浩幸と菊池は腹違いの兄弟───。
仕事も手に付かないような大きな疑惑は、百恵の脳裏にずっとこびりついて離れなかった。
河上の話によれば、正夫は六人姉弟の末っ子で、三人の兄たちは戦時中、みな徴兵されて戦死。一つ上の姉とは年が十も離れており、その上もまた女であったという。万一、夢子と関係を持つ男子がいたとすれば正夫しかないが、ジャン=ジャックも河上も、
「それは絶対ありえない」
と言う。しかしあれほど姿の似た人間が生まれるとしたら、双子の姉妹に同じ精子がついたとしか考えられない。その謎は、ますます深まるばかりだった。
「ねえ、夢子さん……。もう真実を知ってるのは、あなたしかいないの……。お願い、思い出して……」
開け放たれた窓から吹き込む穏やかな風に吹かれながら、百恵は夢子の肩をさすりながら、そのやせ細った背中に顔をうずめた。しかし夢子は夢虚ろな目で空間を見つめるだけで、
「田舎に帰りてえ……」
を繰り返すだけだった。
なぜ、それほどまでに真実が知りたいのか?浩幸と別れ、愛し始めた菊池とうまくいくのであれば、二人が兄弟であろうとなかろうと、さほど重要な問題ではないではないか。
しかし、百恵の中ではそんなことを考える自分が許せなかった。あれほど浩幸を愛したはずなのに、浩幸が別人に姿を変えて、その後突如として現れた同じ姿の男を好きになるということは、結局、自分は浩幸ではなく、その人格や心でもなく、たまたま浩幸という名を持った男の、表面上の姿形を愛していたのと同じ事ではないか。
五歳の時の、あの出会いは何だったのか?
二十年という歳月を経て再び出会い、あの胸を焦がすほどの恋をした自分は何だったのか?
そして、あの結婚は何だったのか?
その理由付けをするのに、浩幸と菊池が赤の他人であることは、そのまま馬場百恵という人物が、とてつもない軽薄な人間である証明でもあった。その自縛の苦悩から逃れるためには、浩幸と菊池が兄弟である必要があったのだ。少なくとも、生命の次元においても、見間違うほどの生命の傾向性を持ち、その部分において自分とつながっていたという、それがせめてもの救いとなるはずだった。
自分は間違いなく浩幸を愛していた。
そして菊池もまた愛した。
それは二人は全くの別人でなく、生命のつながりにおいては、同じ命を持つ人物だったから───。
百恵は夢子の背中に顔をうずめたまま、彼女の衣服に目から滲み出た水滴をしみ込ませた。
そんな事を考えてしまう自分もまた、どうにも許せなかったのである。
否、そうではない。
真意を探れば、真実を知らぬままに浩幸から菊池に思いを傾ける、しっくりいかない不安定な心にこそあったのではないか。このまま感情に任せて突き進んだとしたら、再び同じ様なところで迷い苦しむ、未来の自分を見ていたからではなかったか。あるいは浩幸と菊池にとっては、取り返しのつかない結末を招いてしまうことも考えられた。要は複雑な理屈を弄ぶのではなく、現実に存在する二人の男と、その間で迷う一人の女の人生を生きる上で、真実を知らねばならない事は、最も単純な理性が導き出す結論であったかも知れない。
思いつめた人間は、時に道義にはずれた行動を起こしてしまうものである。百恵は職務上の権限を利用して、菊池に対して、「夢子の全部事項証明書(戸籍謄本)が必要になったので取り寄せてほしい」と電話した。最初、菊池も何に使うのだろうと不審そうに話を聞いていたが、
「分かりました。馬場さんに隠すことなんかありませんからね」
と、すっかり百恵に対して無条件の態度を示して約したのだった。果たして数日後、彼から送られてきた謄本には次の様に記されていた。
本籍 東京都云々……
氏名 菊池 夢子
戸籍に記録されている者 【名】夢子
【生年月日】昭和十八年十二月十六日 【配偶者区分】妻
【父】小松龍二
【母】小松いね
【続柄】二女
身分事項 出生 【出生日】昭和十八年十二月十六日
【出生地】長野県小布施町云々……
【届出日】昭和十八年十二月二十日
【届出人】父
婚姻 【婚姻日】昭和四十二年二月九日
【配偶者氏名】菊池隆男
【従前戸籍】長野県小布施町云々……
