(六)鉢合わせ

 菊池英靖という人物が山口医院前院長とそっくりであるという噂は、ジャン=ジャックも百恵も知らないところで瞬く間に広がっていた。およそ、菊池が最初にコスモス園に訪れた時に見かけた誰かが、矢も楯もたまらず口外したことは予想するに容易であったが、百恵と浩幸の過去を知る者にとっては、その後の百恵の動向こそが何よりの関心事であった。菊池の母の付き添い介護を名目に二人で出かけた事も、数日後には施設内で知らぬ者がないほど、よほど人とは、異性の関係に過大な興味を持つ生き物らしい。
 当の百恵は、そんな噂などあることも知らず、今日は、菊池が母の様子を看にくると知って以来、何となくはずむ心を隠せない様子で仕事をしていたのだ。
 昨日の晩の事だった───。
 百恵の携帯電話が鳴った。着信番号を見れば見馴れぬ番号で、不審そうに回線ボタンを押せば菊池であった。以前彼に電話をしたときに、彼女の携帯番号が相手の着信履歴に残ったものであろう。百恵は突然の彼の声に胸が高鳴った。
 「明日の晩、ご都合はいかがですか?」
 話せば、この間のお礼に是非にでも食事に誘いたい。明日は仕事が早く終わりそうなので、その足でコスモス園へ行くから、母の様子を看た後、それからの時間を「自分にください」と言う。百恵に断る理由などなかった。
 「仕事が終わってからなら暇してますので……」
 と、その申し出を受け入れたのである───。
 果たしてその日は、ジャン=ジャックが当番の定期診察の日であった。
 ばつが悪い百恵は、その日も大川に彼の付き添いをさせようと随分探し回ったけれど、要領の良い大川はその雰囲気をいち早く察し取ると、時間を見計らってどこかに姿をくらませてしまった。よほどジャン=ジャックが苦手らしい。他に任せられる要員もいたにはいたが、過去の通例でどうにも百恵が行かねばならない雰囲気があり、ついに腹を決めた彼女は、その付き添いとして同行したのだった。
 実に一年数ヶ月振りの彼との診察だった。もっともジャン=ジャックが浩幸であると知っている人物などいないから、周囲に不審を抱く者など一人もなかったが、歩く二人の間には、当人同士のみが感じることのできる大きなぎこちなさが漂っていた。
 暫くは無言の二人だったが、その重い空気に耐えかねたのか、やがてジャン=ジャックが、
 「元気そうで安心しました……」
 と、部屋から部屋への移動の間に言った。
 「何か良いことでもありましたか?どことなく嬉しそうだ……」
 「デュマ先生には関係ありません」
 つっけんどんな百恵の言葉に、ジャン=ジャックの心は痛んだ。
 「好きな男性でもできましたか?その表情、以前、僕を見ていた顔によく似ています───」
 百恵は立ち止まると彼の顔を睨みつけた。
 「どうやら当たってしまったようだ……。相変わらず、君は隠し事が下手な女性だ」
 「ほっといてください!」
 百恵は先に歩きだした。
 その後ろ姿を見つめながら、ジャン=ジャックの胸は締め付けられた。
 百恵が自分とは別の男と一緒になることは、手術以後の自分の願いではなかったか───。ところが彼女への思いを再確認してから、それが現実になったとき、どうにもやるせない感情が胸を苦しめるのである。それが浩幸のものであるのか、ジャン=ジャックのものであるのか分かりかねたが、いずれにせよ、浩幸の心が媒体となって発現していることには違いないと感じた。
 「先生、診察、お願いします」
 百恵はそう言うと、次の診察者である夢子の部屋へおもむろに入っていった。ジャン=ジャックは大きなため息を落とした。
 「夢子さん、診察……」
 入り様に言った言葉を止めたのは、横たわる夢子の脇に座っていた男の存在だった。男は百恵に気づくと、
 「やあ、馬場さん。実は商談をキャンセルされてしまって、もうこっちに来てしまいました」
 と、笑いながら立ち上がった。
 菊池である。
 百恵は言葉を失って、咄嗟に間もなく部屋に入って来るであろうジャン=ジャックを意識した。
 「貴方に会いたくて───」
 人なつっこそうな菊池が、こう言葉を継いだ時、何も知らないジャン=ジャックは部屋に入って来たのだった。
 百恵はどうすることもできず、その場に俯いたまま立ち尽くすしか知らなかった。
 次の瞬間、ジャン=ジャックが手にしたカルテ一式が、大きな音をたてて床の上に落ちた。いや、大きな音かどうかは分からないが、少なくとも百恵にとっては、ダイナマイトが爆発したような、この世の音とは思えないほどの大きな音に聞こえた。一方ジャン=ジャックにしてみれば、ひとひらの羽毛が落ちた時の音よりも小さく、自分が落としたことさえ気づかずに、意識は遠い世界に行ってしまっていた。全てが順調に運行する時間の中で、ジャン=ジャックと百恵の共有する時間だけが、その衝動の思いの形の位置を両極端にして止まっているのだった。
 やがてその空気の異常を察した菊池は、「どうしました?」と言いながら、ジャン=ジャックの足下に無造作に散らかるカルテを拾い上げると彼に手渡した。
 「あ、ありがとう……」
 ジャン=ジャックはそう言ったものの、菊池の顔を凝視したまま動こうとはしなかった。
 正常な時間の中にいる菊池の方は、自分がいてはまずかったと思ったふうで、暫くは何も言わずに狼狽していたが、薄々自分が前院長と似た顔をしているという話を思い出しながら、
 「あ、あの……」
 と、言った。
 ジャン=ジャックは頭を抱えて壁に寄りかかった。百恵は苦しそうにうずくまるジャン=ジャックを知りながら、その身体を支えようともしなかった。菊池は立ち尽くしたまま床を見つめる百恵の様子に首を傾げた。
 「すみません……。急に頭痛がしてきました……。一時間後に診察を再開します……」
 ジャン=ジャックはそう言うと、頭をおさえたまま、よろけながら部屋を出て行った。
 「行かなくていいの?」
 菊池は相変わらずの姿勢のままの百恵に言った。その声に我れを取り戻した百恵は、菊池にひとつ笑みを残すと、そのままジャン=ジャックの後を追いかけた。
 「あの二人───、何かあるな……」
 菊池はそう直感すると、再び母のベッド脇のパイプ椅子に腰掛けた。

