(十七)脳溢血で倒れた父

 突然百恵の携帯電話が鳴ったのは、言葉もなく山を下った二人が、公園駐車場に置かれたニュービートルの前に辿り着いた時だった。
 「さようなら……」
 その言葉を伝えようとした百恵は、心の切なさから逃れるように、ポケットの携帯を取り出し回線ボタンを押した。
 「お母さん、どうしたの?……」
 電話の相手は母の恵で、応対の百恵の表情はみるみる硬直していった。やがて動転した様子の百恵は、
 「きゅ、救急車、はやく救急車を呼んで!」
 と叫んだ。話の内容が尋常でないことに、ジャン=ジャックは、
 「どうしました?」
 と言った。
 「父が、父が突然倒れたって……!」
 ジャン=ジャックはひったくるように百恵から携帯を取り上げると、
 「お電話変わりました。私は山口医院のデュマです。落ち着いて詳しく症状を教えて下さい」
 と、何度も相槌を打ちながら、
 「まず、衣服を緩めて安静に寝かせて下さい。吐いた物が気管に入るといけませんので顔は横に向けて、いいですね。安心して。今からすぐに行きますので!」
 電話を切ったジャン=ジャックは、
 「早く乗って!」
 と、百恵の手を握って車に押し込んだ。
 「で、でも……」
 「いいから!脳溢血の可能性が高い。ここからなら救急車より僕らの方がはやい」
 と、直ちに馬場家に急行した。

