(二十四)内緒の便り

 六月六日を過ぎて、ジャン=ジャックが我が子である美幸が子どもを出産したことを知ったのは、大樹が学習机の中に隠し持っていた、百恵からの手紙を密かに盗み読みした時だった。
 ふと、大樹の学校での生活が気になって、布団に寝かせた後、こっそり彼の机の引き出しを開いたのだった。無造作に詰め込まれた封筒は、引き出しを開くと同時にこぼれ落ちるほどの数だった。かれこれ三、四十通はあろうか、離婚届けに捺印を押してから、ジャン=ジャックの知らないところで、ほぼ毎日のように二人の心の交流は続けられていたのである。学校帰りの大樹がポストを覗き、彼女からの手紙を手にしてから家の中に入る光景がまぶたに浮かんだ。
 「大樹のやつめ……」
 ジャン=ジャックは目を細めて、封筒の中の便箋に綴られた、美しく可愛気のある文字を静かに読み始めた。

 パパにはないしょよ───。

 始まりは全てこんな書き出しだった。
 読みすすめるうちに、ジャン=ジャックの目にはみるみる涙がたまり、落ちて、手紙の一部を小さく濡らした。

 パパにはないしょよ。
 きょうの朝はやく、おねえちゃんの弟のおよめさんが赤ちゃんをうみました。とってもかわいい男の子。名前、なんだと思う?
 “浩幸”───。
 そう、大樹くんのパパと同じ名前。ふしぎでしょ?どうしてもお知らせしたくて、この手紙を書きました。おねえちゃんは大樹くんのパパが好きだから、赤ちゃんにこの名前をつけたら、いつまでもパパのことをわすれられなくなるから少し悲しかったけれど、でも、どうしようもないことってあるのだなあと思いました。
 話はかわりますが、学校の給食は残さずに食べていますか?それから、遅くても毎日十時にはお布団に入っていますか?大樹君が体をこわしたら、お姉ちゃんはとっても悲しいので気をつけてくださいね。
 それから、パパがカップラーメンやインスタントの食べものばかり食べないようにしっかり見はっていること。パパのいのちを守れるのは大樹くんだけだから。
 長くなりました。また、お手紙かきます。
 大樹くんへ
   六月六日                           馬場 百恵

 美幸の子どもの誕生を知り、ジャン=ジャックは思わず空を仰いだ。
 思えば、自分が山口浩幸であることを知らない彼女は、きっと死んだ父への思いを忘れないようにするためにその名を付けたことはすぐに分かった。
 「どいつもこいつもバカばかりだ……」
 そうつぶやくと、ジャン=ジャックは手紙をもとの封筒に戻し、もとどおりに机の中にしまい込んだ。そして、食器棚に飾ってあった古いウイスキーの栓を抜くと、小さなコップに氷を入れてゆっくり注いだ。
 手術以来酒など飲んでいない。実に一年振りのお酒の味は、彼にとって刺激が強すぎた。わずかばかり口に含んだだけで咳き込み、それと同時にすぐに酔いがまわった。
 「どいつもこいつもバカばかりだ───」
 同じ言葉を繰り返すジャン=ジャックの両目に涙がたまっていた。ふいに美幸の子どもの顔が見たくなったのだ。
 男の子か───
 どんな顔付きをしているのだろうか?
 自分が捨てた体とどこが似ているだろうか?
 性格は似てるだろうか?
 また、母親になった美幸はどんなだろうか?
 僕を殺したなんて苛んではないだろうか?
 美幸には、僕の真実を伝えるべきなのだろうか?
 めくるめく思いは尽きなかった。いつしか美幸とその子を見守ることができるのが百恵だけだと気づいた時、彼は思わずペンをとった。

 百恵さん───
 美幸のこと、よろしく頼みます。そして美幸の子どものこと、よろしく頼みます。僕にできることは、貴方にお願いすることだけだ。貴方を苦しめるだけ苦しめといて、結局僕には美幸のことで頼る人が君しかいない。都合のよい男と笑って下さい。ずるい男と責めて下さい。でもこれだけは信じて下さい。僕は貴方を愛してた。いや、いまでもずっと愛してる。こんな体になりさえしなければ、僕はずっと貴方と生きていきたかった。死ぬまで貴方の優しい笑顔を見ていたかった。僕は……

