やっぱり私は“ババモモエ”───
白鳥になんかなれないの。
施設のおばあちゃん相手にお喋りしてるのがお似合い。
嫌いじゃないからいいけれど、私だってひとりの女───。
毎年桜は咲くけれど、気づけばいつも葉桜で、今年はなんとか間に合ってがりょう公園に来たものの、花の散りゆく光景は葉桜なんかよりもっと寂しい……。
いったいいくつの花びらのいのちを散らせば気がすむの?
地面も池もその畦も、すでに雪より白く染めているというのに、降りやむ気配なんかまったくないの。
私はひとりベンチに座り、行き交う家族やアベックの笑顔を見送ってる。
いっそ私も兆京垓の花びらの一枚になって、風に吹かれてどこへでも飛んでいきたい───。そして名もない土地にひとり落ちて、そこでひっそり暮らそうと思う。
めぐる季節を数えながら───。
あの人との思い出を抱きしめながら───。
ひとりで訪れたがりょう公園のベンチに座り、なにもやる気が起こらない百恵は、ぼんやりと散りゆく桜の花びらを眺めていた。
今日で今年最後の花見になるであろうと訪れた観光客のごった返しの中で、ひとりブルーに染まる百恵は、まるでよくできた蝋人形のようだった。
「なんでひとりでため息を落としているのだろう───?」
桜の中で彼女に気づく人々は、誰もが一度は首を傾げたが、声をかける者は一人もなかった。それどころか、見てはいけないものを見てしまった時のように、知らぬ素振りで通りすぎた。
虚ろな瞳を目覚めさせたのは、勢いよく花びらを散らせた突風だった。しかしその風に驚くでもなく顔をあげれば、宙に舞う数万の花びらが霞がかった大気をつくっていた。
「花びらで景色が霞むこともあるんだ……」
百恵ははじめて見るまるで爆発でもしたかのような白い妖精の激しい乱舞に、いっとき我れを忘れて見入ったが、暫くするとまた同じため息を落とした。
この世は痴呆の都───
慈しみを捨て去った人々の街。
悲しみを忘れた人間の住処。
そう言う私も痴呆になって、刹那の享楽に浸ったら、いったいどれほど楽だろう。
大丈夫。もうじき私もそうなれる。
この悲しき心を葬り去って、愛したあの人が言うように、きっと幸福をつかんでみせる。
うその幸福。
気休めの幸福。
それで残された時間を生きれるならば、それはそれで私の人生。
たかが男女の話じゃない。
たかが離婚しただけじゃない。
私は仕事の鬼になる。家庭も持たずに鬼になる。
だって、私は思ったのよ───、貴方と一緒にいれる残りの時間が、たとえ一年でも半年でも、たとえ数ヶ月だったにしても、私は貴方といたかった。ずっと貴方といたかった───。愛していても、別れなきゃならないことがあるなんて。
───でも、もう忘れることにする。
深くて暗い痴呆の世界へ。私はこの身を投じるわ。そして痴呆の世界の人達と、友達をたくさん作って、悦楽のお酒を浴びるの。快楽のゲームを楽しむの。
次に会った時、貴方はきっと驚くわ。見るも無惨に変わり果てた私の顔を見て驚くわ。
なぜそうなったかなんて言わせない。
貴方がそうさせたのよ!
握りしめた拳の甲に、冷たい水滴が落ちたとき、百恵は父の言葉を思い起こした。
でもお父さんは、何故浩幸さんが倫理の道を踏み外したって知ってたのだろう?
この秘密は西園さんを除いて、浩幸さんと大樹君、そして私だけしか知らないはずなのに……?あの夢の中でそんなことまで見えたっていうの?
そしてお父さんは言ってたわ。“厳然とした宇宙の道理”に従えって。“いのちから湧き出る自分の意志”に従えって……。
でも、
そんなの何かわからない!
ただわかっていることは、もう、浩幸さんとは一緒に暮らせない───
それだけ───
賑やかな露店が立ち並ぶ、人混みの風景が涙でかすんでいた。右手でそれを拭き取れば、視界は途端にひらけて、人々のざわめきと色鮮やかな景色を取り戻した。
ふと、その中のひとつ、お面や玩具を売っている店の前に、なにやら見覚えのあるひとりの男の姿をとらえた。その姿を何気なく見つめていた百恵だったが、次の瞬間、どこか遠くにあった意識をたぐり寄せると、彼女の瞳の瞳孔はみるみるのうちに見開かれた。
言葉など出るはずもなかった。
そんなことなどあるはずがなかった。
しかし、百恵が見間違うはずもなかった。
その男は、ジャン=ジャックに姿を変える前の、山口浩幸の姿であったのだ。
百恵は両目を見開いたまま、脳天を後に引っ張られるような感覚で、混乱する頭をどうすることもできなかった。しばらくは茫然とその場に立ち尽くすしか知らなかった。
浩幸は人混みの中で、その露店でピストルのプラモデルを受け取ると、笑顔で店の人に話しかけながらお金を払って、やがて桜吹雪の中を、百恵のいるところとは反対方向へ向かって歩き出した。
声もあげることもできずに、百恵は慌ててその後ろ姿を追いかけた。
しかし行き交う人に遮られ、その距離は次第に離れて、やがて花びらの中に消えていった。
足下の段差に気づかず百恵は転んだ。膝から血がにじみ出ていた。
「だいじょうぶ?」
と、手を差し伸べたおばさんにも気づかず、百恵は再び立ち上がった。
しかしもう、その浩幸の姿をとらえることはできなかった。
その後もだいぶ長い時間、公園の中やその周辺を探し回ったが、再び見つけることはできなかった。
「他人のそら似───?」
やがて「そんなことがあるはずない」と思い出し、人目も気にせず血相を変えて走り回る自分が情けなく思え、きっと神様が自分に最後の幻を見せてくれたのだと、自分を無理矢理納得させた。