(二十二)六月六日の出来事

 あの日、あんな事件が起こらなければ、百恵は今日この日に、愛する浩幸と結婚するはずだった。
 六月六日───。
 あの日、確かに約束した。自分の誕生日と彼の誕生日との中間に当たるこの日に結婚しようと。しかし過ぎ去る時間は彼女にとって、あまりに残酷だった。
 「なぜ……?」
 という思いが、脳裏から離れることはない。
 時に人間は、どう考えても説明のつかない自分の境遇に突き当たったとき、宿命とか運命とかいうものに結論づけることしか知らない。幸運、不運……、ついている、ついてない……、そのような言葉で片づく次元の話ならばよいが、事態が人生を決定づける重大な意味を持っていればいるほど、仏教的に言う“カルマ(宿業)”というものを感じずにはいられない。
 なぜ、自分が───?
 その答えを見いだすのに、古来より人間は哲学を産み、宗教を産んできた。しかし所詮、人間という五体と精神と思考の枠を超えられず、結局全知全能を傾けて産みだしてきた高等宗教でさえ、その枠内の空想や想像の力を借りて、さも現実味を帯びて説明しているも、宿命や運命を転換できることができない点において、非常にちんけなものになっている。結局、カリスマ的な何かにすがったところで他力本願的な宗教には力がなく、宿命や運命を変える力が存在するとすれば、それは自分自身の中にしかないだろう。そしてそれは、宿命や運命に破れた者には絶対に成すことのできない、自分自身の中にあるはずの、それに負けない生命力を湧現させるしかないのだ。
 ところが人間はそのことを本能的に知っている。自分の置かれた状況から脱するために、あるいは自然と縁したり、あるいはそれまでの環境とは違う場所に身を置いてみたり、あるいはやけ食いをしたり、やけ酒を飲んだり、あるいは誰にも邪魔されない一人だけの空間に身を置いたり、ある者は身内や他人に相談したり、ある者はその場所を離れて旅をしてみたり───。それらはそれまでの事態とは異なった縁に触れ、自分を蘇生させるための手段を本能的に成している事実と言えよう。それ自体が宗教的な行動である。
 しかし、その程度の縁では、内在する根本生命の力を湧現させることは難しく、苦しみの境遇の抜本的な解決を導くことはできない。縁に触れ人間が変わるものであるならば、周囲もまた変わってしまうからである。結局また、同じ様なところで同じ様な苦しみに再び出会う。その輪廻の中で人間社会は繰り返す。それを筆者は“痴呆の都”と名付けた。
 宿業に支配された人間生命を、抜本的に変革するものがこの世にあるとすれば、それは普遍にして絶対なものに縁していくこと。すなわちそれは、自然の営みでもあり、地球の運行でもあり、太陽系の運行を司る見えない力であり、生命の法則であり、宇宙のリズム───。一言でいえば、それらに裏付けされた宗教的なるものに違いない。キリストはそれを神と呼んだのか、あるいは仏陀はそれを法華経で説き、日蓮は妙法蓮華経と名付けたものか。そしてその力は地球上のそこかしこに偏在し、自分自身の中にもあるはずなのだ。
 ところがそれに縁する方途を知らない人間は、ますます生命に業を刻みつけ、他人どころか自分自身をも傷つける。人類が誕生してから何十万年も繰り返されてきた、これこそカルマではないか。
 しかし人間は生きようとする。
 老いて死んでゆく前に、子孫を残そうとする。
 人間ばかりでない。地球上に存在し得る全ての生物がそうなのだ。
 それを神秘と呼ばずに何と呼ぼうか。

 未明の産婦人科に耳をつんざく産声があがった。
 先程から暗がりの廊下に言葉もなく座っていた百恵と母の恵は、喜びと不安の表情を隠しきれずに立ち上がった。
 「おめでとうございます!元気な男の子ですよ。母体も無事です」
 間もなく分娩室から出てきた看護士がそう告げた。