 ジャン=ジャックは、スタッフ休憩ルームになだれ込むように入ると、そのまま仮眠用のベッドに横たわった。中にいた数人の介護スタッフ達は、時計が休憩時間でないことを確認すると、突然の医療法人理事の出現にばつが悪そうに出ていった。
 それより少し遅れて入った百恵は、ベッドのジャン=ジャックを確認すると、部屋にある小さな厨房でコップに水を注ぎ、それを持ってジャン=ジャックの枕元に立った。
 「大丈夫ですか……?」
 ジャン=ジャックは百恵の存在に気づくと上半身を起こし、差し出されたコップを握った。その握ったコップと彼の手の間に、百恵の両手が挟まっていた。ジャン=ジャックはその手を緩めようとはせず、そのまま水を飲み干した。
 「あいつは一体誰ですか?」
 ジャン=ジャックらしからぬ動揺をあらわにした口調で言う。
 「やっぱり浩幸さんも知らなかったのね、菊池さんのこと……」
 「菊池……?それでは彼は菊池夢子さんの息子さんですか?」
 百恵は静かに頷いた。
 「私、てっきり浩幸さんに双子の兄弟がいたのかも知れないと思ってました」
 「双子……?そんなことはありません。僕は一人っ子だ。以前に戸籍謄本を取り寄せたときも、僕に兄弟などなかった」
 「赤髭先生の隠し子……?」
 ジャン=ジャックは百恵の表情をじっと見つめた。
 「あの父が……?」
 そして暫く考え込むと、
 「確かに父は広い交友関係を持っていましたが、あの仕事一本のくそ真面目な父が、余所で女性を作るなんてことは考えられません。仮にそうであったとしても、母親が違うのにあれほどそっくりな人間など生まれるはずがありません」
 「でも、でも、どうしてあんなに似ているの?」
 百恵の瞳に涙が光った。その光で、ジャン=ジャックは百恵が菊池を愛しはじめていることを知った。
 「すみません。仕事中に余計な話をしました」
 百恵はそう言うと、先程から握られた手をほどいた。
 「一時間後に診察再開ですね。私、別の仕事がありますから───」
 振り向いた百恵の足を止めたのは、ジャン=ジャックの激しい情愛の声だった。
 「もう暫くここにいていただけませんか?せめて、僕の気持ちが落ち着くまで……」
 光の玉が百恵の頬を伝った。
 「やめてください。私たち、もう終わったはずでしょ?これ以上、私を苦しめないで!」
 百恵はジャン=ジャックの言葉の縄を振りほどくと、コップを洗って駆け足で部屋を飛び出た。

