(二十三)苦悩

 ジャン=ジャックの苦悩は深かった。
 移植手術を終えて、帰国してからの最大の望みであった百恵との別れは、現実のものになった時、予想もしていなかった苦しみを彼に与えていた。それはまさに百恵の父洋が死んだ瞬間に託した、ジャン=ジャックにとっては何よりも重い感情の荷物でもあった。確かに、あんな事件が起る前に結婚の約束をした百恵に対する感情も真実であったが、今のそれは、別れという精神的生命力がマイナス方向に向かう状況下である分、耐え難かった。
 本当にこれでよかったのか───?
 彼は自分の身体を恨んだ。いっそ手術に失敗して死んでいたほうがどれほど楽であっただろうか。しかし死んでいればその後の介護医療の未来に関わる仕事などできなかったのだ。あの時彼は、けっして死ぬわけにはいかなかった。
 仕事をとるか、家庭をとるか……。
 結局、よくある葛藤パターンの枠にはめ込んで、自分の置かれた状況を当てはめて納得しようとするものの、百恵に対する思いは、日を追うごとに深まっていくのだった。
 「院長、どうなさいました?最近、顔色がさえませんね」
 ジャン=ジャックは相模咲子が院長室に入って来たことさえ気づかずに、もの思いにふけっていた。
 「なにがあったのですか?あの隣の家に引越してから、急に元気がなくなったよう……」
 ジャン=ジャックは咲子の存在に気がついて、その顔を見つめると静かに笑った。
 「どうしました?」
 「これからお時間をいただけないかと思いまして」
 咲子は仕事の表情をプライベート用の顔に変えてそう言った。
 「食事のお誘いなら仕事が終わってからにしていただけませんか?さあ、持ち場に戻りなさい」
 咲子はふて腐れたように時計を指差した。
 「それに私は今日日勤です」
 見れば夜の七時を回っている。ジャン=ジャックは驚いたように、
 「ああ、もうこんな時間か……」
 とつぶやいた。
 「先生、いったいどうしたというんです?このところ、全然私に付き合ってくれないじゃないですか?」
 「ごめん、今日はちょっと……」
 咲子は機嫌を損ねて机の上に手を置いた。
 「前院長の子どもの事ね、大樹とかいう……。先生が前院長とどういうご関係だったか知りませんけど、前院長の所持品だった家や車をもらって使うのは分かるけど、子どもまで引き取るなんて私には考えられない」
 咲子にとっては何気ない言葉が、ジャン=ジャックにとっては癇にさわった。もっとも自分の本当の正体を知らない彼女にしてみれば不思議がるのは当然のことだとは思ったが。
 「君には分かりっこないよ。分かるはずがない───」
 ジャン=ジャックは厳しい真顔でそう言った。
 そこに鳴った電話を取れば大樹で、「パパ、お腹が空いたよう」と言う。
 「もうじき帰るから何か一緒に食べに行こう。何が食べたい?」
 咲子は何も言わず、そのまま院長室を出て行った。

 大樹を連れて入ったのは、須坂インター近くのラーメン屋。大樹は久しぶりのラーメンに大喜びだった。そこで二人は味噌ラーメン二つと餃子を一皿注文した。
 「大樹はいまの生活に満足かい?」
 座敷でテーブルに運ばれたコップの水を飲む大樹の顔を見つめながら、ジャン=ジャックが聞いた。
 「えっ?どういうこと?」
 「今のような生活が続くけど、いいかいってこと」
 「別にいいよ。だって仕方がないじゃん」
 「仕方がないってことは、もっと他の生活を望んでいるのかい?」
 「別に……。お姉ちゃんがいればもっといいけど。でも、パパはいやなんでしょ?」
 ジャン=ジャックは言葉を詰まらせた。
 そこへラーメンが運ばれてきた。ジャン=ジャックは無意識のうちに唐辛子を振りかけた。その光景を見つけた大樹は、慌てて彼の手からそれを取り上げた。
 「おい、大樹、なにをするんだい」
 「だめだよ、そんなにたくさんかけちゃ。だってお姉ちゃんが言ってたよ。唐辛子は刺激物だから、あまりたくさんかけたら身体に悪いって。特にパパの身体には良くないから、僕が見張ってなきゃだめなんだ」
 「それも百恵さんが言ったの?」
 「お姉ちゃんの手紙に書いてあった……」
 大樹はそう言うと、自分のラーメンを食べ始めた。その箸の持ち方にジャン=ジャックは一驚した。
 「大樹、ずいぶんとお箸の持ち方が上手になったなあ。パパが気づかないうちに、お前はどんどん成長しているんだね」
 「お姉ちゃんがお箸の持ち方くらいしっかりできないと、大人になってから恥をかくって言って教えてくれたんだ。おいしいお豆のお料理を作ってくれてね、ぼく、それが食べたかったから毎日練習したんだよ」
 「またお姉ちゃんか……」
 ジャン=ジャックは苦笑した。大樹が生まれて七、八年の間、仕事の片手間に必死に子育てをしてきたつもりだったが、実は何も教えてあげてなかったことに今更のように気が付いた。それを百恵は、自分が留守のわずか一年にも満たない間に、食事のマナーに至る細かなところまで躾けているのである。ジャン=ジャックはとてつもなく大きなものを失ってしまったような絶望感にとらわれた。
 「ほかに百恵さんから教わったことは?」
 大樹は首を傾げた。
 「別に何も教わってないよ。ただ、毎日いっしょにいただけ……」
 「一緒にいただけか……」
 ジャン=ジャックは「大樹にはやはり百恵さんのような母親が必要なのか」と思いながら、ラーメンを口に運んだ。