 ここまで書きかけて、ジャン=ジャックは手紙を破り捨てた。
 「いまさら何だというのだ」
 やるせない笑い声が、電気スタンドの明かりに浮かび上がる彼の姿を不気味に映した。やがて笑い声が慟哭に変わると、ウイスキーのコップを静かに置いた。
 「バカなのは僕だ……」
 人は一人では生きていけないことに今更のように気づいていた。再び取り戻すことのできない百恵の愛の大きさを、今更のように感じてしまった。
 時が解決してくれる───。
 強くそう言い聞かせる彼の頭の中に、これまで自分の前を通りすぎて行った大切な人達の顔が次々に浮かんだ。
 父の正夫、母の愛子───。西園の太った顔、痩せこけた河上吾郎の顔。初婚の美津子に再婚の好美。まだ幼かった美幸の顔に、そして大樹……。その一人一人が自分に励ましの声援を送っているように思えた。
 「浩幸、しっかりなさい───」
 と愛子の声。
 「母さん、抛っておきなさい。浩幸はもう大人なんだ」
 とは正夫の声。西園が何も言わずに微笑めば、河上は呵々大笑している。
 「私、あなたと世界一の幸せ者になろうと思ったけど、いいんじゃないの?あなたを誰よりも深く愛したけれど、かなわないな、百恵さんには……」
 好美が静かに笑いながら呟く。
 「お父さん、私、看護婦さんになったのよ!そして結婚して子ども産んじゃった!あんたの孫なんだからね、忘れないでよね!」
 幼い美幸が急に大人になって言う。次いで、
 「百恵姉さん、可哀想……。お父さん、なんとかしてあげて!」
 「わかっているよ、美幸……。でもね……」
 「分かってなーい!お父さん、ぜんぜん女の気持ち、分かってない!」
 「美幸……」
 「パパ───」
 「おいおい、今度は大樹かい?」
 ジャン=ジャックは脳裏に次々と浮かぶ人物に閉口しながら小さく首を振った。
 「パパ、ねえ、パパったら───」
 気づけばそれは妄想ではなく、現実の大樹が、暗がりの中眠い目をこすって立っていた。
 「大樹……。どうしたんだい?」
 「おしっこ……」
 ジャン=ジャックは破顔一笑すると、立ち上がって大樹をトイレに連れていった。そして用を済ますと、そのまま大樹と寝室に向かい、布団に寝かせてその寝顔を手枕で見つめた。
 「知らぬ間に大きくなりやがって……」
 ふと、目に付いたのは、部屋の片隅に置かれた小さな鏡台だった。手術でアメリカへ渡る前にはなかった物である。きっと留守の間、百恵が化粧用に購入した物に違いない。彼女が出て行って再びこの家に住むようになってから、ずっとそこにあったのだろうが、気づいてはいたものの、意識することなどほとんどなかった。それが無性に気になりだしたのは、その鏡台の前に座る、後姿の百恵の幻影を見たからである。
 「百恵さん……」
 ジャン=ジャックは立ち上がると、うっすらと埃のかぶった鏡台の前に立ち、鏡に映る痩せたジャン=ジャックの表情をじっと見つめた。
 「僕は、山口浩幸……」
 変わり果てた自分の顔を見るとき、彼は、生命倫理の道を踏み外してしまったのではないかと考えた。鏡台の小さな引き出しを開けば、そこに百恵の左手の薬指にしてあったはずのビーズの指輪が光っていた。それを手にすると、遠い過去の思い出が走馬灯のように甦るのだった。
 「わたし、お兄ちゃんのお嫁さんになってあげる!」
 幼かった彼女の瞳は、なんの汚れもなく、母愛子を亡くした悲しみをも優しく包み込んでいた。
 「貴方が二十歳になって、もし、まだその気持ちが変わっていなかったら、考えてもいいですよ」
 「わたし、ぜったい忘れないよ!」
 あの時の言葉は本心だった。現にあの時、彼女が五歳という少女でなく、法律上結婚が許される十六歳の乙女であったなら、彼は即座に母の死の悲しみを吐露して、そのまま彼女の腕の中に呑まれたに違いない。ところが五歳の明るい純真たるその言葉にして、どんな深い悲しみをも救ってくれたのだった。縁があればまた会えるだろうと、その時は未来への期待に、母の死という悲しみを乗り越えることができたのである。
 さらに、菅平のスキー場で彼女は言った。
 「多分私は、ずっとあなたを待っていた。心の奥の“いのち”であなたを待っていた。だから、あなたをこんなに好きになってしまったの……」
 あの時は分からなかったが、今考えれば、“いのちで待つ”意味が、ほんの少し理解できるような気がする。それは状況や環境ではなく、出逢うべくして出逢った二人の“いのち”の結びつきであるということが───。
 ジャン=ジャックは、再び鏡に映った自分の姿を見つめた。
 と───、慌てたように立ち上がると、書斎から自分のビーズの指輪を取ってくると、ふたつのそれを両手で力一杯握りしめた。そして、大粒の涙をひとつ落としたかと思うと、どこからともなく赤い裁縫糸を見つけてくれば、二つの指輪を、これでもかというくらいに堅く結びつけたのであった。
 日本列島に梅雨前線が北上する、そぼ降る雨の寒い夜のことである。

 

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