 その晩、菊池の車に乗って入ったレストランは、長野市街の国道沿いにあるイタリア料理の洒落た店だった。百恵を車に乗せてから終始明るい菊池は、仕事のことや母のこと、あるいは長野の名物などの話をしながら、窓際のネオンが優しくさし込むテーブルに、百恵をエスコートしながら静かに座った。
 「イタリア料理は嫌いですか?」
 「いいえ、とっても好きです。って言うより、食べ物なら何でも好き」
 菊池は愉快そうに笑った。
 「いいなあ。馬場さんくらいの年齢になると、あまり体裁を気にせず話してくれるから返って楽しい。たまに接待などで若い女性を食事に招待すると、見るからに私に話を合わせてくれるのはいいのですが、私の方が気を使って疲れてしまう」
 「どうせ私はおばさんですから」
 「そんなことは言ってません。馬場さんを見てると、ほんとの女性の美しさを感じるんです」
 「お世辞の上手な人は信用できません」
 二人の穏やかな笑い声は、食事が終わるまで萎えることはなかった。百恵はスパゲッティを食べ終えると口の周りを拭き、運ばれたコーヒーを一口飲んだ。
 「ところで、今日、母を診察してくれた外人の先生ですが……?」
 「デュマ先生のこと?」
 「デュマ……?」
 「ジャン=ジャック・デュマ。フランス人脳外科医。それがどうしました?」
 「い、いや、随分と若い先生だなと思いまして……。現在の山口医院の院長なんでしょ?よく日本から離れた他国に、あんな後継者がいたなあなんて思いまして。私なら、どんなに親しくしている外人がいたとしても、やはり後継選びの時には、自分の身内、もしくは側近の中から選出しますからね。あっ、ああ……、変な事言っちゃいましたね。実はあの先生が私の顔を見たときも、かなり驚いた顔をしていましたもので、ちょっと気になったのです」
 百恵は目線をそらして何も答えなかった。
 「馬場さんとあの先生とは、どういうご関係なんです?」
 百恵は菊池を見つめて微笑み返した。
 「どうしてですか?気になります?」
 今度は菊池が微笑んだ。
 「ただの医師と介護士との関係ですよ」
 「よかった。恋人なんて言われたら、私はどうしようかなんて考えてました」
 菊池はすっかり安心した様子でデザートを口に運んだ。
 「菊池さんは恋人同士のように見えたのですか?」
 「いや、なに、あの先生が私の顔を見てびっくりしていたとき、馬場さんの様子もとっても変だった。あの時、私もどういう態度でいたら良いかさっぱりわからなくなりましてね。その時、なんか感じたんですよね。下品な言い方ですけど、この二人できているんじゃないかって。恋人、あるいはそれ以上の関係じゃないかって……。でもよかった。今の馬場さんの話を聞いて、私の思い過ごしだったことがわかった」
 百恵は菊池の表情を浩幸と重ねながら微笑んだ。
 「これからもよろしくお願いします」
 テーブルの上に伸ばされた菊池の右手に、百恵の右手も自然に伸びていた。
 「こちらこそ……」
 その手から伝わる体温は、以前浩幸の手から感じ取ったそれとまったく同じであった。百恵は菊池に陶酔する意識を抑えられなくなっていた。

 

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