夫の隆男の欄を見れば、『昭和四十四年三月三十日午後八時十分東京都○○で死亡妻届出』とある。結婚して僅か二年で夫と死別していることが分かる。そこで最初に気づくのは、菊池の出生年と夢子の婚姻年の相違であった。計算が違わなければ菊池の生年月日は昭和四十年七月六日である。隆男なる人物と結婚する以前に、菊池は既に出生していたことになる。生後暫く婚姻届を提出しなかったことも考えられるが、そうであるなら、あれほど浩幸と似た子どもを産むことなどできるはずがない。
百恵は自分の中に潜む、もう一人の嫌いな自分の意志のおもむくまま、全部事項証明書に記載された夢子の出生地へと、恐る恐る足を運んだのであった。
そこには、昔は名家であったであろう大きな門構えの古い家が建っていた。住所も同じ、夢子が話していた岩松院もすぐ近くにある。ところが表札に書かれた氏が違う。
「岩崎……卓、あや───?」
百恵は首を傾げて中をのぞき込んだ。そこに、広い庭の畑で農作業をする一人の女性の姿があった。
「あのお、すみませーん!」
百恵の声に気づいた女性は、土で汚れた手と、顔から吹き出る汗をタオルで拭きながら、門前の百恵の所にやってきた。見れば六十くらいの健康そうな農業婦人である。
「ここ、小松さんの家だと思ったんですけど……」
「なあに、あんた小松さんの関係の人?」
百恵はうそぶきながら頷いた。
「まあ、せっかく来たのだからお茶でも飲んでいきなさいな」
婦人はそう言うと、近くにあった水道の蛇口から水を出すと手を洗い、そのまま百恵を広い家の縁側に座らせた。そうしてお茶の用意をはじめると、
「暑いからかき氷の方がいいかい?」
「おかまいなく!」
百恵は恐縮して強く遠慮した。そうして出された漬け物とお茶菓子と緑茶をすすりながら、「毎日暑いねえ」とぼやきながら、せかせかと動く婦人の世間話を聞いていた。
「たまにあんたのように小松さんを訪ねてくる人がいるんだよ。よほど顔の広い名家だったようでね……」
「じゃあ、おばさんも小松さんについては知らないのですか?」
「ごめんなあ。もっとも、遠い親戚関係だったことは確かなんだけんど、ほとんど付き合いがなくってなあ。十数年前にこの家は絶えてしまったみたいだよ」
「小松龍二さんの事はご存じですか?」
「龍二……?ああ、この家の家主のことだね。あまり詳しくは知らんが、どこかの医者に嫁いだ娘さんを早くに亡くし、かなりショックだったようだが、その後間もなく、追い討ちをかけるように妻も亡くして、以来ここで寂しく一人で暮らしていたみたいだけどな……。それ以上は……」
「それじゃあ、その娘さんに双子の妹さんがいたなんて話、ご存じないですよね」
「双子……?さあ……。ごめんな、お役にたてないで……。なんせ大昔、わしもここに一度遊びに来たことがあるみてえなんだが、なんせ物心付く前の話だで、なあんにも覚えておらん」
婦人は申し訳なさそうにお茶をすすりながら、漬け物をボリボリかじった。
ふと百恵は、小松家について調べるならば、何もこのような事をしなくても、浩幸が知っているのではないかと思った。母の実家の結末も知らない非情な息子などいないであろうと。しかし心に大きな隔絶が生じてしまった今になって、しかも、本人もきっと気になっているとはいえ、知らなくても良い秘密を立証するための証言を、本人から直接聞き出すことなど、いくら嫌いな自分であっても百恵にはできない。それに、現に自分の気持ちは、菊池の方に向いているのだから。
そこでも百恵は、自分の心に大きな矛盾を見つけていた。それは、真実を知るために、菊池に対しては職務権限を利用した立場で、仕事上実際には必要のない夢子の全部事項証明書を平気で請求したのに対し、浩幸に対しては、愛子の実家についての後先について、聞くことすらできないと決め込んでいる自分がいたことである。両者に対するその違いは何なのか。過去の男と未来の男との違いか、それとも大事に思っている度合いが違う現れか───。
百恵は婦人がかじる漬け物の音の中で、
「そうですか……」
と呟いた。そして、二人が兄弟であるという立証の糸口が完全に断たれたことに、大きなため息を落とした。