 横たわる父の手を握りしめながら、枕元の百恵はじっと父の顔を見つめていた。母の恵は落ち着かない様子でキッチンで、煮え立つ湯の泡を見つめていた。
 父の名を馬場洋という。馬場家に婿として養子に入った無口な男で、百恵は幼少より彼に叱られた事は一度もない。昔からサラリーマン一筋の真面目な性格で、結婚当初は祖父の権限が強い家だったから、いつでも部屋の片隅で静かにお酒を飲んでいることが多かった。百恵がまだ小学校に入学して間もない頃か、そんな洋を淋しそうに感じて話し相手になってあげた事がある。
 「なに飲んでるの?」
 「これかい?これはお酒だよ」
 「お水みたい……」
 「透明でお水みたいだけど、中身はぜんぜん違う。飲んでみるかい?」
 喜んだ百恵はそのコップの液体を一口飲んだ。が、次の瞬間、全部吐き出した。
 「まっずい!」
 高笑いした洋は自分の袖で、百恵の口許を優しく拭いてくれた。体質もあるのだろうが、以来お酒はまずいという印象がインプットされ、大人になっても飲めない。
 「百ちゃんは大きくなったら何になりたいの?」
 めずらしく洋はおしゃべりで、百恵を抱き上げるとそう聞いた。
 「お嫁さん!」
 「そうかい、お嫁さんになりたいのかい?」
 そうしてもう一口お酒を口にすると、
 「世の中にはね、見た目が同じでも中身がぜんぜん違う人もいるから気をつけるんだよ」
 と言った。百恵は「お酒のように?」と言った後、「うん!」と答えた。
 父とのそんな思い出を回想しているうちに、やがて、ジャン=ジャックは一連の診察を済ませた。そして、携帯で医院へ車の手配をしたあと、道具を診察カバンにしまい込んだ。
 「このカバンは僕の父、山口正夫が往診に使っていたものです。持ち歩いていてよかった」
 やがて湯のみにお茶を入れた母の恵は、それを静かにジャン=ジャックの横に置いて、
 「どうなんですか?先生……」
 と心配そうに聞いた。
 「やはり脳血管障害です。おそらく脳溢血だと思います。CTで精密に調べてみないと詳しい状態は分かりませんが、いずれにせよ入院させないといけません。いま、医院から車を呼びましたのでご安心下さい」
 「主人はどうなるのでしょうか?」
 「出血の状態を見なければなんともいえません。すべては検査結果で分かることです。運がよければ保存的治療も考えられますが、手術するようになると考えた方が良いかも知れません。いずれにせよ、後遺症が残る可能性が非常に高い……」
 「後遺症って……?」
 ジャン=ジャックは、「いまはこれ以上はなんとも言えません」と、口をつぐんだ。号泣する母の肩を百恵が抱いた。
 「お母さん、大丈夫だってば。デュマ先生はとっても腕の良い脳外科医なんだから!」
 そう言う百恵も震えていた。
 やがて山口医院からの緊急車輌が到着すると、父は車に運び込まれ、
 「着替えとかは私がまとめて持っていくから、お母さんはお父さんに付いていてあげて……」
 と、百恵の言葉に頷いた恵は、そのまま付き添いとして病院へ運ばれていった。
 玄関先で車を見送った百恵とジャン=ジャックは、次第に暮れていく夕日の中にいた。
 「西園さんに大至急CT検査をするように依頼しておきました。もしかしたら、今晩、緊急手術になるかも知れません。覚悟しておいて下さい……」
 「先生、父を、父を助けて下さい!」
 百恵はジャン=ジャックの手を握りしめた。
 「僕は神じゃない。しかし、ベストを尽くすことならできます」
 「おねがいします───!」
 そこへ慌ただしく到着したのが、間もなく出産予定日を迎えようとする美幸であった。美幸は車を飛び降りると、大きなお腹を支えながら、
 「お姉さん、お父様は?」
 と息せき切って百恵の対面に立ち止まった。
 「美幸ちゃん……、ダメじゃない、おうちでおとなしくしてなきゃ。転んだりでもしたらどうするのよ───。それより太一は?」
 「太一は仕事。お母様から連絡をいただいて、びっくりして飛んできちゃった……」
 「もう、こまった子ね」
 と、百恵の横に茫然とした様子で立っているジャン=ジャックを見つけると、美幸は驚いた表情で身体の動きを止めた。
 「あ、ああ……、この方?その、なんていうか、山口医院の新しい院長先生……」
 百恵は戸惑いながら説明した。ジャン=ジャックは心の動揺を隠しきれずに、
 「それじゃ僕は、医院に戻ります」
 と、診療カバンを取りに家の中へ入っていった。
 その姿を最後まで目で追いかけた美幸は、
 「新しい院長……?……も、……もしかして……、私のお父さん……?」
 と言った。
 「な、なにを突然言い出すかと思ったら……。へ、へんよ美幸ちゃん、まったくの別人をつかまえて……。どうしてそんなふうに思うわけ?」
 「なんかわかんないけど、そんな気がしたの……」
 「そんなことより、お父さんの着替えをまとめて、早く山口医院へ持って行かなきゃ」
 「お父様、入院したの?」
 「そうよ。荷物まとめるの、手伝ってくれる?」
 「了解!そのために来たんだから!」
 荷物をまとめたジャン=ジャックが家から出てきて、二人に一礼すると、そのまま車に歩き出した。
 「美幸ちゃん、ちょっと先に入って準備していてくれる?」
 百恵はそう言うと、ジャン=ジャックを追いかけた。
 「デュマ先生、待って!」
 振り向いたジャン=ジャックの両目に涙がたまっていた。
 「な、泣いてるの……?」
 「美幸の顔を見た途端、なんだか急に悲しくなってきました。しかしこれは僕じゃありません。ジャン=ジャックの仕業です」
 「そんなのどっちでもいい。美幸ちゃん、あなたをお父さんだと勘づいた。なぜ?なぜ分かったの?美幸ちゃんのお腹、見たでしょ?あなたの孫よ。もうじき生まれるの。このまま隠し通すつもりなの?」
 「大樹と違ってあいつはもう結婚して、こうして新しい家族までできた。いまさら僕が出ていく必要もないでしょう」
 「浩幸さんのバカ!」
 百恵はそのまま家に入っていった。ジャン=ジャックの指先に、振り向きざまに飛び散った涙の感触を残して。
 ジャン=ジャックはその後ろ姿を見つめながら、何十年も前の、同じ玄関先の光景を重ねていた。
 「あの時、君はまだ幼かった……」
 そして内ポケットの奥にひそめたビーズの指輪を、力一杯握りしめた。

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