(七)双子の母

 菊池に対して芽生えはじめた恋愛感情と並行して、百恵の心で更に大きさを増してきたのは夢子の存在だった。菊池も浩幸の事は知らないと言うし、ジャン=ジャックもまた菊池母子とは無関係と言う中にあって、どうしても赤の他人とは思えない両者の関係を調べてみようと思ったのは、あるいは浩幸に対する情念を捨てきれない、彼女の一途な思いの現れであったかも知れない。その過去を知り得る者が唯一存在するとすれば夢子自身に違いなかったが、肝心の彼女は痴呆に犯され、もはやその謎の糸口は断たれてしまっているように見えた。
 そのような時、ふと思い出されたのが河上吾郎の存在だった。浩幸の父、山口正夫のライバルでもあり、旧友でもあった彼なら、何か知っているかも知れないと考えたのだ。思えば浩幸と結婚の挨拶のために一度会って以来、離婚してからその連絡すらしていないではないか。
 「きっと心配しているに違いない───」
 そう思うと、はやる心を抑えきれずに、その時から最初の休日を使って訪問しようと決めたのだった。
 百恵は身支度を済ませると、さっそく自分の軽自動車を発車させた。夏の陽ざしが本格的になりはじめた暑い日の事である。ところが長野市内に入る村山橋のところまでやってきて、手ぶらであることに気づいた。「この辺りのコンビニで売っている菓子折でも何でもいいや」とも考えたが、コスモス園の創始者でもある河上の事を考えたとき「それはないだろう」と思い直し、再び須坂市街に引き返すと、市内で唯一のハチミツ専門店に向かった。前に一度会ったとき、朝食はパンにハチミツを塗って食べていると話していたのを思い出したと同時に、高齢者でもあるし、健康食品なら喜ばれるに違いないと考えたのだ。
 一方通行の路上に車を止め、軒先に出荷されるダンボールが積まれた小さな店舗に入れば、中では一人の老婆が荷造りに忙しい。
 「いらっしゃい───」
 老婆は百恵を一瞥すると、再び荷造りの手を動かしはじめた。
 「あの……、贈答用なんですけど……」
 「これ見て決めてちょうだい」
 老婆はギフト用のカタログを百恵に渡すと、再び荷造りをはじめた。すると中から若い男性が現れて、老婆に「あの商品は送ってくれた?」と言い様に百恵に気づくと「あっ、いらっしゃい」と愛想良く笑いかけた。どうやら老婆の息子らしい。百恵はあれこれ商品を選択するために質問しようとも思ったが、忙しそうだったのではばかって、中から五千円程度のギフト商品を適当に選ぶと、「これ、下さい」と言った。
 「ありがとうございます。新蜜だからおいしいよ。熨斗はどうします?」
 「お願いします……」
 男は老婆に箱詰めを指示すると、気さくな口調で蜂の子を百恵に勧めた。
 「蜂の子。食べた事あります?うちの新商品なんだけど、こちらもどうです?」
 「蜂の子ですか……?」
 百恵は顔をしかめた。イナゴもそうだが、百恵にとっては苦手な食品の一つである。幼い頃、勇気を出して一度食べた事があるが、虫を食べるという行為自体気持ちが悪く、以来勧められても避けてきたものである。そこへ、白髪頭の私服の老人が顔を出した。
 「バカヤロウ。そんな綺麗なお嬢さんに蜂の子を勧めるとはなにごとだ!」
 どうやら一家の主らしい。老人は「すいませんね」と言いながら、
 「サービスで付けてやんなさい」
 と言い残すと外に出て行ってしまった。くれると言うのに断るわけにもいかず、ギフト商品の入った一緒の袋に蜂の子も入れると、百恵は河上の家へ向かった。

 河上は涼しい風の吹き込む縁側の窓を開け払って、椅子に座ってまどろんでいた。百恵はいつか浩幸と来た入口の路肩に車を止めて、玄関まで伸びる細い小径を歩きながらその姿を見つけた。
 「こんにちは!」
 突然の来客に、河上はびっくりしたように立ち上がった。
 「ご無沙汰しています!百恵です。以前、浩幸さんと一緒に来た───」
 「おう、おう」