 「そうですか!ありがとうございます!」
 恵はそれだけ言うと、涙を流したまま看護士の手を握った。
 「お母さん、そんなことより美幸ちゃん。早く赤ちゃんの顔を見に行きましょ!太一もきっと疲れ切っているわ……」
 一般病室に移された美幸の脇に、小さな命が静かな寝息をたてて眠っていた。
 「美幸ちゃん、おめでとう!」
 百恵は「かわいい……」と言いながら人差し指で赤ちゃんの頬を撫でた。
 「ねえ、名前は何てつける?私が考えてあげようか?」
 母の恵は、つい最近まで引きずっていた夫の死の悲しみを忘れたかのような喜びで言った。
 「名前……?」
 百恵はふと思い出したように俯いた。
 「男の子だからね。なんか、こう、力強い方がいいかもね」
 「お母さん、ごめんなさい。もう私、名前、考えてあるんです」
 美幸が言った。
 「ええっ?なあに?なあに?」
 美幸は百恵の表情を覗き込んだ後、少しためらったふうに、
 「浩幸……」
 と、答えた。
 「そうか、ヒロユキか……。で、どんな字?───」
 恵はハッと百恵の結婚相手の名前を思い出すと絶句した。
 「いいわね!馬場浩幸なんてステキじゃない?なんか作家にでもなりそう」
 百恵は精いっぱいの明るさを装って言った。
 「お姉さん、ごめんなさい……。でも、私、やっぱりお父さんの名前をいただきたいの」
 「なに言ってんのよ。私のことなんか気にしなさんな!」
 と言ったものの、百恵は俄かに湧き出た瞳にたまった透明の珠を隠すために、たまりかねて病室を飛び出した。
 先ほどから赤ちゃんの顔をじっと覗き込んで、何も言わずに幸せそうな顔をしていた太一が百恵の背中を見送った。
 「美幸、やっぱり姉貴には少し酷じゃないか?やっぱり名前を変えた方が……」
 「でも……」
 美幸は何も言わずに目を閉じた。太一はそのまま百恵の後を追った。
 太一が百恵を捕まえたのは、産婦人科の暗いロビーの一角だった。
 「姉ちゃん、やっぱり俺たち名前考え直すよ。あの先生が死んで、心の整理をつけて、やっと離婚してまだ間もないというのに、あんな名前付けようとする俺たちの方がいけないよ」
 「だから、私の事は心配しなくていいって!」
 「なんでだよ!だって姉ちゃん、泣いてるじゃん」
 「泣いてなんかないわよ!」
 百恵は瞳の水滴を右手の甲で拭き取った。
 「美幸には俺が説得させるからさ」
 「だから、そんな事しなくていいってば!」
 「なんでだよ!名前は一生あの子につきまとうんだぜ。あの子を呼ぶたびに、姉ちゃんはあの先生のこと思い出すんだよ。そんな姉ちゃん、見てられないよ!」
 百恵は太一の手を取ると、近くにあったソファに座らせた。
 「ありがとう、太一……。でも、お姉ちゃん、本当に平気よ。っていうより、私自身で乗り越えなきゃいけない壁だと思ってる。みんなが言うように、いつまでも引きずっていちゃいけないの」
 「姉ちゃんにそんな事できるんかよ」
 太一はよく言えば絶対に諦めない、悪く言えば執念の鬼である姉の性格をよく知っていた。どうでも良い事についてはまるで歯牙にもかけない判断を下すくせに、殊自分が心から決めた事に対しては、命をも捨てる覚悟で突き進む、自分の意思にバカ正直な姿を何度となく見てきたのである。
 太一の物心がついた頃、百恵は高校生だった。当時、絵を描くことにはまっていた百恵は、ある日、
 「学生絵画コンクールで金賞をとってみせる。太一、お姉ちゃんの姿をよ〜く見ておきなさい!」
 と言った事がある。太一はなんだかよく分からなかったが、その真剣な取り組みだけは感じることができた。しかし、一年経っても、二年経っても、金賞どころか佳作にも入賞しない。太一はその参加賞をもらうだけで嬉しかったが、やがて百恵は高校を卒業して、大学の絵画サークルに入ってなおも描き続けるのだった。そして大学二年に行われた絵画コンクールでついに入賞を果たし、その翌年には見事金賞をとったのである。太一は別段驚きもしなかったが、姉が勝ち取った景品のMDプレーヤーをもらった時はさすがに嬉しかった。確か小学校四年生の時だった。
