(二十一)生まれくる生命

 休日出勤で、あったのかなかったのか分からないようなGWを終え、五月も中旬を迎えていた。
 役所に離婚届けを提出したその日から実家に戻った百恵は、母の恵を助けながらコスモス園へ通うようになっていた。大樹には別れも告げずに帰ってきた。顔を見れば、おそらく離れられなくなる事を予感できたからだ。置き手紙には「一緒に住めなくなった」と書き、生活上の注意点をいくつか連ね、最後に「大樹君のお母さんになれなくてごめんネ。さようなら」としたためた。学校から帰ってその手紙を見た大樹の顔を思い浮かべると、百恵の胸は張り裂けそうだった。
 実家に戻っても、母の話し相手になる以外はすることなどない。たまにとれた休みなど、その時間をもてあまし、かといってどこかに出かける気にもなれずに、レンタルショップで借りてきたお笑い系のDVDをひとり部屋でながめて暇をつぶした。とてもそれまで好きだった恋愛映画など見る気にもなれない、ましてや黒澤作品を思わせる高尚な物などは思い出すだけで涙がこぼれた。結局、流行りの若手芸人のお笑いステージやコメディ映画をむさぼるように借りてきては、今まで流した涙の数を埋めるように一人で笑いに明け暮れた。
 自分の誕生日さえ忘れていた。もっとも三十路を迎え、思い出すこともはばかったが、幸い悲しみに沈む母も忘れていてくれていたので助かった。
 家にいるより、“死せる病棟”にいる方が幸せだった。そこで答えるはずのない入所老人相手に話しかけている方が楽しかった。何も言わない老人にむかって、一方的にベラベラ話し、時に一人で笑っている百恵の姿を見て、介護、看護スタッフ達は気味悪がった。
 「百恵先輩、大丈夫っすか?」
 無駄口多きお調子者の大川でさえ、そんな百恵を奇特に思った。
 「ねえ、大川君、今晩ちょっと飲みに行かない?」
 介護記録を持ってきた拍子に、百恵は遊び半分で大川を誘った。
 「ええっ……?ほんとうっすか?でも先輩、お酒飲めないんじゃないんすか?」
 「いいの、いいの、今日から飲めるようになるから。私のおごり」
 ところが大川が喜んで百恵についていけば、入った居酒屋のカウンターで飲めないビールを一気に飲んだかと思えば、冒頭から上司や同僚の愚痴ばかり、機関銃のような一方的な会話にさすがの大川も話に入り込む余地がない。終いには無理して飲んだビールに酔い、三十分もしないうちにダウンしてしまった。呆れ返った大川は、ひとり無言でお酒を飲んでいたが、ふと、百恵の顔を覗けば、五月というのに夏を思わせる暑い陽気に、薄着になった彼女の胸の谷間が目に飛び込んた。思わず生唾を呑み込んだ大川は、暫くは目のやり場に困りながらも、チラッ、チラッと、そのふくよかな胸に視線を送らずにはいられなかった。
 「ねえ、大川君……、私を抱いてみる……?もう三十路のおばさんだけど……」
 百恵は酔いに任せて、呂律の回らない口調でそう言った。大川はドキリと姿勢を正すと、焦ったまま手元のビールを飲み干した。
 「お、起きていたんすか?寝ていたんじゃないんすか?」
 「なんていうかさあ、もういいんだ、どうでも。こう見えて、私まだ処女なのよ……。興味ない?三十路のバージン……」
 百恵は小さな欠伸をした。
 「百恵先輩、しっかりしてくださいよ。なんか最近すっごくへんすよ!ご主人との離婚届けを出して悲しいのは分かるけど……」
 「あ〜あ、なーんだ、エッチしたくないんだ……。あなた、私のこと好きって言ったじゃない」
 大川は、黙って自分のコップにビールを注いだ。
 「好きだけど、今の先輩は嫌いっす。はっきり言って……。大嫌いっす!それに、“どうでもいいから”ってどういうことっすか。俺をバカにしないでくださいっ。クリスマスの晩、先輩が流したあの涙は、嘘だったんすか?俺、正直言って感動したんす。こんなに純粋に人を愛している女性もいるんだって。俺もこんな素敵な女性と巡り会いたいって。でも、今の先輩は違う。俺は一途で、真っ直ぐで、きれいな顔して猪みたいに何にでも突進していく百恵先輩が好きなんす……」
 百恵は言葉を失って目の前に置かれたコップのビールを口に運んだ。
 「もう、やめてくださいっ!飲めもしないくせに!」
 大川は百恵の手からコップを取り上げた。百恵は周囲の客達を気にもせず、「なにすんのよ!」と言ったものの、暫く酔いのまわったうつろな目で宙をながめていたかと思うと、にわかに笑みをつくり、
 「お子ちゃまだと思っていたけど、随分と大人になったじゃない───」
 と、悲しそうに大きなため息を落とした。
 「でも、そうすることで、少しでも百恵先輩の気持ちが紛れるのなら、俺、ご主人のことを忘れるための道具になってもいいっすよ……」
 大川は真剣な表情で百恵を見つめた。
 「ばーか。冗談に決まってるじゃない───」
 大川はいつもの百恵の言葉に安心したように、「やっぱ百恵先輩はそうでなくっちゃ!」と、今度は大川が一方的に話し出すのであった。百恵はそれを上の空で聞いていた。