 苦悩は続いた───。
 ある日は西園が院長室にやってきてこう言った。
 「コスモス園の特養棟の診察当番に、院長を組み込んでほしいとのお話ですが……」
 実は、百恵とは少し距離を置いて大切に見守ると洋に誓ったあの日、ジャン=ジャックは西園に、自分を特別養護棟の診察当番に組み込むように話していたのだ。ところが他の用事が重なって、過去数回の当番は、いずれも西園が換わりに行っていたのである。
 「院長はお忙しいようなので、やはりはずしておいた方が良いのではと思いまして」
 ジャン=ジャックは暫く考え込んだ。
 「何があったか存じませんが、百恵さんとは既に離婚したことですし、ご心配なのは分かりますが、あまり気をかけなくとも……」
 「彼女の様子はどうですか?」
 「院長……」
 西園は浩幸らしからぬ瞼の潤みようを見て言葉を失った。
 「離婚して暫くはため息ばかり落としている様子でしたが、最近はふっきれたのでしょうか、富に明るく振舞う姿が目につきます」
 ジャン=ジャックは「そうですか」と言ったきり、何も言わなかった。
 「やはり愛しているのですね。幼い頃から院長を知っている私には分かってしまいますよ。どうして離婚なんて……。院長には奥さんが必要なんですよ。まだ遅くありません。よりを戻されたら……」
 「西園さんまで僕を苦しめる……」
 ジャン=ジャックは時間を見計らうと、水といっしょに免疫抑制剤を飲み込んだ。その光景を気の毒そうに眺めながら西園は言った。
 「院長は、ご自分の身体では彼女を幸せにできないとでも思われているのでしょう。しかし、私は思うのですが、幸せというものは人に与えたり、与えられたりするものじゃないでしょう。幸せは、あくまで自分自身で築いていくものだと思いますがね。そんなふうに思われたら、彼女もきっと迷惑でしょう」
 西園は大兵な身体からは似つかわしくない言葉を吐くと、照れたように頭を掻いた。
 「西園さんは知っているでしょう、心臓にあるシナプスの話を───」
 ジャン=ジャックはそう言うと、突然人が変わったように語りだした。
 「ほら、また僕の中にジャン=ジャックが顕れてきた───。こうなると、もう、撲にも止められない。僕は以前、こんなに涙もろくなかった。こんなにお喋りでもなかった。そしてこんなに一人の女性を愛せる人間でもなかった!こうして感情が高鳴ると、僕は山口浩幸の理性を失って、完全にジャン=ジャックになってしまうのさ。僕は山口浩幸でもなく、ジャン=ジャックでもない。もう、百恵さんが愛した男はどこにもいないんだ!それに拒絶反応が起こって、いつ死───」
 「院長!!」
 西園の大声が狭い院長室に鳴り響いた。その気迫には、どんなにお喋りな人間の勢いあまる言葉の弾丸をも食い止める力があった。一瞬室内がシンと静まり返った。
 「あなたは山口浩幸ですよ!」
 西園の言葉は確信に満ちていた。どんな嘘でも信じ込ませる勢いと重みがあった。
 「あなたは私が心から師事する山口正夫先生のたった一人の御曹司、山口浩幸院長ですよ!さもなければ、あなたはこんなに苦しまない。私はこんな小さな頃からあなたを知っている。間違いない。あなたは山口浩幸です!」
 西園はジャン=ジャックの身体を覆うように抱きしめた。
 「ジャン=ジャック・デュマさんは院長の命の恩人なのです。いいじゃないですか、院長の命の中に、少しくらい恩人の居場所を作ってあげたって……。彼だって、院長の中で生き続けることを、きっと喜んでいるに違いありません」
 正気に戻ったジャン=ジャックは、やがて西園から離れた。
 「もう少し楽に生きましょう───。これは先代ではなく、院長が私に教えてくれたことですよ」
 西園は太った豊満な顔に、満面の笑みを浮かべた。それに応えて、やがてジャン=ジャックの表情にも笑みが戻った。
 「ところでどうしましょうか、診察当番の件は?」
 ジャン=ジャックは少し考えた後、
 「ご迷惑をおかけすると思いますが、やはり組み込んでおいてください。週一は無理だと思うなら月一でもかまいません。僕はやっぱり百恵さんを近くで見守っていたい……」
 それは洋が託した最後の願いとは関係のないところで顕れた本心だった。西園は、
 「わかりました」
 と、一言いうと、やがて院長室を出て行った。

 

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