 河上は途端に笑顔を浮かべると、手招きで百恵を呼び寄せ、暫くは何を言って良いのか分からない様子で、やがて「山口百恵ちゃんだ」と言いながら、縁側から家にあがるように促した。
 「こんなところから……?」
 「気にしなさんな」
 そうして奥の座敷に向かいながら「ばあさん!」と大声をあげた。百恵は仕方なく縁側に靴を揃えて上がり込んだ。そして河上と、間もなく姿を現した彼の妻を前にして、慇懃にお辞儀をした。
 「これ、お口に合うか分かりませんけど」
 先程買ったハチミツを手渡すと、河上の妻は「まあまあ、お気を使わなくてもよかったのに……」と言いながら受け取ったが、中の蜂の子を見つけた河上は、
 「おお、蜂の子か、珍しい。最近、すっかり耳が遠くなってね。わしとばあさんの会話も、なんだかちんぷんかんぷんで……。蜂の子は耳に良いそうだから、さっそく所望しよう。ばあさん、お酒をつけてくれんか。こいつをつまみに」
 「まあ、昼間っから」
 意外と喜ばれた事に、百恵はほっと胸をなで下ろした。
 そうして酒と蜂の子とお茶が置かれたテーブルを挟んで、河上と妻と百恵の三人は、暫くは交わす言葉も少なく静かな時間を過ごした。河上夫妻も浩幸の死という憂き目にあった百恵に対して何から言葉をかけてよいものか分からず、百恵も訪れた本当の訳を言い出すタイミングがなかったのである。河上は、暫くは蜂の子と酒の談義を繰り返していたが、やがて、
 「まことに残念だ……、浩幸君は……」
 と、ぽつんと呟いた。
 「この間、離婚の手続きを済ませました。今日は、その事をお伝えしようと思いまして……」
 「それもまた、残念だ……」
 河上は妻におちょこを差し出すと、妻は何も言わずに酒を注いだ。
 「貴方も食べなさい。香ばしくてうまいぞ」
 河上は百恵に蜂の子を勧めると、一つ箸でつかんで自分の口に運んだ。百恵は「そうですか?」と言いながら、自分が持ってきた手前、河上の勧めも拒めず、蜂の形をした茶色い物体を箸でつかんで一気に口中に放り込んだ。食べず嫌いとはそのことで、虫とは思えない何ともいえない美味さが広がった。調子に乗ってもうひとつつかもうとしたが、やはり蜂の形を見た途端、気持ちが悪くなって箸を置いた。
 「でも、まあ、死んだ人間をいつまでも待っているわけにはいかんからなあ……」
 「そうですよ。百恵さんにも人生がありますから」
 河上夫妻は絶えず百恵の立場を気づかってそう言った。
 「浩幸君が亡くなって、コスモス園の方はどうかな?なんでもフランス人が彼の代理をしているようだが……」
 「なんとかやってます。でも、理想と現実のギャップが大きくて……」
 「そうだろう。仮に浩幸君がやっていたにせよ、それは必ず浮上してくる問題だろうと、わしは思ってたがね……。それこそが、今後の医療介護の最大の課題だよ。浩幸君が成すべき仕事であった。しかし亡き後は、残されたあなた方の最大の宿題だろうね」
 河上はおちょこの酒を一気に飲み干すと、
 「ところで今日は、本当に離婚の報告だけに来たのかい?」
 と、言った。百恵は夢子の事を訊ねに来たわけだが、心の中で浩幸ではない男に関係する話を持ち出すのにかなり躊躇した後、
 「実は……」
 と切り出した。
 「浩幸さんのお母さんの事について、ちょっとお聞きしたいことがありまして……」
 「愛子さんのことかね?」
 百恵は静かに頷いた。河上は暫く黙り込んだ後、
 「それはそれは町でも評判の美しい女性だったよ」
 と、蜂の子をつまみながら話し出した。

 昭和三十年代後期───。
 まだ新設間もないコスモス園に、ある日正夫が神妙な顔付きで訪ねてきた。河上三十代後半、正夫は三十代半ばのまだまだ若い二人であった。
 「見合い?いよいよ正夫君も年貢の納め時だね」
 その時既に河上は既婚で、子どもも三人いた。
 「良い縁談じゃないかい。相手も名主のご令嬢だし、おまけに美人で有名だ。君のようなさえない医者の所に嫁に来てもいいと言ってるんだ。こんな良縁、願ったって二度はこないぞ。迷うことなんかない、結婚してしまえ」