 「太一、よく聞きなさい。人間は諦めた時、青春も終わるのよ」
 太一には、長々話す姉の話こそ早く終わってほしかったが、MDプレーヤーの手前、静かに聞いていた。
 介護福祉士になると言った時もそうだった。
 福祉関係の仕事に就くなど微塵も考えていなかったはずなのに、ある日突然、「おばあちゃんとの約束を思い出した」と言ったかと思えば、間もなくコスモス園に勤め始めているし、その三年後には血がにじむほどの苦学の末、見事に介護福祉士資格を取得しているのである。その時も、彼女の中にある不屈の執念を見る思いだった。
 また、こんな事もあった。
 百恵が大学を卒業して就職浪人していた頃だったか、ふと姉の貯金通帳を覗いたことがある。それは普段使用している様子のない、表紙に手書きで『ゴッホ通帳』と記載されているものだった。中を開けば彼女が中学生の頃は毎月五〇〇円ずつ、高校生になってからは毎月一、〇〇〇円ずつ、大学時代は毎月五、〇〇〇円ずつ、ちゃんちゃんと貯金していて、既に三〇万円近くたまっている。
 「何やってんのよ!」
 突然現れた百恵に驚けば、通帳は百恵に取り上げられていた。
 「人の通帳を盗み見するなんて、悪い趣味ね!」
 太一は言葉を失ったが、
 「そんなに貯め込んで何に使うんだよ?」
 と、吃りながら聞いた。「あんたには関係ないでしょ!」と言いながら、その時百恵は「本物のゴッホの絵を買うんだ」と教えてくれた。いつだったか、家族で美術館へ絵画鑑賞に行ったとき、一枚の絵の前で百恵の足がピタリと止まったという話を母から聞いた事がある。その絵こそゴッホの『ひまわり』で、百恵はその絵の前から何時間も離れなかった。
 「私、あの絵を絶対買う!」
 以来、お小遣いの一部を貯金することにしたと言うのだ。
 「毎月、少しずつでも貯めていれば、いつかはゴッホだろうが、ピカソだろうが買えるほどのお金になるわよ」
 「っていったって、あのクラスの絵は数億っていう単位だぜ!」
 「億かあ……。でもなんとかなるわよ。別に“ひまわり”でなくてもゴッホなら何でもいいの」
 太一は姉の百恵が空恐ろしく感じた。いつか、本当に手に入れてしまうのではないかと思ったのだ。
 一度決めたことに対しては果てしなく諦めの悪い姉の性格を考える時、太一は自分の胸がえぐられるような苦しみを感じていた。
 そんな太一の思いを知ってか、百恵は優しく語りかけた。
 「私より、美幸ちゃんが大事。彼女、本当の父親を知らずにあそこまで大きくなったのよ。あんなに可愛い赤ちゃんまで産んで……。美幸ちゃん、自分が受けた苦しみを、絶対に自分の子どもにだけは与えてはいけないって思っているのよ。“浩幸”って名前はその誓いの証しなのよ。私には分かる。私にはなれなかった本当の母親に、美幸ちゃんはなろうとしているんだって。私のことを気遣って、美幸ちゃんも苦しいのよ。でも彼女にとっては、母親として、けっして他人の情に負けてはいけない一点なんだって思う」
 「他人って……、姉ちゃんと美幸は姉妹じゃないか」
 「義理のね……。でも、血には勝てない……」
 「なんだか、姉ちゃんらしくない。あの先生が死んでから、なんだか姉ちゃん、変わっちゃったみたい……」
 「そんなこといいの。だからお願い。私はいいから、美幸ちゃんの気持ち、分かってあげて……」
 太一はやがて静かに立ちあがると、「わかったよ」と言い残し、新しい命の輝く部屋へと戻って行った。

 

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