 そんな百恵の心をわずかに明るくしたのは、今は産休で休みをとっている光輝のところへ遊びに行ったつかの間の時間だった。
 お腹の大きかった光輝が、一月中旬に出産した事は知っていた。その時は、慌ててお祝いの電話を入れたが、特養棟へ異動したばかりで仕事にも慣れず、家に帰れば大樹の面倒を見なければならなかった忙しさにかまけていたので、「行く行く」と言いながら、結局今になってしまったのである。
 久しぶりの再会に二人は時間を忘れて会話に花を咲かせた。アパート暮らしの光輝は、夫の不満に、子育ての大変さ、姑問題に、小姑問題をならべたて、たいへんそうな状況を語ってはいるものの、言葉の裏には幸せがにじみでていた。百恵は暫く聞き手になって、その話を笑いながら頷いていたが、やがて赤ちゃんが泣き出し、光輝は「ああ、いけない、ミルクの時間だ。いまひとつ母乳の出が悪いのよね」と、キッチンにミルクを作りに立った。その間、百恵は赤ちゃんを抱き上げ、「よし、よし……」と言いながら、小さな生命を優しく揺らした。
 「モモ、落とさないでよ」
 「バカにしないで。こう見えて、子どもあやすの得意なのよ!小学校四年生の時から弟の面倒を見ていたんだから!」
 百恵はそうして赤ちゃんの首を支えながら上半身を左右に振り、いつしか浩幸との間に生まれた子どもを抱いている自分を連想していた───。
 キッチンではミルクづくりにてんてこまいの浩幸が、ミルクの温度が人肌になるよう調整している。
 「浩幸さん、まだ……?」
 「ちょっと待って───。こんなもんでどうだ?いや、まだ少し熱い───」
 「はやくう───」
 百恵は「ああ、泣かない、泣かない、もうすぐでちゅよお」と、ベロベロバーをやったり、頬ずりをしたり、キスをしてみたり───。しかし現実に戻り、光輝の赤ちゃんはなかなか泣きやまなかった。
 「はーい、できたわよ」
 光輝は百恵に抱かれた我が子の口に、ほ乳瓶の口を当てた。ところが赤ちゃんはミルクを飲もうとするものの、泣きやもうとはしなかった。
 「モモ、かして」
 光輝は百恵から赤ちゃんを取り上げると、やがて泣きやみ、静かにミルクを飲み始めた。
 「やっぱりほんとうの母親にはなれないな……」
 百恵は先程の想像を話すことができなかった。光輝もその話題には終始触れようとしなかった。
 「あっ、そうだ!弟の太一君だっけ?もうじきじゃないの?子ども産まれるの。予定日はいつ?」
 「六月のはじめ───」
 「六月かあ……」
 「でも不思議ね、生命って……。いったいどこからやってくるんだろう……」
 話は百恵の父の死に移り、光輝は「もしかしたらお父さんの生命は、太一君の子どもに宿ってまた産まれてくるんじゃないかな?」と言った。百恵もなんだかそんな気がした。
 ともあれ、自分が実現できなかった浩幸との子どもと、美幸を介してその血を引いて生まれくる生命を重ねながら、悲しみの中に光るたったひとつの希望を見いだすことが、今の百恵にとって唯一の喜びだった。


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