 「いや、そうじゃないんだ……」
 「じゃあ、何が不満か?」
 「不満なんかないさ。ただ、申し訳ないんだよ……」
 正夫は自覚していた。いつまで経っても貧乏医院を脱することができず、このまま所帯を持っても苦労させてしまうことが目に見えていた。おまけに年が十歳以上も離れており、自分には勿体ない相手であることも大きなためらいであった。───そもそも事のいきさつはこうである。
 時は遡ってそれより数年前、後にその縁談を持ちかけた名主が急病で寝込んだことがあった。その名を小松龍二。もとより金持ちの家だったので、病気と知るや、県内の病院を渡り歩き、挙げ句に名のある東京の病院まで診療に出かけ、当時にして最高の医療技術を駆使して手術で身体を切り刻み、最高の薬剤を投与、服用し続けたが、膨大な治療費をつぎ込んだものの、関わる医師にことごとく見放されたのだった。結局、かかる医療機関を失い自宅療養するしかなくなり、成す術を失った家族は、最後に期待もしていなかった地元の寂れた風体の医院に望みを託すしかなくなった。その時の主治医が正夫だったのだ。
 「先生、わしゃ、もうダメだ。悲しいもんですね。いくら財産があったって、あの世には持っていけない。かといって、例え健康な身体を取り戻したにせよ、人はいつかは死ぬ。どうせ死ぬ身なら、早かろうが、遅かろうが同じことではないか。この年になって、ようやくその事に気が付いたよ」
 「何をいうんですか龍二さん!財産があるからこそ、よりこの世を楽しめる。健康だからこそ、この世をよりよく生きられる。命あっての物種じゃないですか!“生きる”ということに勝る幸福はないのですよ!」
 正夫の献身的な治療は、奇蹟のように龍二の健康を次第に快復させた。といっても、特別な治療をしたわけではない。彼の病は心から生じているものと見抜いた正夫は、ただただじっと枕元で彼の過去の償いの話を聞き、悲観的な発言に対しては楽観的な考え方を教示しただけだった。ところがそれが功を奏して、やがて龍二の病が完治してしまったのだ。
 驚いたのは龍二はじめ家族であった。その驚きの顔の中に、まだ二十歳になったばかりの愛子もいたのである。
 「先生、本当にありがとうございました。私の全財産を差し上げても、先生への感謝は尽きません。不躾ながら、先生はまだ独り身であるとのお話を聞きました。差し出がましいようですが、私の娘をもらってやってください!」
 と、愛子との正式な見合いの話が、ここで持ち上がったのであった───。
 小松愛子といえば、頭脳明晰にして器量よし。末は総理か大臣の夫人かともてはやされるほどの美貌の持ち主でもあった。縁談の話を聞いて、密かに涙する男も数知れなかったことだろう。それを片田舎の明日食う米にも難儀しているやぶ医者にやると言うのだ。
 「僕は結婚とは無縁だと思っていた。生涯、風来坊まがいの貧乏医者でいいと思っているんだよ。どうしたものか……」
 河上は正夫の頭をこづいた。
 「確かに正夫君には勿体ないご令嬢だ。しかし、それを断るというのは、正夫君の患者さんに対する報いとは、君も随分と冷淡な男だね」
 正夫は河上の襟首をつかんだ。
 「カネがないんだよ!嫁さんを迎え入れるに、最低限の家具や食器、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、今では三種の神器と言われる物すら揃えてあげられない。こんな僕に嫁を迎え入れる資格などない」
 「ばかめ!最初からそう言え!……で、いくら貸してほしいのだ?」
 こうしてトントン拍子に話が進んだのであった。

 百恵は、河上得意の漫談調の話しぶりに、終始笑いながら聞いていた。そして、彼が酒を飲む拍子に話がとぎれた時、
 「で、愛子さんもやっぱり須坂の人なんですか?」
 と聞いてみた。
 「いや。彼女は小布施の出身だよ」
