(十八)決断

 父洋の手術は成功したが、意識はいまだ戻らなかった。
 執刀はジャン=ジャック自らが行った。それは百恵の希望でもあったが、ジャン=ジャック自身の望みでもあった。
 百恵の父の命を救えるか───?
 ジャン=ジャックにとっては一種の賭にも似た手術であったが、一人の命を救うという医師として当然の使命感とは他に、“愛する女性の父”という特別な感情は、彼のメスさばきに神がかり的な冴えさえ与えたのであった。
 まさに完璧だった。
 術後は関わった医師や看護士から思わず歓声があがったのはもちろん、まだ若い医師伝田の最高の実地教育になったし、ベテラン西園にして「神が乗り移った」とさえ言わしめた見事なものだった。とうのジャン=ジャック自身、これまでの自分とは違う何かを感じていた。
 「彼女の父を死なせてなるものか!」
 終始頭からはなれなかったこの思いは、彼が百恵に対して抱いていた感情の現れであることは、彼自身知っていた。それまで遠ざけようと執拗に冷たい言動を続けてきた自分とは別に、手術をしながら、百恵を愛している心が露呈していたのである。おそらくその時の彼は、世界に名を馳せたどんな名医よりすぐれていたに相違ない。
 しかし、洋の意識は戻らなかった───。
 「先生、主人は本当に大丈夫でしょうか?」
 手術の成功と西園などの言葉から、一度は安心した母の恵であったが、昏睡状態が二週間も続くと、さすがに疲れた様子でため息をつくしかなかった。そうした恵を気づかって、仕事を終えた百恵は、毎日母を家に帰し、大樹を伴って洋の看病を続けることにした。大樹は山口医院での生活が楽しいらしく、ジャン=ジャックのところに行ったきり、百恵のところに戻ってくることは稀であった。
 百恵は父の寝顔を見ながら、行く末の事を考えずにはいられなかった。
 その心には、自分に対する大きな嫌悪感が残っていた。それは、ジャン=ジャックを浩幸と認めさせるために口走った、大樹を用いた誘導的な言葉であった。あの時は、咲子の存在も心に大きくあったから気づきもしなかったが、よくよく考えてみれば、遊びで一人の女性と付き合う人ではないし、結婚した相手に対し、「別の女性が好きだ」などと軽々しく言う人でないことは自分が一番知っているではないか。要は脳移植の弊害が全てで、浩幸であることをひた隠しに隠し続けたジャン=ジャックの心も知らず、自分の悲しみを晴らすためについた嘘に対し、脳移植の弊害のことを知らなかったとはいえ、結婚したのだからという事実と向こう見ずの感情だけで彼を追いつめた自分が、つくづく嫌になっていた。

 結局彼は、私を大事に思ってくれていたから、あんな冷たい態度をとったの───。
 バカなのは私───。
 彼の心の悲しみも知らず、解ろうともしないで……。
 彼と私を苦しめていたのは、結局私自身だった───。
 大樹君もそう……。
 デュマ先生と一緒の彼はほんとうに楽しそう……。
 ほんとは私なんかのところより、お父さんのところの方がいいくせに、その心を押し込めて、毎日私のところに帰って来てくれるの。そんな健気な大樹君の心さえ解ってあげられなかった。
 悪魔は私の方───。

