不能となり、西園が彼のドナー探しに没頭している際も、伝田がいたからこそ医院の業務を継続できたことは言うを待たない。常に院長浩幸と理事西園の陰となり、縁の下の力持ちとして院長及び理事の片腕となり、足となって働いてきた功績は大きい。小柄な体つきをして、眼鏡をかけた無口な一見頼りなさそうな風体だから、いつも西園の大きな身体に隠れて目立ちもしなかったが、殊、ジャン=ジャックが院長となってからは、同年代の医師に対する良きライバル相手との自覚を持ちながら、その頭角を現しはじめていた。性格は非情に穏やかで、愚痴も言わずにコツコツと業をこなすタイプで、医院のなりゆきやコスモス園の経営についても、自分の意見こそ言わないまでも、彼なりにじっと観察してきた一人である。
 その日は、その伝田が特養棟診察の当番になっていた。百恵にとっては、夢子を小布施に連れて行くための外出許可を得てみようと考えていた日でもあった。
 終始口数も少なく、黙々と診察を進める彼に付き添いながら、百恵と二人はやがて夢子の部屋にやってきた。
 「夢子さん、診察ですよ……」
 百恵の言葉に反応する様子もなく、夢子は相変わらずベッドに横たわったまま、ガムでも食べているかのように口を動かしながら天井を眺めていた。百恵はさっそく夢子の上半身を起こすと衣服のボタンを緩め、伝田に「お願いします」と言った。
 「最近の様子はどうです?」
 伝田は聴診器をあてたり、夢子の腕や肩を触りながら聞いた。
 「ここ数日はだいぶ落ち着いていて、食欲も旺盛です」
 「少し精神安定剤の分量を控えてみましょうか」
 そう言いながら伝田はカルテに書き込んだ。
 「もし異常を認めたら、もとの分量に戻してください」
 「はい」
 百恵はそう言うと夢子の衣服を整えはじめた。と───、
 「田舎に帰りてえ……」
 視線は伝田の方に向いていたが、その焦点が定まらずに夢子はぼそっと呟いた。
 「おばあちゃん、田舎に帰りたいの?」
 伝田が言った。
 「田舎に帰りてえ……」
 「そうだよね。田舎に帰りたいよね」
 伝田の言葉には上の空で、夢子は三度同じ言葉を繰り返した。百恵はチャンスとばかり、
 「先生、今日この診察が終わったら、夢子さんを小布施に連れていってはいけませんか?」
 と言った。
 「外出ですか?そうですね……。天気もいいし、あまり長くならないようでしたら、問題ありませんよ。たまには外の空気に触れさせてあげて下さい」
 「ありがとうございます!」
 そうして外出許可を得た夢子と百恵は、雑用専門の大川に車の運転を頼んで、午後のひと時を小布施町に向かったのであった。

 須坂市北側に隣接する小布施町は、葛飾北斎ゆかりの地として、また栗の里として、その活気あふれる町づくりは近年全国的にもその認知度を上げている。もっとも百恵が幼少の頃の小布施町は、単に北斎の肉筆画を展示する北斎館を所有し、いくつかの栗菓子製造企業がしのぎを削るだけの、取り立てて注目に値する町ではなかったが、昭和五十七年(一九八二)にスタートした『街並み修景事業』を皮切りに、町民、行政、企業が一体となって、『古い物に価値がある』との一貫した町づくりは、いまや全国模範の町へと成長を遂げた。目にする建物はすべて景観を配慮しながら建設され、ことに北斎館を中心とする国道四〇三号線沿いは細い道路ながら、平日でも観光バスの出入りの著しい活気あふれる町となったのだ。いくつものミュージアムや美術館は、そのほとんどが民営によるもので、その文化水準の高さも瞠目に値する。行政に疎い百恵でさえ、近年この町を通るたび、須坂市との違いは一体何なのかと考えたりするほどなのだ。
 その町の東、雁田山のふもとに岩松院はひっそりとある。北斎の鳳凰八方睨みの天井絵はもとより、かつては小林一茶もここに訪れ、
 『痩せ蛙まけるな一茶これにあり』
 と、文化十三年(一八一六)四月に、病弱な自分の子ども千太郎への命乞いの句をうたったとされる。また近くには、戦国武将の福島正則の霊廟もあったりで、歴史的にも極めて価値の高い場所のひとつであろう。
 果たして、岩松院近くの路上に車を止めた大川は、夢子の車椅子を降ろすと、
 「じゃあ、俺は車で待機してるっす」
 と言うと、さっそく運転席のシートを倒してラジオの音量をあげた。
 「仕事中よ。忘れないでね!」
 百恵の言葉に「分かってますって!百恵先輩こそ、気を付けてくださいね!」と、愛想良く返事を返したのだった。
 こうして百恵は車椅子を押しながら、岩松院の参道をゆっくり歩き始めた。
 「夢子さん、ここは夢子さんの田舎よ。あんなに帰りたがっていた小布施の町よ……」
 何も答えない夢子だったが、心なしかその瞳は微笑んでいるように見えた。
 そして無言の二人は八方睨みの鳳凰を見学し、寺の周辺をゆっくり歩いてみたが、夢子は何も言わずに車椅子に揺られるだけ。百恵はそのまま、先日お邪魔した小松家の旧家まで足を伸ばした。
 『岩崎』と名の変えた門前に立ち、百恵は、
 「夢子さん、覚えてなあい?ここ、もしかして、夢子さんの生まれた家じゃない?」
 と言った。しかし夢子は相変わらずうつろな瞳で空間を見つめるだけで、やがて百恵は大きなため息を一つ落とすと諦めて、大川の待機する車に引き返そうと車椅子を反転させた。
 そのとき、
 「この間の方じゃなあい?」
 その声に振り向けば、先日お茶をご馳走になった健康そうな農業婦人が立っている。
 「ああ、先日はありがとうございました」
 百恵は笑いながら頭を下げた。
 「お茶でも飲んで行かない?」
 婦人は相変わらずの気さくな態度でそう言った。人が来たら当たり前のようにお茶を出し、同じ茶殻で何倍もお茶をくみ交わしながらいらぬ世間話を続けるのは、ここ信州北信地方の習わしであり、時代とともに次第に姿を消し行く人間社交の美しい場面である。
 「今日は遠慮しときます」
 そして車椅子の夢子に気づいた婦人は「この方は?」と聞いた。
 その時である───。
 俄に夢子の瞳が光を取り戻したかと思うと、
 「あやちゃんじゃねえか?」
 と、口を聞いたのは。
 百恵は唖然と夢子の表情を見つめた。血色を取り戻し、焦点の定まった目つきは、それまで一緒の時間を過ごしていた夢子とはまったくの別人だった。
 「やっぱり、あやちゃんだ───」
 言われた当の本人は、自分の名前を知る見知らぬ老婆に困惑するだけだった。
 「ほれ、あたしだよ。夢子だよ!」
 あやちゃんと呼ばれた農業婦人は、苦笑いを浮かべながら何も思い出すことができない。
 「ほうれ、縁の下に一緒にベーゴマ埋めて隠したじゃないかい。あたしとあやちゃんの友情の証に!」
 「ベーゴマ……?どこに?」
 百恵は慌てて婦人の許可を得て、夢子の言うところの縁の下の土を掘り起こして見れば、錆びて朽ちかけた缶の中から、夢子の証言通り三つのベーゴマが出てきたのである。驚愕しながらベーゴマを手にした婦人は、みるみる表情を変えて、
 「……夢ちゃん!?」
 と大声をあげたのだった。

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