 百恵は「はっ」とした。そして表情を俄に変えると、口早にこう言った。
 「愛子さんに姉妹は?お姉さんか、妹さん───」
 「はて……?聞いたことがなかったなあ……。結婚式の時もいなかったぞ。確か、兄弟姉妹はなかったんじゃないかな?……なあ、ばあさん」
 確かに苗字も違うから、百恵は「やはり思い過ごし」と思ったが、話を振られた河上の妻が、遠い記憶をたぐり寄せるように、やがて呟いた。
 「そういえば、妹さんがいるって言ってたような気がするわ」
 「妹───!?」
 百恵は思わず声をあげた。
 「え?そんな話し、聞いてたのかい?」
 河上は妻を疑うような口調で言った。
 「ほら、愛子さん、何度か家に遊びに来たことがあったじゃない。一緒にお料理作ったり。その時言ってたような気がするわ、妹がいたって……。そう、確かに言ってたわよ」
 百恵は上半身を机に乗り上げた。
 「その妹さんの名前───、もしかして───」
 「そうそう夢子さん。“愛”と“夢”だから間違いないわ」
 百恵は驚愕してせき立てた。
 「愛子さんと夢子さん、その、なんて言うか……似てませんでした?」
 河上の妻は、百恵の勢いに押されて驚きながら答える。
 「さ、さあ……、一度もお会いしたことないからねえ。でも、きっとそっくりなはずよ。双子って言ってたから」
 「ふ、双子……」
 百恵の武者震いは止まらなかった。
 「ひ、浩幸さんはその事、知らないんでしょうか?」
 「さあ、そこまでは……。でも愛子さん、あまり知られたくない過去のようで、私も深く突っ込んだ話はしなかったのよ───。ごめんなさい───」
 「なんだい、ばあさん。そんな話、わしには一度もしたことがなかったじゃないか?」
 「だって、あなたに話すような話じゃありませんもの。ねえ」
 妻は百恵を見つめて笑った。
 「でも待てよ……。仮に浩幸君が知らなかったにせよ、正夫君は知ってたはずだぞ。なぜなら、毎日往診に出かける家庭の家族構成を知らない方がおかしいじゃないか。仮にそうだとしたらだよ、───浩幸君には知られてはまずい、何かがあった……?例えば、妹の方と肉体関係があったとか……?」
 「あなた!」
 河上は呵々大笑した。
 「ありえん!ありえん!あのくそ真面目で、女に対してはこっちが恥ずかしくなるくらい小心者の正夫君に、浮気など出来るはずがない!」
 河上は手酌で酒を注ぐと、再び蜂の子を口にした。
 「でも、どうしてそんな事を調べているのかい?」
 先程から尋常でない百恵の様子に、首を傾げた河上が聞く。
 「実は……」
 と百恵は、現在特養棟に入所している夢子の話をはじめたのだった。彼女が小布施町の出身であるという事、痴呆の度合い、一日の生活の様子、この前一度だけ思い出した幼少の頃遊んだという家の近くの古い建物の話、そして、東京には一人息子がいるという事。しかし、菊池と浩幸とが瓜二つの顔を持つという事までは、さすがに浩幸と縁の深い夫妻の前ではできなかった。
 それを聞き終えた河上は、
 「しかし、よくその夢子さんが、愛子さんと関係があると分かったなあ」
 と、感嘆の色を隠せない様子であった。
 「デュマ先生がお母さんに似ていると言ってたもので……」
 百恵はつい口を滑らせた。
 「デュマ先生……?」
 「ああ、いえ……、デュマ先生が以前、浩幸さんのお母さんと会ったことがあって、似ていると言ったものですから……」
 夫妻は不審そうに百恵の顔をのぞき込んだ。
 「まあ、いずれにせよ死人に口なしだ」
 河上が再び笑いながら言った。
 「あなた!」
 「いいじゃないか。百恵君だってこれから強く生きていかなければいけないんだ。いつまでも浩幸君に引きずられてもおられまい。それに、わしも口が出せるうちが花じゃて」
 河上の呵々大笑は、夏の蝉時雨の中に溶け込んでいった。

 

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