 眠り続ける洋の顔を見たとき、思わずわんと泣き出した。
 「お父さん、私、どうしたらいい……?」
 百恵は洋の胸に顔をうずめたまま、ひたすら泣き続けた。
 どれほどそうして泣いていただろう。次第に泣き疲れて、声がぐすんぐすんとなりはじめた時、
 「百ちゃん。どうして泣いているんだい……?」
 頭のどこかでかすかな声が聞こえた。
 最初、その声に気づかなかったが、も一度聞こえたことに、百恵は“はっ”と洋の顔に目を向けた。
 「百ちゃん、どうして泣いているの?泣くのはおやめ……」
 「お父さん……。気がついたの?」
 百恵は洋の手を強く握りしめた。
 「夢を見ていた……。とっても気持ちの良い夢だ……。ところで、ここはどこだい……?」
 百恵は倒れてから今に至る経緯をはしおって伝えた。
 「そうだったか……」
 「野菜や果物をたくさん食べないからこんなことになるのよ。今度から私が行ってちゃんと栄養を考えたお料理を作ってあげるから、ちゃんと残さずに食べるのよ……」
 百恵の涙声に「すまん、すまん」と洋は答えた。
 「心配をかけたね……。でも本当に気持ちの良い夢だった。これを臨死体験というのかね?」
 洋は百恵の存在には上の空で、静かな微笑みを浮かべていた。
 「どんな夢……?」
 「うーん……。ちょっと言葉では言い表せないなあ……。広大な花畑の中のようであり、宇宙空間に浮遊しているようでもあり、近くにはキラキラ光る大きな川が流れていて、誰もいない静寂な空間だった。でもそこからは、百ちゃんやお母さんや太一や美幸さんの姿が見えるんだ。そしてみんなが考えていることも手に取るようにわかるんだ。それだけじゃないぞ。おじいちゃんやおばあちゃんもいて、お父さん自身の長い過去も、すべて同じ空間と時間の中に同時に実在しているというか……。宇宙の中にすい込まれるというか───」
 「ふうん……。不思議な夢……」
 「百ちゃんはほんとうにあの先生のことが好きなんだね」
 百恵は思わず「うん」と頷いていた。
 「お父さんやお母さんの承諾も得ないで、山口先生のところへお嫁に行ってしまったときは、私も正直ショックで夜も眠れなかったが、いま思えば、真っ直ぐで一途で、本当に百ちゃんは良い子なんだね。こんな素晴らしい娘を持って、親として誇りだよ」
 話がその話題に移って、百恵は父の容態のことなどすっかり忘れて、父に教えを乞うように心の内を打ち明けた。今まで恋愛の話など、母にこそすれど、父には一度もしたことがなかったが、その時の父は、全てを優しく覆い込んでくれるような温かい表情をしていた。
 「お父さん……。でも、私、あの親子を愛すれば愛するほど、もう関わってはいけないんじゃないかって思い始めてる───」
 「そうだね───。あの先生は倫理を踏み外してしまった。厳然とした宇宙の道理に逆らえば、必ずそのひずみがどこかに出てくる。親としては反対だね」
 百恵は悲しそうにうつむいた。
 「でも百ちゃん。自分の生命から湧き出る意志に逆らって生きることは、これもまた、厳然とした宇宙の道理に逆らうことなのだよ」
 百恵は目の前の父が、まるで別人であるように思えた。全てを悟ったというか、なにか神聖な精神が父に宿って、自分を導いていると感じた。しかし顔を覗けば幼い頃より自分を育ててくれた紛れもない父で、それは、臨死体験を経た人間のみが知り得る境地であったかもしれない。
 「いいんだよ、百ちゃん。今のまんまで……。自分の信ずる通りに生きてごらん。たとえ百ちゃんが地獄に落ちようと、お父さんは百ちゃんの味方だ……」
 「お父さん……」
 その言葉を最後に洋は静かに目を閉じた。

 翌朝───。
 洋の身体の機能の全てが停止していた。
 巡回の看護士が蒼白になって、連れてきた西園の言葉は信じる事ができなかった。
 「ご臨終です───」
 百恵は「まさか」の表情でそのまま泣き伏した。
 その死を信じられない人間は百恵だけではなかった。
 西園の報告を受けたジャン=ジャックは、
 「ばかな!手術は完璧だったはずだ!」
 と叫んだ。そして院長室を飛び出し、早足で歩きながら、
 「西園さん、術後なにか気になった点はありましたか?」
 「長い昏睡状態でしたが、心拍数、脈拍数ともに正常で、徐々に快復方向へ向かっておりました。私にも信じられません」
 「本人に生きる意志がなかったということか!」
 思わず叫んだ言葉の裏に、
 「僕が殺してしまった……」
 という無念と罪悪感があった。そして、洋の亡骸が横たわる病室に飛び込んだ時、ジャン=ジャックは確かに洋の言葉を聞いた気がした。
 ───先生、どうか百恵をよろしく頼みます───
 ジャン=ジャックは茫然と立ち尽くした。
 『こ、この親父……、死んで僕と彼女のよりを戻そうとしたな……』
 ジャン=ジャックの直感は、あくまで同じ生死を乗り越えた人間の中に湧き出た何の論拠もないものであったが、洋の死に顔を見たとき、確かにそう思ったのだった。そして次の瞬間、「僕が殺してしまった」という思いは瞬く間に増幅し、両目から大粒の涙をぼたりと落としていた。
 「くそっ!ジャン=ジャック・デュマめ!」と思いながら、泣き伏す百恵に目を移せば、いままで堰き止めていた彼女への思いが大爆発をしたようにあふれ出た。
 『僕には百恵さんを幸福にする使命がある───』
 しかしその時既に、百恵は山口浩幸と別れる決断をしていた。

>> Home

セーブ・ザ・チルドレン 世界中の子どもたちを支援しています