(十九)離婚届

 洋の葬式が終わり、百恵が一枚の紙切れを持ってジャン=ジャックのもとに訪れたのは、それから数日後の事だった。
 「なんですか?それは……?」
 百恵に手渡された紙切れを手にしたジャン=ジャックは、静かに百恵を見つめた。
 それは紛れもない離婚届けだった。妻の欄には“山口百恵”の名と印鑑も既に押してあった。
 「私、本当にいろいろ考えました。でも、あなたの言うとおり、こうするのが一番いいと思って……」
 百恵は自分でも不思議なくらい淡々と言った。
 ジャン=ジャックは言葉を詰まらせた。洋が死んだ時に胸を覆い尽くした百恵を愛おしく思う感情は変わっていなかったし、「貴方のお父さんに貴方の事を任されました」とは、いまさら言えることではなかった。言ったところで信用してもらえる次元の話でない。とりあえずソファに百恵を招くと、あれこれ思いをめぐらせながら、二つのマグカップにコーヒーを注ぐと接待用の机の上に静かに置いた。
 「離婚届ですか……」
 「お父さんが死んで、家はお母さんひとりになっちゃうんです。いい機会だと思って……。家の荷物はまとめましたから、もう出ていくだけになってます。あとは浩幸さんがここに名前と印鑑を押すだけ」
 百恵はとてもジャン=ジャックの顔を正視できなかった。しかしその口調は、会いたくもない大嫌いな異性に会って、自分の意志を伝える時のような冷淡なものだった。いつまでそんな態度で話ができるか、百恵は今にもあふれ出しそうな悲しみを必死に押さえ付けていた。
 「市役所へは私が届け出ますので、これで全部おわりです」
 明るさを装った精一杯の百恵は、これだけ言うと俯いたまま黙り込んでしまった。
 「お父さんが亡くなって気を落としているでしょう。本当にすみませんでした。すべて僕のせいです。心から謝ります。なんてお詫びを言おうかずっと考えていました。しかし、何も思いつきませんでした───。お母さんの様子はいかがですか?」
 「だいぶ落ち着きましたが、なんかぼーっとしていて、何もする気がおこらない様子です」
 「そうですか……」
 ジャン=ジャックは百恵にコーヒーを勧めた。しばらく百恵はそれを飲もうともしなかったが、やがて薬指のビーズの指輪を見た瞬間、突然、堰を切ったように話し始めた。
 「私から言うのもへんですけど、大樹君の事、よろしくお願いします。やっぱり実の父親と生活するのが一番いいと思うから……。だけど、相変わらずカップラーメン好きみたいだから、あまり与えすぎないでね。それからゲームのやりすぎ、テレビの見すぎ、気をつけて。なんだか最近視力落ちてるみたい。小学生から眼鏡なんて、少し可哀想だから。それから夜更かし。朝、起こすの大変だから。規則正しい生活を取り戻すの、けっこうたいへんだったのよ!それから授業参観であなたが出れない時は教えてね。それくらいいいでしょ。私だって大樹君の成長がたのしみなの……」
 終わりの頃にはもう涙で言葉にならなかった。
 「百恵さん……」
 「それから、浩幸さんの持ち物も書斎にそのままになってますから───」
 百恵の慟哭はジャン=ジャックを一段と苦しめた。
 「百恵さん───」
 そう言いかけたが、浩幸の理性がジャン=ジャックの感情を押さえ付けた。

 これでいい───。
 これでいいんだ───。
 これが百恵さんにとって一番幸福になれる道なんだ───。

 突然、偏頭痛がジャン=ジャックを襲った。彼はそれを洋の怒りだと感じた。しかし時計を見ればそろそろ薬の時間で、慌てて錠剤を取り出すと、コーヒーと一緒に呑み込んだ。
 「どうしたの?頭が痛むの?」
 「いや……、なんでもない……」
 暫く頭を抱えてうずくまっていたが、ようやく頭痛がおさまって顔をあげると、そこに心配そうに自分を見つめる美しい百恵の顔があった。

 お父さん、すみません。やはり僕のこの身体では、百恵さんを幸せにすることなんか絶対できない。明日死ぬかも知れないのですから!だから、だから、僕は、僕なりに、少し距離をおいて彼女を見守り続けていたいと思います……。
 だけどご安心ください、これだけは誓います。彼女が困った時は、いつでもその力になるということを。
 僕の命が続く限り───。
 あなたの死に報いるために───。

 百恵の表情はジャン=ジャックにとって美しすぎた。思わず潤んだ両目を隠すために、慌てて立ち上がって背を向けた。
 「万年筆はどこだったろう───」
 胸のポケットにあることは知っていた。涙を隠す仕草は、もはや百恵には伝わらなかった。彼はデスクの引き出しからそれを取り出す振りをすると、鍵のかかった引き出しからは“山口”の名の印鑑を取り出した。
 涙が乾くまでにはまだ時間があった。ジャン=ジャックはそのまま百恵には気づかれないように、窓辺に向かって歩き出した。そこから新生コスモス園が見えた。こうしていれば、いつものように、後から百恵がすがりついて来るような期待を持ちながら、彼は暫く動かなかった。しかし、その期待は裏切られた。俯いた百恵の心は、もはや堅く硬く閉ざされていたのである。
 「なぜ、貴方と出会ってしまったのだろう……」
 ジャン=ジャックが言った。百恵は動かなかった。
 「出会わなければ、貴方をこんなに苦しめずにすんだ……」
 そして、次の言葉は口には出さなかった。
 「出会わなければ、貴方をこんなに愛さずにすんだのに……」
 そして振り向くとそのままソファに腰掛け、離婚届けの夫の欄に“山口浩幸”と書き込んだ。そして印鑑に朱肉をつけると、名前の後にゆっくり押しつけた。
 百恵はその光景をぼんやりながめていた。疲れ切った身体で、何かの映画のワンシーンを見ているように、自分とは無関係な世界の傍観者となって、印鑑の先端をみつめていた。
 紙に残った鮮やかな朱色を見たとき、百恵の瞳からひとつ、水色の雫が落ちた。
 「ありがとう……。浩幸さんの気持ち、嬉しかった……」
 百恵は離婚届を鷲掴みにすると、ジャン=ジャックの鼻もとに彼女のにおいをかすめて走り去った。
 残されたジャン=ジャックは、長い時間、そのまま動かなかった。

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