夢子の付き添いで息子の菊池と善光寺へ行った翌日、百恵は尾佐田の言葉に甘えて休暇を取った。実に一ヶ月半振りの休みは張り詰めた緊張感を解き放って、朝目覚めると時計の針は十時をまわっていた。
「あちゃ……寝過ごしたか」
百恵は大きく背伸びをすると、部屋のカーテンを勢いよく開いた。期待ははずれて、おもては昨日とは打って変わって、静かな雨がしとしと降っていた。百恵は小さな吐息を落とすと、部屋の扉に飾ってあった美しい風景のカレンダーを見つめた。
七月七日───。
その文字をぼんやり眺めながら、昨年の今頃は、浩幸がアメリカへ渡ってしまい、その誕生日すら祝ってあげることができなかった事を思い出していた。思えば彼の誕生日を一緒に祝ったことなど一度もないではないか───。
「織女と牽牛でさえ、年に一度は会うことを許されているというのに、私と浩幸さんとは、もはや会うことすら許されないというのだろうか……」
百恵は再び布団に顔をうずめた。しかし心の中に、以前とは違う何かが生まれていた。それは離婚という絶望の中に、ひとすじの光明をなして、わずかに心を明るくする何かであった。
菊池英靖───。
その光明の正体こそ、彼の存在に違いない。浩幸と同じ表情で笑う彼の言動に触れたとき、百恵の意識は浩幸の思い出と重なって、まったく新しい昨日の記憶の中の彼と浩幸とが、寸分違わぬ同一人物のように思えてくるのであった。
ふと、彼が夢子のために躊躇することなく買った新車の事や、善光寺でのお参りの様子、常に母に対して温かい眼差しを送る彼の姿を思い浮かべた時、思わず百恵の表情に笑みが浮かんだ。
「昨日は長野に泊まるって言ってたっけ……。今頃、何をしてるだろうか?」
百恵は菊池のくれた携帯電話番号を書いたメモ書きのことを思い出し、思い立ったように財布の中にしまい込んだそれを取り出した。
「そろそろ東京へ帰るころだろうか……?」
そう考えたとき───、
「いけない!」
浩幸に対する良心が、菊池に対して抱きはじめた情愛をうち消した。
私、何を考えているんだろう……
はじめて出会って、まだ二回しかお会いしていないのに、何だろうかこの気持ち───
まるで遠い昔から菊池さんを知っているような感覚があるのはどうして?
浩幸さんと似てるから?
きっとそうに決まってる。
そんなの最初からわかってた。
彼を見た瞬間、浩幸さんを失った悲しみが、「なんとかしてくれ!」って私の心をかき乱すの。そんなの最初からわかってた。好きになってしまうことを知っていた。
どうしてあんなに似ているの?
どうしてあんなに優しいの?
“運命の悪戯”なんて誰が言った言葉でしょうか?
そう、なんかこれって───、
北京ダックがどうしても食べたくなって、評判の中華料理屋さんに入って注文したの。そしたら「かしこまりました」って言ったきり、そのウェイターはなかなかやってこない。待つこと三十分。私のお腹はペコペコ。
そして、やっとやってきたウェイターがこう言うの。
「申し訳ありません。ただいまアヒルの肉が切れておりまして……」
ねえねえ、最初から言ってよ!
そして続けてこう言うの。
「あと二時間ほどすれば仕入れることができますが、どうしましょうか?かも鍋ならすぐにできますが」
ちょっとあんたねえ!確かに“アヒル”と“かも”は似ているわ!どちらも葱ととっても相性がいいのも知ってるわ!だからってどうして“北京ダック”が“かも鍋”になっちゃうわけ!?その前に、中国と日本は同じ東洋であることも知ってるけど、どうして中華料理店にかも鍋があるわけ?
でもその時、私のお腹がぐーって大きな音をたてて鳴るの。二時間待つか?それとも餓死すんぜんの食欲を満たすか───?
多分、十人に九人は“かも鍋”を注文するんじゃないかなあ……。多分、私も同じ……。
食べ物の話はどうだっていいの。そんなことより私の名前───。
そうよ、そう、
“山口百恵”になれなくたって、菊池さんと結婚すれば“菊池百恵”になれるでしょ?“恵”を“子”の変えれば“菊池桃子”になれるじゃない!永遠のアイドルにはなれなくたって、一世を風靡したアイドルには近くなれるじゃない!私にはそれで充分。
──────。
いけない…………
いけない…………この情愛…………
いったい私は誰を愛していたというのだろう?
浩幸さんの心?それとも、浩幸さんの姿?
そんなのどちらでもいい───。私が愛したのは浩幸さん───。
でも、もし菊池さんが私を愛してくれたなら、私は迷わずその腕の中に飛び込んでしまいそう……。
浩幸さんの身代わりに───。浩幸さんを忘れるために───。
いけない私…………
百恵は自分の携帯電話を取り出すと、メモに書かれた番号を押そうか押すまいか長いあいだ迷った。そして、昨日のお礼にかこつけて、人間として礼を尽くすことが当然であるという思いにまで理屈を高めると、やがてゆっくり番号を押しはじめたのだった。
五回ほどベルが鳴って回線ボタンを押した菊池の声は、やはり浩幸と同じであった。
『はい、もしもし───』
百恵の身体に衝動が走った。思わず「浩幸さん」と言いそうだった。
「あ、あの……、百恵です、馬場百恵……」
『ああ、馬場さん。昨日はありがとう』
「こちらこそありがとうございました。久しぶりに羽根を伸ばせてとっても楽しかったので、そのお礼を言おうと思って……。仕事にかこつけて随分遊んでしまいましたから」
『なにをおっしゃいます。私の方こそ素晴らしい誕生日プレゼントをいただきました。今度長野に来たときは、そのお返しをさせていただきますよ』
「いま、どちらですか?」
百恵はこのまま話を続けると、今日は振り替え休暇で暇を持て余しているという事を伝えるだろうと予感していた。もし、菊池との時間が合えば、その浩幸の声に誘われて、どこへでも会いに行くこともやぶさかでなかった。
『今、ホテルを出て、これから母の様子を見てから東京へ帰ります。施設で馬場さんに挨拶してから帰ろうと思ってたんです。今、そちらにいるんでしょ?』
百恵は少し残念に思いながら、
「あ、今日、私、お休みいただいているんです」
『なんだ、会うのを楽しみにしてたのに……。それじゃ、今度ゆっくり』
「はい。お仕事、がんばってください───」
百恵は浩幸と話していた口調と同じ調子で言った。
『ありがとう。それから、母をよろしくお願いします』
「はい!」
『頼もしいお返事ありがとう。それじゃ、運転中なので切ります───』
そう言って菊池は電話を切った。
長いあいだ百恵の心を覆い尽くしていた灰色の靄が、その時すっと晴れた気がした。まやかしの光か、いつわりの風か。いずれにせよ、悲しみに沈んでいた重たい空気が、彼の声を聞いただけで軽くなったのは事実だった。
百恵は携帯電話を無造作にベッドの上に置くと、久しぶりに太一のところに行って、赤ちゃんの顔でも見に行こうかと考えながら、仕事で家にいない母の恵が作った遅い朝食を食べはじめた。